『行為』
矢口晃
第1話
とにかく、なんだかよく分からないんですよ。自分でもね。あの晩、自分がなぜそんなことをしてしまったのかが。
あとから聞いたんです。その時一緒にいた友人から。友人の口からそれを聞かされた時には、自分でもまさか自分がそんなことをしたなんて信じられなくて、何回も聞き直してしまいましたよ。本当に、それを自分がやったのかって、ね。
だって本当に信じられなかったのです。少なくとも本来の理性を持っている時の私ならば、絶対にそんなことはしなかったはずです。いいえしようとさえ考えもしなかったはずなのです。
私はこれでも真面目に生きて来た、ごく一般的な常識のある社会人のつもりです。長年勤めている会社でもこれと言って大きな問題を起こしたこともないですし、私生活においてもトラブルなくやってきたつもりです。いけないことはいけないと判断できますし、他人の非常識な行為に対しては人並みの嫌悪感も抱きます。
つまり人間として、私は至ってノーマルで普通なのだということです。
それは確かにあの晩は、いつもに比べれば多少気分が高揚していたのは確かですよ。なんと言ったって、待ちに待ったボジョレー・ヌーボーの解禁日だったのですから。年に一度のその日を、私がどんなに待ち焦がれたことか。ボジョレー・ヌーボーなんてね、ご承知の通り飲んだって美味しくはないのですよ。何だか水っぽいしね、味も薄いし、何といっても全く塾生が進んでいないのですから、ワインとしての出来栄えはそれはもう話にもならないくらい下司なものです。
それでも、気分が違うじゃないですか。例えばお正月。あれだって、本来は何と言うことはない、一年三百六十五日のうちの一日に過ぎないのでしょう。ところが暦の一番最初の日だからって、世界中の人々がその一日を重宝がっている。他にもバレンタインデーだのハロウィーンだのクリスマスだのあるいは誕生日だの、自分たちで勝手に決めた特別な日を人間が自分たちで喜んでいる。
一種のお祭りでしょう。それと一緒ですよ。毎年十一月の第三木曜日と言えば、言わずと知れたボジョレー・ヌーボーの解禁日なのです。気分が高揚しない方がおかしでしょう。年に一回なのですよ。それは私が取り分けワイン好きでもなく、普段はワインなんかより甲類焼酎の方を遥かに愛飲していることを否定するつもりなんかありません。それでも解禁日なのですもの。この日をお祝いしなくて、一体どうするというのですか。
その日一日は、私もワイン愛好家になるのですよ。そして世界中のワイン愛好家と、出来たてのワインの味を楽しみ会うのです。心を通わせ会うのですよ。素晴らしいことではないですか。
皆さんだってそうでしょう。仏教の祭典の日には仏教徒のような顔をするし、キリスト教の祭典の日には、敬虔なクリスチャンのように祭を楽しむでしょう。それと同じことです。
要は楽しめばそれでいいんです。お祭りの本来の意味とか由来とか、そんな細々としたことにいちいち気を使うことはないのです。何だかみんなが楽しそうなのだから、それに便乗して自分も楽しめばよい。真似と言われようが俄か者と言われようが、自分が楽しくなれたらそれで幸運なことではないですか。
偽装? 私が自分の心を偽っていると言いたいのですか?
なんて大袈裟な言い方をされるのでしょう。偽装だなんて。私はただ、遠く離れたフランスの人々と心を一つにして、今年の葡萄の収穫を喜び、完成された自然の恵みへ素直に感謝しているだけではないですか。それの何がいけないと言うのですか。それの何が偽装だと言うのですか。
先ほども言いました通り、確かに私は普段はワインよりも安い甲類焼酎をよく飲んでいます。ワインに対してそれほど深い知識があるわけでも、また味へ対するこだわりを持っているわけもありません。
だからと言って、なぜ私がボジョレー・ヌーボーの解禁を本当は祝福していないなどと言いがかりをつけられなければいけないのでしょうか。
それは確かに、あの晩私がとった行動は、大変によくなかったことと反省しています。あなたがたに誤解を与えてしまったのも無理はないことと半分は思っています。
あの晩、友人たちと仕事終りに立ち寄ったワインバーで、よりによって私が突然一人で千歳飴を舐め出してしまったなんて。それもあの長い千歳飴を、一口大に切りもしないで、まるで子供のように長いまま端からちゅぱちゅぱとですよ。
ああ、なんて恥ずかしいことでしょう。自分でも本当にそう思います。少なくとも平静の私であったならば絶対に取らないそんな行動を、なぜ私はあの晩に限って取ってしまったのでしょう。
あまつさえ、私はその長い千歳飴をしゃぶりながら、こんなことを言ったと友人が証言するのです。
「ワインなんて、苦いばかりでちっとも美味しくないや。やっぱり僕ちんは飴ちゃんの方が口に合うな」
友人の証言がもし真実であるならば、私はただ俯いて赤面するよりほかありません。そしてその後も私はただひたすらに、一心不乱に千歳飴を舐めていたというではありませんか。
私の口腔および唾液によって溶かされた千歳飴は、本来ならばその表面に桃太郎だの金太郎だのの顔が浮かび上がっているはずなのに、口の形にとがってしまっていてその絵さえ何が描かれているか分からなかったというのです。
とにかく、最初にも申しました通り、なんだかよく分からないんですよ。自分でもね。あの晩、自分がなぜそんなことをしてしまったのかが。
ただ一つ、これだけは言えるのではないでしょうか。つまりその晩、私はそれほどに気分が高揚していたのだと。つまり、ボジョレー・ヌーボーの解禁を祝う心の人並み以上に強すぎた余りに、普段ならば絶対になしえない行動に自ら打って出てしまったのだと。
千歳飴ですか? それは自分で持っていたのですよ。なぜって、その数日前にちょうど七五三があったからです。
子供ですか。二人いますが、二人ともとっくに成人して今は独立していますよ。
なのになぜ千歳飴を持っていたかですって?
それは、先ほど来申していることと全くおなじ理屈じゃありませんか。つまり、七五三の日には、やはり私は七五三の気分になってその日を祝福するのですよ。ちょうど自分が五歳児に戻ったかのような感覚になってね。
おかしいですか? なぜです。だって皆さんだって同じことをしているでしょう。
バレンタインになれば意味も分からず女性は男性にチョコレートを贈るし、クリスマスになればイエス・キリストがどんな人物かも知らずに国を上げてお祝いするでしょう。
それと私の行為と、一体何が違うというのですか。
よしんば私が偽装者ならば、皆さんだって立派な偽装者になるはずじゃありませんか。
わかりました。それほどまでにおっしゃるのでしたら、皆さん死んでも棺桶には入らないで下さい。火葬もされないで下さい。死んだら直ちに自分の死体を大きな川に流すか高い山の山頂に運んで鳥のエサにでもされて下さい。
それができないとおっしゃるのならば、皆さん黙ってあの晩の私のちゅぱちゅぱを容認したらいかがなのです?
『行為』 矢口晃 @yaguti
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます