§5ー3 舞踏会と点滴
燎平が右手を大きく振ると、右から左に強い風が吹き抜けた。
あたしは目を閉じた。
ざあっというラジオのノイズのような音が耳の奥で響く。
それがおさまってからゆっくりと目を開けると、談笑していた客人は全員姿を消していた。
うわ。……
一階には、あたしと真南、そして翔馬と大岡梨佳の四人しか残っていなかった。
燎平の姿も消えている。
「また【跳ばし】たのか。燎平さん、あれはキツいよ飛ばされた側はしばらく吐き気が止まらないんだよ、こないだ江藤が死にかけたの忘れたか? もうやらないって約束しただろ!」
翔馬が二階に向かって怒鳴る。
燎平の姿はないけれど声は届いているはずだ。
「あちゃー、せっかく焼いたお菓子もすべて【戻されてる】わ。いつものことながら燎平さんは厭がらせの芸が細かすぎる」
キッチンの様子を見に行った梨佳は、呆れ半分の笑い声だ。
その方向をちらりと覗けば、テーブルの上には山盛りの小麦粉と溶けかけたバターと牛乳パック、そして生卵がごろごろと転がっていた。
そういえばこの間、燎平は自分で曲げちゃったフォークをあっけなく元に戻していた。
「ここにいたひとたち、田端兄先輩が外に飛ばしちゃったんですか?」
「そうだよ可愛い若月くん、【跳ばし】と【戻し】はわが兄上の得意技だ。六年生のとき兄弟喧嘩して気づくとオレはひとりロンドンのトラファルガー広場に放り出されてた。北京にも行った」
「違うでしょ翔馬、小六はフランスのブドウ畑。紫禁城はもっと最近。中二だっけ? ちなみにあたしはバルセロナのカンプノウスタジアムまでひとっ飛び」
翔馬と大岡梨佳は暢気なやりとりをしている。そこに真南が口を挟んだ。
「大丈夫ですか? ここにいたひとたちが皆そんなところに」
「いや、彼らはそれぞれ自分の家に強制送還されただけだから大丈夫。こんな目に遭うのは初めてじゃないし」
「どうしてぼくとあやは残っているのでしょうか」
「うーん」
翔馬は腰に手を当てた。
「燎平さんはおまえたちを気に入ってるみたいだから、手荒なことをしたくなかったんじゃないの? さてと、とりあえず今日は中止だな。送ってあげられないけどふたりで帰れるよな? 埋め合わせは後日必ず、そうだおまえたちお魚は好きか? 冬が来る前にうちの太郎ちゃんのクルーザーに乗せてやる。オレこう見えても釣りが趣味で」
それはもちろんこの場を収めるにはそれしかない台詞だった。
あたしと真南がこれ以上ここにいても仕方ない。これから燎平さんを引きずり出して、なるべく穏やかな人間の言葉で諭すのは彼の弟の仕事だ。
――それと。
心の中身が漏れてしまわないように注意しながら、あたしは大岡梨佳を見上げた。
美しくて上品で、でも乾いた口調で、よく笑う女性。
このひとはどうしてここにいるのだろう。
そして、どうして妙に態度が大きいのだろう。
「あ、もしかしてあやめちゃんはあたしのことを心配してくれてるの? あたしはここでもうしばらく翔馬につきあうわ。義兄の相手も嫁の仕事だものね」
「義兄? 嫁?」
「正確にはまだお試し期間だけれどね。――うーん、若月くんさあ、あやめちゃんをウチに連れてきてくれるなら最低限の登場人物紹介はしてくださる? いきなり知らないお姉さんに仕切られてたらあやめちゃんだって気分悪いよね」
「いえ、あたしはべつにそんな」
そこでどうして真南の責任になってしまうのか。真南は悪くない。あたしが頭をぶんぶん振ると、隣で真南が笑う。笑われても困るんだけど。
「とにかくアテクシはこういう者ですのでぇ」
大岡梨佳は左手の薬指に輝くダイアモンドをあたしに見せた。その指先を翔馬が掴む。
「そういう女子の初対面恒例マウント取り合い大会はいいから」
戸惑っているあたしの耳元に、真南が「大岡先輩は翔馬先輩の婚約者なんだ」と囁いた。
「あ、……」
そういうことか。
今、あたしはちょっとだけ安堵してる。
そうか。彼女が馴れ馴れしくこの屋敷内を仕切っていたのも、翔馬に軽口を叩いているのも、燎平に呆れて苦笑しているのも、すべて彼女がすでに田端家の一員も同然の立場だからというわけか。
「あれ、まだ帰ってないのか」
またいきなり声が響く。
まばたきひとつの瞬間、翔馬と梨佳の間に燎平が割り込んでペットボトルのコーラを呷っていた。
左腕に刺さった管と、大きな液体袋がぶら下がった点滴袋。
まるでICUから脱走してきた重症患者だ。
「さっさと帰んなよ。おまえらも家まで吹っ飛ばしてやろうか?」
「燎平さん、部屋で休むんじゃなかったの?」
梨佳が母親のようにゆっくりと語りかける。
「喉かわいたから」
「あの、」
あたしは燎平の前に駆け寄った。
話しかける言葉なんて見つからなかったけれど、彼の視界に飛び込む。認識してほしかった。
あたしの姿を見て欲しかった。
「ん?」
燎平は表情を変えない。
