掌中の富貴
みるみるうちに溜っていく涙がこぼれ落ちる間際でこらえる、必死に見開かれた目は朝露に濡れる若葉のようだ。
幼子の健気な姿を冷静に観察していた李明麗は、我に返る。
「
腰をかがめて両腕を開いても、諒元は母親の膝から降りてさっと背後に隠れてしまう。
「さきほど午睡から起きたばかりよ。まだ、よいではないの」
自身も不服そうに、皇后は読み聞かせていた葆国民譚を閉じた。
「皇后さまは、殿下に甘くていらっしゃいます」
「明麗は厳しすぎるわ」
「約束を守ることを覚えていただかなくては」
「まあ、明麗! あなたがそれをいうの?」
皇后が目を丸くする。昇陽殿のそこかしこから、忍び笑いが聞えてきた。諒元も母親の陰からそうっと顔をのぞかせるが、眉間にシワを寄せる明麗の瞳と合い、また引っ込んでしまう。
「皇后さま。本当は明麗が早く戻りたいだけなのです」
手をくちびるの両端で広げた孫恵の告げ口には、高泉から横槍が入った。
「それは、愛しい
「そ、そのようなことはありません。決してそのような!」
必死で否定すればするほど、今度は隠しようもない笑い声が広がり、孫恵はますます顔を赤くする。
「東宮の宮門官との婚姻が決まったのだったわね。おめでとう。お祝いを考えなくては」
「もったいないお言葉、感謝いたします」
皇后からの祝辞に恐縮しつつも、孫恵は喜色を浮かべる。幸福な表情を見せつけられて、高泉は丸い頬をさらに膨らませた。
「私も東宮に異動すればよかったわ。後宮よりはるかに出逢いがあるもの。――え? いえ、いまのは戯言でございます。もちろん、生涯皇后陛下にお仕えするつもりでおります!」
方颯璉の鋭い視線に射貫かれ、慌てて言い繕う。顔を青ざめる高泉に、皇后は「かまわなくてよ」と微笑んだ。
「皆も、良い縁があれば遠慮せずにおっしゃいね。なにも、
世継となる諒元の誕生後、皇宮で働く女たちの在り方が少しずつ変化していた。
こと後宮においては、皇帝に皇后以外を娶る意思はなく、この先も宮女の雇用に大きな動きは見込めない。となれば必然と高齢化が進み、仕事に支障が生じることも予想される。
よって皇帝は、一定の条件の下、希望者には出宮を許すとの
「私は、この後宮に骨を埋める覚悟です!」
「そうよね。食いしん坊の高泉を養えるほどの
「丁太医令なんてどうかしら? あの方なら、十日に一度は薬事の講義にいらしているじゃない」
「大変! 骨の髄まで吸い取られて、ますますお痩せになってしまわれるわ」
一段と大きな笑いが湧き、驚いた諒元は皇后にしがみついく。見かねた颯璉の咳払いで、一同はそそくさと仕事に戻っていった。
「でも、そうね」と目尻を拭った白い手が、袖を掴み己を見上げて助けを求める幼子の頭を撫でる。細い指の間を、麦の穂色をしたやわらかい髪がすり抜けた。
「今日はもうお帰りなさい。母さまはお薬の時間だわ。それとも、いっしょにいただきましょうか?」
見計らったように湯薬が運ばれてくる。煎じ薬からのぼる独特な匂いに追い立てられ、諒元は渋々乳母の手をとった。
難産から危篤に陥っていた皇后は、奇跡的に一命を取り留めた。それが何央の医術によるものだったのか、あるいは林文徳の書の力が働いたか、本当のところは定かではない。
ただ、後宮の門で待ち受けていた孫恵から皇后の意識が戻ったと知らされ、その場にくずおれた明麗が抱き締めていた、まだ鮮やかな葆国民譚の墨跡から、ふうわりとユリの香が香ったような気がした。
その後はゆっくり刻をかけて身体を回復させた皇后だったが、毎日の投薬は三年経った現在も欠かせずにいる。
体調が安定し、あとは丁稔に任せ西下に戻るという日。何央は、皇后に次の子は望めないだろうと言い残していった。もし宿してもまた流れ、その際に母体もともに逝く可能性が高いのとの見立てだ。
それでも、皇帝から注がれる寵愛が変わることはない。皇太子となった我が子の成長を見守る日々は穏やかで幸せそうだ。
東宮内に建つ
「いま少し、殿下にお優しくなさったらいかがです? このままでは本当に嫌われてしまいますよ」
輿の中でまた眠ってしまっていた諒元を、乳母の牛春雨が抱えて降ろしながら苦笑する。まだ寝足りないのか、地面に足が着いてもしきりに目をこすっていた。
皇太子付きの侍女となった明麗も、可能な限り母子で過ごす刻を作るようにしているが、たったひとりの皇子という彼の立場では、なかなかに難しいものがある。
「それでもかまわないわ。むしろ、反発する気概をもってくださったほうがいいくらい」
呆れたように肩をすくめる春雨から、明麗は諒元の小さく温かい手を引き継いだ。
春雨と孫恵に見送られ蓮迦閣へ入る。とたんに諒元は明麗の手を解き、奥へと走っていった。
