第11話 『償い』

「うん、こっちは特に何もない。三人仲良くやってる」

『そう? なら良いけど、お母さん急に家を飛び出しちゃったから、子供たちに対して本当に申し訳なくって』

「別に大丈夫。あの二人も気にしてないわよ。お父さん元気ならそれで良いって、そう言っているから安心してよ」

 典子は携帯に耳を当てて、壁にかかっている時計を見た。今は夕方の八時。ロンドンと日本の時差は八時間。そうすると、向こうはまだ昼間だろう。

 無意識に、腰掛けているベッドのシーツをいじっていた。一日の大半を過ごすこの部屋は、真っ白い小箱のような部屋だ。窓一つない。机とベッドだけの簡素なスペース。

 ベッドの傍らには、家を出る時に一緒に連れてきた、シェパード犬のぬいぐるみ『アル』がいる。生前は一番の友人だった彼を、家に独りにさせたくなかった。

『子供たちだけだからって、生活リズムを崩しちゃ駄目よ』

「ちゃんと生活しているよ。夜ふかしもしていないし」

 これは本当だ。決まった時間に起きて食事を取り、検査を受けて診察を受ける。

 ここに連れて来られて以来、蓮と圭人ともほとんど顔を合わせていない。だが、きっとあの二人の生活も、同じように規則正しいだろう。

「それでお母さん、お父さんと一緒にロンドンはどお?」

 典子はつとめて明るい声を出し続けた。

「怪我の功名だけど、お父さん、本当は喜んでいるでしょ。ここ数年ずっと海外で一人だったもん。家に帰って来る度に、寂しがっていたじゃない」

『……流石に、最初は怒られたわよ。ロンドンでテロが起きて、お父さんが巻き込まれたなんか、何のニュースを見てそう思ったんだって』

 ごめんなさい。典子は声に出さず、ロンドンの両親に謝罪した。

 ロンドンが金融街の中心部「シティ」で爆破テロを起こし、現場近くの銀行ビルで勤務する邦人数名が死傷、という偽ニュースを流したのは、四日前の事だった。

 圭人や蓮たちの仕業だ。

 ウィルス発症の恐れが出てきた典子の身柄を拘束するためには、両親の目を誤魔化す必要があった。

 父はロンドンの仕事に戻っていた。あとは、母だった。

 朝のテレビニュース、父の名がテロップに流れた瞬間、母はパニック状態を起こした。

 パパ、泰ちゃんと泣き叫び、父の携帯もロンドンの日本大使館にも父の職場にも、連絡がつかないと泣き叫び、母はその日の便に乗って、ロンドンへと旅立ってしまった。

 押しかけたロンドンの大使館で、父の無事とテロの偽情報を知った母は、安堵と脱力で気絶したという。

そして、ロンドンの両親に典子は提案したのだ。

「当分、二人でロンドンに暮らせば?」と。

「お母さん、海外のお父さんの事ずっと心配していたから、それが高じてニュースを見間違えたんでしょ。それにせっかくロンドンに行ったんだから、少し羽を伸ばせば? お父さんだって、お母さんが来て本当は嬉しいでしょ」