ペットボトルを口にくわえたままだ。
「ごめんなさい、屋上で待てってメールくれたのに、あたし屋上に行かなくて、あたし」
ペットボトルのコーラが空になる。燎平が空中に投げ捨てると、床に落ちる前に消失した。
「は? いつの話?」
「あたしが森高小春のことでメールを送って、その次の日の」
「思い出せないな」
「そんな、つい数日前なのに」
声が震えそうになる。
これはこんなふうに早口で説明すべきことではなかった。落ち着いて事情を説明して燎平にお礼を言うつもりにしていた。それなのに調子が狂ってしまい、どう言えばいいのかわからない。
「ああ――ネットのあれか。べつにいいけど。親友とは仲直りしたか?」
この状態でそんなこと言わないで欲しい。
「それはできない。どうすればいいのかもわからなくて」
「悪いけど小学生女子の小規模なゴタゴタにつきあうほど暇じゃないんだよな。ちょうど大きな仕事も重なったし、もう過ぎたことだ」
「それからあたし、また機械を壊すようになったの。これってどういう」
「知ってるよメールに書いてあったから。何度も同じ情報を入れないでくれ頭が痛くなるよ、おれの躰が回復したらどうにかしてやるから待ってろ」
あ。
そんなことをそんな口調で言われると、心が、折れそうになる。
いつもと口調が違う気がした。
酔ってるのだろうか。
そういえば頬が赤く染まっているし、両方の目もとろんと澱んでいる。泥酔しているサラリーマンのようだ。
「よーおっし、右足の神経が戻ってきたナリィ」
燎平は、とんとん、と右の爪先で床を蹴る。
「今回も死ぬかと思った、毎回毎回、ほんともう死ぬかと思うんだ。でもまあ死にやしないだろって思うだろ、油断するだろ、そしたら死ぬんだよ。ほんとびっくりする。死にたくなくて頑張ってるのに、そのせいで死んじゃうの、まあ蘇生するけどね。おかしくね?」
燎平が指先を振ると、今度はジンジャーエールのペットボトルが現れた。キャップを投げ捨て飲もうとしたところで、翔馬が横から奪い取った。
「燎平さん、炭酸はそこまでにしとけ。また二日酔いになっても知らないよ、酔いが醒めたら全部忘れちゃってるくせに」
「忠告は聞かない。どうせおれが死にかけてもおまえは何もしてくれないもんな」
燎平は子どものような事を言い、翔馬の手からジンジャーエールを奪い返す。
「ねえ酔ってるの? それお酒じゃないよね?」
あたしは燎平を見上げて目を覗き込む。
さっきの適当な返答に心が折れていたけれど、ここで引き下がるわけにはいかない。そういう表現が正しいかどうか判らなかったけれど、あたしは燎平に食らいつくべきだと思った。腕を掴みたい、指先でも背中でも前髪でも何処でも良いから手を伸ばして掴むべきだと、あたしの本能がそう告げていた。
あたしは燎平に質問したつもりだ。
でも、質問に答えてくれたのは梨佳だった。
「炭酸は、このひとにとって強度のアルコールに匹敵するらしいの。コーラはウォッカ、ジンジャーエールはスピリタス。あやめちゃんもこのひとがコーラやサイダーに手を伸ばしたときには止めてあげてね。酷い酔い方をするから――あっ、また」
燎平の手は一気に半分を喉に押し流してぷはあっと満足げに息を吐き、赤い顔で少し笑う。
そしてよろよろと数歩歩いて振り向いた。
「翔馬も梨佳も忘れるなよ。太郎ちゃんが若い女を取っ替え引っ替えできるのも、おまえたちが太郎ちゃんから小遣いを貰えるのも、こうしてバカ連中を集めてバカ騒ぎするのも、生活費も学費も将来の備えもおまえたちが今夜ベッドでイチャイチャできるのも、ぜんぶおれが命懸けで稼いだ金のおかげなんだからな!」
「あんたって子は」
梨佳が甲高い声で叫んで燎平さんに掴みかかろうとする。それを翔馬が留めて、彼女の代わりに睨みつけたときにはもう遅い。
燎平は「バーカバーカバーカ!!」と言い捨てて、すでに姿を消していた。
勝手に現れて勝手に吹き荒れ、勝手に消えてしまった。
まるで竜巻だ。
「……あは」
あたしたちは困惑して互いに顔を見合わせていたけれど、急に真南が吹きだした。
「『バーカバーカバーカ!!』だって。可笑しいっすよね? 十八歳の男の人が、幼稚園児みたいだ。なんだか可愛かった、あは、すみません、ぼく、ツボっちゃって」
喋っているうちに思い出してしまったらしく、真南はひとりで笑い転げている。もちろん翔馬も梨佳もあたしも笑えないんだけど、どちらかというとしょうもないことで笑い転げている真南のほうがよっぽど可笑しい。
「まったくよ、燎平さんは精神構造が小さな子どもと同じなの」
梨佳が両腕を組んで肩をすくめた。
「お母様を亡くしてからずっと無茶してる。たぶん肉体も精神状態も限界だと思うわ」
「彼の仕事って、何なんですか」
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