第04話 05

 泣き出しそうな表情で、卯月さんはおれに問うていた。彼女の中のありったけの勇気を総動員したに相違ない、いまおもい返せば瞭然であった。しかし変調をきたしていたそのときのおれに、卯月さんの真意を汲むことはできない。質問に質問を返してしまう。答えるべきか否かといった配慮はもない。この前って、何だっけ、そう無思慮に尋き返していた。

 う、と彼女は口ごもってしまう。卯月さんにしてみれば、自分を受け容れてくれたことに、少なからず自信をいだいていたのかもしれない。自分の気持ちを察したうえで、受け容れてくれたのだと。しかし果たしておれは、愚鈍なままだった。卯月さん、一緒に入りたいから入りに来たんだろうなと、現状に認識が追いつき始めても、そんな極めて浅い結論にとどまるであった。

 と濁ったを向け、無邪気に問い返す。ごめん、おもい出せないやと。実際は一秒たりとも時間を費やしてはいない。完全に考えることをやめていた。分からないなら尋けば良いと、安直にすぎる行動をっていた。……責任転嫁をするつもりはない。おれはそこまで卑怯者ではない。それでも述べたい、どうして卯月さんは気づけなかったのかと。おれが平時の状態ではない、ということに。……もちろん理由など判然としている。卯月さんのそのときの心境をおもんみれば、それが無理な要求だと即断できる。そう、即断できるのだが……、それでも冷水を浴びせられたかのような反応を示した卯月さんだったら、可能性を浮かべることくらいはできたんじゃないかと、心根の卑しいおれは考えてしまうのだ。

 さて、当の卯月さんである。おれのあまりの愚鈍な返答に、彼女は一瞬、苦いものを呑んだかのような表情になった。(怒らせてしまったのかもしれない、いや、失望させてしまったのかもしれない、どちらにしろ、好意的な解釈はできそうになかった。)それでもに、彼女は返答する。ほら、その、と。

「その……、関口くん、つ、付き合っている女性ひと、いるのかな、って……」

 そう恐る恐る、彼女は揺らぐ瞳で見つめたのだった。

 そのときの卯月さんを、おれはと憶えている。――怯えていた。しかしその裏に、期待をと滲ませていた。当然だろう、成功の算段もなしに、聡明な卯月さんが行動に出るとは考えられない。確かな感触を摑んだと判断したに違いない。……それはまったくおれのせいだ。おれがあまりにも快く彼女を受け容れてしまったからに相違ない。彼女の誤解を、いったい誰がわらえようか。告白の成功を期待したのは、何も自信過剰からではないはずだ。同じ状況に置かれたなら、誰しも少なからずは勝算を意識するに違いない。一緒にお風呂に入る間柄とは、世間一般の常識に照らせば、友達以上と断じてもおかしくはないはずだ。卯月さんの貞操観念がどうかは知らないが、恐らく彼女も大差はないはずだ。お互いの裸を見せあう関係に、自分がれた――彼女にしてみれば、それはもしかしたら、告白の成功と同義であったのかもしれなかった。

 しかし現実は非情で、無情で、そして無慈悲であった。……いや、この期に及んで、聞き苦しい戯言ざれごとを述べるのはやめよう。そう、情を知らないのは、紛れもなくおれ自身だった。ここにおれは、己の罪を告解こっかいしようと思う。おれの罪、それは、――“菜子”以外のそのすべてを、おろそかに扱っていた、というこの一事いちじである。おれはまったく怠っていた。なるほど、表面上は、違うふうに見えたかもしれない。皆との交わりに精力的に励んでいる――、一瞥いちべつするとそれが事実であるように思えるかもしれない。だが実際は違っていた。おれが皆と共にいるのは、ただ“菜子”との関係が壊れてしまわないためのものだった。一時期バランスが崩れたときのように、皆の不審をこうむらないためにと行なっていたものだった。そこに真心は存在しない。真実おれの目には、皆は風景の一つ程度にしか映っていなかったのだ。

