第04話 04

 湯船のに頭を預けていたおれの視界がかげった。雲……ではなかった。字義どおり雲ひとつない晴夜せいやである。じゃあ、どうして、胡乱うろんに火を灯す。湯気によって蔽われていたその先を描き出す。だが半睡状態のおれは、なかなか覚醒に至れない。沈殿状態にあったゆえ、現実と記憶の区別がつけられない。時系列は判然としない。過去と現在と未来が、同時に存在していた。

 そして網膜に描出されたのが――、卯月さんだった。

 うづ、きさん――? おれは名を呼ぶ。だが反して、意思はまったく介在しない。ただの反応の域を出ない。居たから呼んだ、そんな受動的行動だった。……いや、それ以下であった。記憶の中の彼女と混在させていた。現実か夢想かも判らない、それくらい思考回路は混線していた。

 その彼女が許可を求める。一緒に入ってもいい? と。

 おれは茫漠のに囚われている。いまだそこから脱け出せない。小さなタオル一枚で、頼りなく前をかくす卯月さんなど、一度として目にしたことはないはずなのに、無条件で受け容れている自分がいた。微塵も羞恥に沈むことなく、場所を譲る。いままでいたところへと、卯月さんを招いていた。

「…………」

 彼女は暫時ざんじ硬直こうちょくする。このときは理解できなかったが、まさかこんなに近くに入るよう求められるとは、きっと卯月さんも思わなかったのだろう。だがやがて、決意を固めたのか、それじゃあ、失礼しますと湯に躰を滑らせていた。

「良かったぁ、ダメって言われたらどうしようかと思ったぁ」

「まさかー。卯月さん相手に、そんなこと言うわけないよ」

 機械的に言葉が紡がれる。培われた社交性が、おれの意思とは無関係に対応する。おれはいまだ夢との境を彷徨さまよっている。海馬が卯月さんという単語に刺戟され、蓄えられた様様な彼女の像を描き出す。水面みなもに浮かんでは、泡沫うたかたのように弾けて消える。眼前の彼女も、それら記憶の中の彼女と混交し、埋もれていく。泥酔した状態とは、恐らくこのような状態を指すのであろう、おれはまったく己自身を制御することができていなかった。

 ゆえにおれは、わらべのごとき純真さで対峙する。発言の結果を考慮せずに。

 ね、ねえ、関口くん、卯月さんがおれを呼ぶ。声が震えている。おれはただ、その事象を認識する。思索は放棄していた。どうして、と理由を求めようとすることはなかった。湯の表がかすかにいることも。卯月さんが断続的に震えていることも。それら光景を、おれは無機質のようなで写し取る。

 臆することなく目を向けるおれに、ぎゃくに卯月さんのほうが委縮していた。二人きりのこの状況でも、彼女は規則に忠実だ。湯船にタオルを浸すことはしない。頼るのは二本の腕だ。それを胸の前で組んで、先端をかくす。だが細い腕は、放漫な膨らみ全体は蔽えない。盛り上がった双丘は、普段以上の自己主張をしている。そっか、卯月さん、着やせするタイプだったのか、だが白濁化した意識は、その程度の感想しかいだけなかった。

 彼女は心もちももを上げ、おれの視線を遮った。柔らかそうな脚部の、そのを秘匿した。その行動に、ようやく計算式が導かれる。卯月さん、羞ずかしがっているのだと。ただちにるべき解を弾き出す。ごめんね、とな振る舞いを深謝して、顔を背向そむける。だが果たして、心情は伴わない。反省もしていなければ、悪いとも思わない。こういうときはこうすべきだという、社会の公式に従っただけだった。

 おれの謝罪のに、卯月さんは驚いたようだ。ううん、いいのと、慌てて答えていた。

「わたしが勝手に入ってきたんだし、関口くんはぜんぜん悪くないわよ」

「そうかな」

「うん、だから気にしないで」

「うん、分かった」

「…………」

「…………」

 沈黙が降りた。茫漠とした心地でいたおれに、話題をふるという選択肢はない。おれが行なえるのは、せいぜい反応を返すことくらいだ。こちら側から積極的に動くことはなかった。ひたすら待ちに徹するである。思考も、回復の兆しは顕われない。むしろ鈍化する一方である。自覚きづかずおれは、のぼせ上がっていた。結構な時間、湯に浸かっていたらしい。しかけていた。なのでおれは、卯月さんに注意を向けられなかった。……不幸だったのは、彼女もまた自分のことに手いっぱいで、おれの変調に至れなかったことだ。を言うつもりはない、でももし、どちらか一方でも、相手の挙措にもう少し注意を払えたとしたら、これから起こる悲劇は回避できたのかもしれない。しかしそうはならなかった。惨事は起こるべくして起こり、結果おれは、“菜子”を喪失するという報いを身に招いたのであった。


 ……そのときに至るまでの会話は漠漠としている。霞がかっていて良く憶えていない。馴れてるのね、そんなニュアンスの言葉を向けられたような気がする。馴れてるだなんて、とんでもない。目にしたことのある、異性のな姿といえば、家の中を下着姿でうろつく、羞じらいを知らぬ妹たちと、あとは“菜子”くらいなものである。それ以外の女性のそれなど、画面か紙面の中でしか見たことはなかった。だがなぜか、魅力的な卯月さんが一糸まとわぬ姿で寄り添っていたのに、おれは彼女に性的昂奮をいだけなかった。のぼせていたせいだろう。おぼろげな記憶を手繰り寄せると、卯月さんのそれはかなり成熟していたと判る。瑞瑞しいながらも、大人の色香を漂わせていた。あらゆる意味でコンパクトな“菜子”とは異なっていた。

 それだけではない、きっとおれは無意識のうちに、彼女に対して安全弁を心に設けていたのだろう。過度に傾斜しないように、特別な感情をいだかないようにと。友人たちの中から恋人を選ぶことを禁止していたおれは、自然、彼女たちに対して、節度を保って接するようになっていた。そのような対象として見ることがないよう、己を律していた。その結果が、現状の精神的機能障害だろう。極めて美しい卯月さんの裸身も、字義どおり造形的に美しいとしか思えなかった。欲情を孕むことはなかった。あたかも大理石で造られた彫刻を眺めるようにして、おれは卯月さんのそれを瞳に映していた。

 その卯月さんが、心持ち傍に寄る。距離を詰め、躰を縮こませる。そしてこう、声を上擦らせたのだ。

 あ、あのね、関口くん、この前ちょっと話題になったことだけど、

 あれって、ほんと、なの――?

 と。

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