第04話 04
湯船のふちに頭を預けていたおれの視界が
そして網膜に描出されたのが――、卯月さんだった。
うづ、きさん――? おれは名を呼ぶ。だが反して、意思はまったく介在しない。ただの反応の域を出ない。居たから呼んだ、そんな受動的行動だった。……いや、それ以下であった。記憶の中の彼女と混在させていた。現実か夢想かも判らない、それくらい思考回路は混線していた。
その彼女が許可を求める。一緒に入ってもいい? と。
おれは茫漠のくびきに囚われている。いまだそこから脱け出せない。小さなタオル一枚で、頼りなく前を
「…………」
彼女は
「良かったぁ、ダメって言われたらどうしようかと思ったぁ」
「まさかー。卯月さん相手に、そんなこと言うわけないよ」
機械的に言葉が紡がれる。培われた社交性が、おれの意思とは無関係に対応する。おれはいまだ夢とうつつの境を
ゆえにおれは、
ね、ねえ、関口くん、卯月さんがおれを呼ぶ。声が震えている。おれはただ、その事象のみを認識する。思索は放棄していた。どうして、と理由を求めようとすることはなかった。湯の表がかすかにさざめいていることも。卯月さんが断続的に震えていることも。それら光景を、おれは無機質のようなまなこで写し取る。
臆することなく目を向けるおれに、ぎゃくに卯月さんのほうが委縮していた。二人きりのこの状況でも、彼女は規則に忠実だ。湯船にタオルを浸すことはしない。頼るのはもっぱら二本の腕だ。それを胸の前で組んで、先端を
彼女は心もち
おれの謝罪のせりふに、卯月さんは驚いたようだ。ううん、いいのと、慌てて答えていた。
「わたしが勝手に入ってきたんだし、関口くんはぜんぜん悪くないわよ」
「そうかな」
「うん、だから気にしないで」
「うん、分かった」
「…………」
「…………」
沈黙が降りた。茫漠とした心地でいたおれに、話題をふるという選択肢はない。おれが行なえるのは、せいぜい反応を返すことくらいだ。こちら側から積極的に動くことはなかった。ひたすら待ちに徹するのみである。思考も、回復の兆しは顕われない。むしろ鈍化する一方である。
……そのときに至るまでの会話は漠漠としている。霞がかっていて良く憶えていない。馴れてるのね、そんなニュアンスの言葉を向けられたような気がする。馴れてるだなんて、とんでもない。目にしたことのある、異性のあらわな姿といえば、家の中を下着姿でうろつく、羞じらいを知らぬ妹たちと、あとは“菜子”くらいなものである。それ以外の女性のそれなど、画面か紙面の中でしか見たことはなかった。だがなぜか、魅力的な卯月さんが一糸まとわぬ姿で寄り添っていたのに、おれは彼女に性的昂奮をいだけなかった。のぼせていたせいだろう。おぼろげな記憶を手繰り寄せると、卯月さんのそれはかなり成熟していたと判る。瑞瑞しいながらも、大人の色香を漂わせていた。あらゆる意味でコンパクトな“菜子”とは異なっていた。
それだけではない、きっとおれは無意識のうちに、彼女に対して安全弁を心に設けていたのだろう。過度に傾斜しないように、特別な感情をいだかないようにと。友人たちの中から恋人を選ぶことを禁止していたおれは、自然、彼女たちに対して、節度を保って接するようになっていた。そのような対象として見ることがないよう、己を律していた。その結果が、現状の精神的機能障害だろう。極めて美しい卯月さんの裸身も、字義どおり造形的に美しいとしか思えなかった。欲情を孕むことはなかった。あたかも大理石で造られた彫刻を眺めるようにして、おれは卯月さんのそれを瞳に映していた。
その卯月さんが、心持ち傍に寄る。距離を詰め、躰を縮こませる。そしてこう、声を上擦らせたのだ。
あ、あのね、関口くん、この前ちょっと話題になったことだけど、
あれって、ほんと、なの――?
と。
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