 無機物に対する新たな価値観が、さらに拍車をかけていた。おれは物を大切に、大事にするようになっていた。それは意識の変革によるものである。快不快かいふかい、喜怒哀楽を感じられる存在としてそれらを見ていたことの証左であった。だがそれは、という、消極的な視座に立った行動だった。そして月日を経るごとに、解釈は拡大されていく。終いには、こう思うようになっていた。と。心を砕いて接する代わりに、まったくの現状維持、それを見返りとして、一方的に求めていたのだ。

 ……果たして彼らは忠実であった。文句ひとつ言わず、己の領分を踏み越えずにいた。当然だ、おれには彼らの姿を視ることも、声を聴くことも叶わないのだから。おれはただ漠然と、それらの背後にいるかもしれない存在を、肯定したにすぎない。だがおれは実際に、その肯定を前提として、行動していた。いるが、いる、いると、捏造されていく。その過程に、おれは疑問をいだけない。“菜子”という証拠が、おれを妄信へと導いていた。菜子がいるのだから、ほかにもいるだろうと。菜子だけではないはずだと。

 しかしそれに、実害は付随しない。おれの妄想は、まったくの無害である。むしろ傍目には、有益とさえ映ったかもしれない。物を大事にする、いまどき珍しい子だと。

 ――そう、おれの過ちとは、それではなかった。では何か――。

 それは、

 

 それだった。

 おれは世界を誤認していた。世界とは、極言すればおれと“菜子”とのことだと、独善的な思いをいだいていた。ほかには何も要らない。この物語はおれたち二人だけの物語で、他者の入り込む余地は微塵も存在しないと決めつけていた。他の人たちは、おれがルールから逸脱しない限り、つまりバランスを欠いた付き合いを始めない限り、不干渉を貫いてくれるだろうと、無根拠に信じていたのだ。……いや、まったくの無根拠、というわけでもない。先述したとおり、おれは無機物にも同様の思いをいだいていた。そして彼らは応えてくれた。触れず語らず、沈黙を保ってくれた。だったらみんなだって、きっと配慮を示してくれるはず――、そんな独りよがりの暴論に従い、生活を送っていたのである。皆と積極的に交わり、歓談のときを捻出する。しかし魂は、まったく浮遊している。魂魄こんぱくのそのどちらもが、“菜子”の周囲を漂っている。残された肉の器は、半自動的に会話を紡ぐ。話題に応じて、笑ったり困ったりする。普通の人ならそうするであろう対応を予測して。

 だがしかし、おれは見誤っていた。卯月さんをはじめ、友人たちは皆、感情を有した一個の生命体であるということを。その事実をないがしろにしていた。食器や家具と同列においてしまっていた。ならば、崩壊は必然であろう。遅かれ早かれ、破綻は目に見えていた。そしてまさに今、宣告は下されようとしていたのである。


「そ、その、このあいだ、ちょっとそういう話題になったよね……。あのときは話がちゃって、結局になっちゃったけど……、ほんとのところは、どうなのかなって……」

 恐る恐る言を紡ぐ卯月さん。まるでと地雷原を歩いているかのようだ。それらを踏み抜かないよう、慎重に言葉を差し出してくる。おれの反応という、地雷に触れぬように。

 上体を向け、彼女と正対する。ただし先ほどの反省から、視線は微妙に外している。失礼のないよう、それこそ完璧な配分で、おれは卯月さんと向き合った。……意中の異性のことは、じつはすでに予測していた。というよりも、卯月さんが述べた、ちょうどそのときのことを契機きっかけとして、問われたらこう答えようと、工程表を作成していたのだ。

 そのマニュアルに沿い、微苦笑を作る。肩をすくめる。痛いところを突かれちゃったと、表情で感情を表わした。そしてそのまま、おれは告げる、


 ううん、残念ながら、


 と。

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