 すぐに帰ってきたら、飛行機代が勿体ない。

 それに、今は蓮と圭人がいると、典子は母の主婦感覚と生活の安全を強調した。

 子供三人だけ残して、ロンドンで生活する事に難儀を示した両親だったが、蓮と圭人は生活面と素行面では父と母の信用を得ている。

 典子は圭人と蓮、力を合わせてついに押し切った。

『学校はどう?』

「変わりないよ」

 嘘をついた。心が軋んだ。

『そお? 良かった。蓮ちゃんか圭人くんに代わってくれる? また明日、この時間くらいに電話をかけるわね』

 典子も蓮も圭人も、自宅にいると思い込んでいる母に、典子は元気よく「はあい」と返事した。

 一呼吸置いて、通話が切り替わった。

『はい。代わりました、蓮です』

『蓮ちゃん、圭人くんと仲良くしてる? また姉弟喧嘩はしてないわね?』

 耳にかけている端末から、二人の会話が聞こえてくる。

 典子は携帯端末を置いて、ぬいぐるみの『アル』を抱きしめた。

 掛井くん、と典子は嘆いた。


 ノックの音がした。

 部屋に入ってきた人物に、典子は慌てて涙を拭った。

「圭人くん!」

 随分久しぶりな気がする。いつか見た、ダークグリーンの上下姿だった。

「や、典子。久しぶり、元気だった?」

 典子の顔が見たくなってね、と軽い口調だが、今、自分だけではなく、この二人を取り巻く状況も緊迫している事は、典子にも薄々感じられていた。

「診察室行く時間だろ。一緒に行こうぜ。マーニットさん待ってるよ」

 そうだった。典子は慌てて部屋を出た。

 廊下に出ると、部屋着のポケットの中で、携帯端末がメールの着信を告げた。

 無視した。見たくない。

「出ないの?」

 圭人が聞いた。

「外部と連絡を取らせるなって命令は出てないよ。学校は病欠って事にしているから、きっと誰かからのお見舞いだろ」

「……」

 典子は頭を振った。

「気にしないで。いいの」

 今は、何も見る気になれない。

「俺の立場で言える義理じゃないけど……ごめんな」

 圭人が嘆いた。

「典子に落ち度は無い。それなのに、おじさんとおばさんに嘘をつかせて、こんなところに連れて来たんだ。理不尽な事を強いているのは、分かっているよ」

「……いつか、言ったでしょ。圭人くんたちが真剣なら、私はそれに付き合うって。自分の言葉に責任は持つわよ」

 典子は、自分自身の体を見下ろした。確かに、最初は戸惑ったし、腹を立てたけれど。

「マーニットさんが教えてくれたの。お医者さんにとって、私は生きた朗報だって。自分の努力で手に入れたわけでもない、生まれつきの血液が人の役に立つんでしょ……ある意味、すごくラッキーだと思わない?」

 しかも、この百万人に一人の血液型は、ウィルスに感染した事によって、初めて類まれな抵抗力を発揮することが出来た。

 そうでなければ、ワクチンを作る光明にはならなかったのだ。

「だから、我慢させているとか思わないで」

 典子は続けた。

「キャリアがどんなものか、発症の危険性と隣り合わせだって事は、私だって知っている。その危険性が出て来たなら……外にいたくない。人の理性がある内に、ここに閉じ込めてもらっていた方がいい」