諒元は、国中が待ち望んで生まれた嫡子のはずだった。事実、産まれて間もない赤子を皇太子として冊立することに、表立って異議を唱える者は現れなかった。
ところが諒元が健やかに育つにつれ、徐々に懸念する声がささやかれるようになる。曰く、「あのような色の髪と瞳をした人物が、葆の玉座に就いてよいものだろうか」と。
産まれる前から定められていた彼の道は、やはり平坦なものにはなりそうもない。だが明麗は、その道を均してやるのではなく、乗り越えて進むための力をつける手助けがしたいと考えていた。諒元の、真実を見極める目、苦言にも傾けられる耳を育てなければという気負いが、明麗を急き立てる。
東宮の書庫である蓮迦閣には、現皇帝が太子時代に集めた書籍がそのまま残されているが、当然諒元にはまだ早い。彼が向かう先を知っている明麗は、はやる心を抑えて薄暗い室内をゆっくりと進む。膨大な蔵書を備えた書架に囲まれ圧迫感はあるが、古い簡牘や紙、それらが発する乾いた墨の香には懐かしさを覚える。
途中、幾度か本を手に取りながら書物の林を抜けた先に、半開きの扉が現れた。そこから漏れ聞こえる笑い声に引き寄せられるようにして、絹を貼った窓から入るやわらかい光が照らす小房に足を踏み入れる。
「やあ、明麗。いらっしゃい」
まるで自宅に迎え入れたように寛ぎ間延びした声。
「らっしゃい!」
紙を広げた卓子に膝を揃えて座る諒元が、隣をまねして笑顔を向ける。早くも墨のついた手が握る筆は、料紙の上を縦横無尽に駆け巡っていた。
「林文徳
とても文字とは呼べない墨線を横目に澄まし顔で明麗が声をかければ、文徳は困ったように眉尻を下げる。
「師はやめてください」
「あなたは東宮司書局の長で、皇太子殿下の書の師匠だもの」
「それをいうなら、明麗だって『女太子太傅』なんて噂されているじゃないですか」
「しょせんは女がつくの。一介の侍女に変わらないわ」
それに引き換え、いまや文徳は浅緋の袍を許された官吏だ。文字の国である葆において、奉元の儀を執り行う次期皇帝の書の指南役ともなれば、国家の盛衰にも関わる重職である。この異例の大抜擢ともいえる人事に伴い、文徳の官品も引き上げられた。諒元が皇太子である限り、さらなる出世も望めるだろう。
「でも、文徳がこんな大役を引き受けるなんて意外だったわ」
なにせ、皇后に書を教えたいという明麗の頼みさえ、初めは断ろうとしていたのだ。
明麗の指摘に、文徳は苦笑いで筆筒からなんの変哲もない竹軸の筆を取った。
硯の海の上まで移動した穂先がゆっくりと沈められる。好奇心に輝く緑の瞳が、一連の動きを追う。
「ちょっと欲が出まして」
「欲? ほしい物でもあるの? 墨? それとも硯かしら。……値が張る品なの?」
金銭感覚に疎い自覚のある明麗が恐る恐る尋ねると、文徳は「まあ、たぶん」と言葉を濁す。
「大丈夫! きっと手に入るわ。だってあなたは、皇帝陛下がお認めになった龍筆の持ち主だもの」
明麗が持ち帰った葆国民譚に書かれた『百合』の二文字を前に皇帝は、文徳の手蹟をそう評して讃えた。皇后の生命力と幸運が重なっただけだと文徳は強く否定したが、明麗はそうとは思わない。
失笑するように、ふっと小さく息が吐かれ、文徳の姿勢が正された。明麗の目が釘付けになる。
料紙の左上に筆先がのる。軽やかに左払いから始まった運筆は、艶やかな衣をまとう天女がまっさらな紙面で舞うようだ。自由奔放に袖や裾を翻し、漆黒の軌跡を描きながら翔け廻る。収筆は、観客に向け優美に礼をしたと見せかけて、次の舞台へと跳び出さんばかりに勢いのあるとめで締めくくられた。
「まだまだです。まだ足りません。もしかしたら、僕にはその資格がないのかも」
不満げに筆を置く。文徳と卓の間に割り込んで墨の蹟に手を伸ばす諒元の頭の上に、重たい嘆息が落ちた。
「お手が汚れます」
目の前で紙をさらわれてしまい、滑らかな頬を膨らませる諒元をよそに、明麗が書を光にかざした。
狭い文房で墨色も清々しく鮮麗に、一輪の花が今を盛りと咲き誇る。
「めーれー」
諒元が指をさす。
文徳の筆から生み出された、花神や富貴花などの異名をもつ、百花の王。
「龍筆はどうかわからないけれど……この花なら、すぐ手が届くところにあるではないの」
得意げに笑む明麗が差し出した『牡丹』の書を、眩しそうに目を細めた文徳は右手を伸べて受け取った。
【 富貴天に在らず、吾に在り 《完》 】
富貴天に在らず、吾に在り 浪岡茗子 @daifuku-mochi
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