 圭人の表情が微かに軋んだ。典子は微笑んだ。

「それにね、実は、学校に行けない事態になって、ちょうどいいかもって思っているの」

『掛井なら、こないだ退学した』

 野川の言葉が思い出された。

『噂だけどな。掛井、死んだんじゃないかって」

『新聞にはちょこっとしか出なかったらしいけど、暴走族同士ですげえ殺し合いがあったらしいぜ。チームのほとんどが死んだらしい。その中に、掛井が入っていたとか』

 ネットで調べた。野川の言うとおりだった。

 その日付と場所に、典子は戦慄した。何度も読み返した。

……いつかの浜辺。

 ニュースでは、ドラッグによって集団幻覚を起こした事が原因で、殺し合いに至ったのではないかとされていた。

だが、典子は知っている。

 圭人と蓮が処分した、あの白い二人の感染者が、皆を殺したのだ。

 だが、名前が判明している死者の中に、得也の名はなかった。それだけが救いだった。

 死んだとは限らない。あの中に、得也がいたとは限らないではないか。いたとしても、無事に逃げたかも知れない。 

……生きていて欲しい。

 償いたいから。あの時、いつまでも加害者面するなと怒られたけれど、それでも償いたいと思う。

 だから、発症する訳にはいかない。償いのためには、人間でいなくては。

「学校で、何かあったのか?」

 たたみかけるように、言葉が続く。

「ついこの間、退学した奴の話で、典子、すごくショックを受けていただろ。あの時以来、何か変だぞ」

 典子は曖昧に笑った。圭人は気にしていてくれたのか……だけどこれは自分の問題だ。話す事によって、圭人に救いを求める意味になる。

 圭人は、典子のその沈黙を受けとめた。

「……今は無理だけど、この案件が終わったら、その話を聞かせろよ。ちょっとは力になれるかもしれない」

「そう言う圭人くんは……大丈夫?」

「ん?」

「しばらく見ない内に、疲れて見える」

 表情に、覇気がない。

「だから気晴らしに、典子とこうやって散歩してんだろ」

 四階から三階に降りるのが散歩なのかと、思う典子に圭人は軽い口調で述べた。

「只の移動も、華を添えれば散歩だよ」

「華……?」

 蓮はどうなのよと、つい、典子は考えた。

 いつも一緒にいる圭人の相棒。男言葉すら美の従属物としてしまう、現実離れした美貌の持ち主。

「言っておくけど」圭人は言った。

「俺、蓮を女と思ったのは二回しか無いよ。最初に顔合わせした時に『わーい、女だ』で、その後に『ほんとに女か?』」

「……」

「何より、俺よりも女子からラブレターもらっていたのが気に入らない」

 思わず吹き出した。笑いが後から後からこぼれてくる。隣の圭人も笑っている。

 笑うことへの罪悪感を、掛井得也の記憶と抱え込みながら、典子は笑った。

圭人の手が、涙で滲む典子の目の前に伸びた。

「典子、眼鏡がずれてる」

 圭人の指が、典子の眼鏡の鼻押さえの部分を押し上げた。

『須藤。眼鏡、ずれてる』

 記憶にいつまでも残る声が、現在を切り裂いた。過去と現在が重なるその瞬間、典子はめまいに似たものを感じた。

 

 マーニットの診察室をノックした。ドアを開けると、マーニットと蓮が背中を向けて、何かモニターを覗きこんでいる。

「蓮!」

 長い黒髪へ叫んだ典子へ、二人がこちらを同時に向いた。

「典子か」

 久しぶりに会った気がするというのに、そっけない蓮のその態度が、どこか典子を安堵させた。圭人が意外そうな声を上げた。

「お前、モニター室じゃなかったか? いつの間にこっちに来ていたんだ?」

「圭人、休憩を切り上げろ」

「後二分、残っているんだが」

 蓮があごをしゃくった。その先にあるモニター画像を見た圭人の表情が一変した。

 モニターの中で飛び散る赤い色彩が、典子の目に飛び込んだ瞬間、圭人の手が典子の視界を遮った。

「典子、あっち向いてろ……蓮、この画像はどこで拾った?」

「警察のサーバからだ。八時間前、神辺市の雑居ビルの地下で、成人男性合わせて一六人の死体が発見される通報があった。これは現場に残されたビデオカメラの映像だ」

 マーニットは黙ったまま、一言もしゃべらない。

 モニターから背中を向けている典子にも、不吉なくぐもった声や、破壊音が聞こえる。

「おい、こいつら……」

 圭人が叫んだ。

「これ、柚木じゃないのか!」

 圭人が叫んだ。知人がいたのか、思わず典子は身を固くした。

「さっきお前の端末に、事件の詳細を送った。確かめてみろ」

 端末を確かめた圭人の顔が、はっきりと強張った。そして再び、モニターを見る。

「……やっぱり、あいつらか。浜辺で見た奴らばっかりだ。蓮、いつだったか、お前が籠絡した柚木の手下。あいつからは何の連絡もなかったのか?」

「族を抜けたらしい。そのせいで制裁を受けて現在病院で治療中だ。ある意味、助かったな」

「この映像の中に、あの下水道の野郎はいるのか?」

「いない。お前のカメラに映っていた感染者の映像から割り出した、骨格や身長データと一致する者はいなかった。だが……」

 蓮が言葉を切った、その直後だった。

『……何だよ、お前ら』

――男の声が、典子の聴覚と記憶を同時に貫いた。

「この音声データと八十七%、声紋が一致する小さな笑い声が、このビデオ画像に入っている」

 その声は、もうずっと聞いていない、典子にとって特別な声だった。

「もう一度、さっきの声、聞かせて!」

 典子は、三人の間に飛び込んで割り入った。

 驚く顔のマーニットと、仰け反る圭人。蓮は表情を変えずに端末を操作した。 

 蓮はモニターを典子に向けた。音声とその映像が飛び込む。

『……何だよ、お前ら』

 典子は、声を完全に無くした。動く目だけが、男の顔を捉えていた。眩しそうにこちらを見ているが、真正面からの白い光のせいで、輪郭がはっきりしない。それでも分かった。

「……かけいくん」

 視界が、ぐらりと揺れた。

「知ってるのか!」典子の肩を支えた圭人が叫んだ。


 ビルの会議室に、この支部の全員が集合した。

 コの字型に配列された会議用テーブルに、典子も座っていた。無理を言って、連れて来てもらったのだ。両隣りには圭人と蓮が座っている。

 カスノが立ち上がり、経過報告を皆の前で行った。

「六月●日未明、神辺市一ノ宮町の雑居ビルにて殺人事件発生。詳細はタブレットをご覧ください。問題は警察が押収した、この映像です。この事態の状況の一部が記録されていると思われます。どうぞ皆さんの目で確かめて下さい」

 ホログラフィが出現する。呼吸を整えた時、圭人が囁いた。

「無理して見るな。惨いもんだぜ」

 典子は首を振った……見なくちゃいけない。あの映像の中に、ほんのわずかでも得也が映っているのなら、自分には確かめる義務がある。

『……っ……ぐぃっぅ』

 人の声の出来損ないが、いきなり飛び出した。典子は目を凝らした。

 低く床を這うカメラアングル。画面には、入り乱れる男たちの足や靴。転がる映像。ビデオは蹴り飛ばされながら転がり続け、無機質に、けなげに記録を続ける。

『ナイトウっ』『どうし……ちまっ……』『……だずけでぇぃ……』

 画像の色彩に、赤の比率か拡がってゆく。手が映る。倒れている足が映る。背中が映る。

突然、首が映った。

「!」

 映画の作りものだと思いかけた。

 誰かの足が、首を蹴る。首は転がり、また蹴られる。逃げまどう足の間に転がり続け、蹴飛ばされる内に、首は目鼻の形が壊れ、赤い球体になっていく。狂った悲鳴や怒号が、途切れることなく続く。そして、床に散らばる多額の万札紙幣。

 死人の顔で喰いつかれている男、獣の表情で喰らいつく男の画が、出来の悪い切り貼りのように絵が生々しい。

 映像は、約五分。突然切れた。

 得也の姿は、なかった。

 テーブル中央にちょび髭の男が進み出た。

「映像はここまでだ。警察の捜査では、大金をめぐる仲間割れの線も見ている……が、我々にはこの殺戮劇の真相を知っている」 

 映画じゃない……典子は逆流しかけた胃を、懸命になだめた。頼み込んでここにいる以上、倒れてはならない。

 ちょび髭……支部長のマサムラは、横に立つマーニットの方を向いた。

「マーニット医師にも映像を確認してもらった。まさしく、これはグールウィルスの感染者の食行動だ。そうだな、マーニット医師」

 その通りです、とマーニットは肯いた。

 いつもは明朗な彼女だが、流石に、顔色が冴えない。

「問題は、感染源です。ですがこの映像では、その発端となった感染の瞬間が認められませんでした」

 既に、殺し合いからスタートされていた。

「その通り。しかも、さっきの映像は警察に押収される前に、手を加えられた跡がある。手を加えた奴は誰だ? そして……」

 マサムラが手で合図を送ると、ホログラフィがもう一つ、真ん中に出現した。

「これは、先日の下水道での映像。桂三曹のカメラだ」

『何だよ、お前ら』その声と姿に、典子の胸がしめつけられた。何度見ても間違いない、得也だった。何で、と疑問が起きる。下水道? 何故、そんなところに?

「ここに同席願っている、須藤典子さんがこの男の正体を知っている事が、先ほど判明した。ここの調査では、既に死亡と見なされていた『掛井得也』間違いない」

 会議室がざわめく。

「浜辺の死体では、DNA照合が出来なかったからな」

 蓮が呟いた。

「調べから除外されていたコイツが、浜辺の生き残りってわけか」

 圭人の声に、典子は身を硬くした。

「それって、どういう事……?」

「典子さん」

 マサムラと目が合った。

「彼は『掛井得也』間違いないね」

「はい」

 典子の肯定をマサムラは確認し、会議室全体を見渡した。

「各自のタブレットに『掛井得也』についてのデータを送ってある。それを見てくれ。はっきりした足取りはまだつかめないが、正体は判明した。飛躍的進歩だ」

 タブレットを持っていない。典子は隣の圭人のタブレットを覗きこみ、目を見開いた。

 得也の身体的特徴、全身像から横顔まで、ありとあらゆるアングルの合成モンタージュがあった。声紋を示すデータまで示されている。

「インセクト・アイと、街中や施設の監視カメラのハッキングを併用し、この掛井得也を追う。桂と九鬼の両三曹は、二四時間体制で待機。発見次第、速やかに対象者を捕獲、処分しろ」

「了解」圭人と蓮が同時に立ち上がり、敬礼する。

「……処分?」

 典子は声を忘れた。

「処分って、どういう意味ですか!」

 もう一つの怒鳴り声が、典子の声に覆いかぶさった。

「処分とは、どういう事だ!」

 ドクター若木だった。目を三角にしてマサムラに詰め寄る。

「あいつも貴重な研究対象だ。只でさえ、そこのガキ二人が標本を始末したせいで、ウィルスの研究が難航しているんだぞ! その上、更に興味深いケースが発見されたというのに、それまで始末するつもりか! 生け捕りにしろ、貴様らみたいな野蛮な野郎が、学問の研究を妨げるんだ!」

「やめて下さい、ドクター若木!」

 圭人が割って入った。

「研究よりも事態の収拾が優先です! あの感染者は、すでに何人もの人を殺している。それをくい止めなくちゃいけないんだ。生け捕りとか悠長な事を言っている場合じゃない!」

「黙れ、邪魔をするな!」

 若木が圭人を振りほどいた。

「そうだった、貴様はその事態の収拾ってものの為に、パブヤン島で散々人を殺しまくったガキだったな。何人殺したんだ? そんな奴にとって、研究どうこうなんてクソの虫ほどのタワゴトだろう!」

 圭人だけではなく、会議室が氷結した。

「あのパブヤン島の生き残りなんだろう? 島は壮絶だったらしいな、兵士の生還率が3割を切っていたというじゃないか。ガキのくせに優秀だな、おい」

 圭人の表情が消えた。

 マーニット医師の顔が強張るのを、典子ははっきりと見た。その強張った表情が、圭人を見つめている。

「気を付けろよ、お嬢さん」

 若木が典子に顔を向けた。

「あんたはこの2人と仲良しだと思っていても、それもコイツら2人にとっては、あんたを油断させるための『仲良しごっこ』だ。もしもあんたが発症すれば、顔色一つ変えずに胴体真っ二つにされるぜ。世界の平和のためにだってな」

「……」

 典子は立ち上がった。

 完全に会議室は硬直していた。その空気を破るように、若木の元に歩み寄る。そして、若木の白衣の襟をむんずと掴んだ。

「研究用の標本が足りないんだって? 何なら、あんたに噛みついて感染させてやろうか」

 典子は、白衣の襟を顔の前に引き寄せる。

 若木が大きくうろたえた。

「仲良しごっこ? それがどうしたのよ」

 声を張り上げた。

「もしも発症して人ではなくなっても、あの2人に殺してもらえるから、私は安心していられるの」

 典子は思い切り若木を突き飛ばした。

 慌てふためいて、若木が会議室から去った。

 背後に、誰かが立った。頭の上に手のひらが乗せられた。

 振り返らないまま、典子は問うた。

「……処分って、どういう意味ですか? 掛井くんの事?」

 そうだ、と返事があった。マサムラだった。

「……ころさないで」

 身体が震える。

「……」

「感染なんて、何かの間違いかもしれないじゃないの!」

「間違いなく感染している。君には見せなかったが、彼は……」

「感染していても、ワクチン、出来るんでしょ……? じゃあ、病気は治せるじゃない……私と、同じケースの感染なんでしょ? じゃあ、化け物じゃない、人でしょ?」

「もう、人じゃないかもしれん」

 その意味を、典子はあえて見ないようにした。懇願に声は震えた。

「かけいくん、ころさないで……」

 なんでもしますから。声を押し出す。おねがいだから、なんでもいうことききます。

「これは決定事項だ」

 穏やかな声が、無慈悲な宣告を下した。

「もしも君のご両親や、友達が誰に食い殺されたり、その逆があったら? 我々はそれを阻止しなければならない。例えその結果、典子ちゃんから憎まれても構わない。これはもう、可哀想とかそういうものではなくて、個人の感傷からは大きく離れた問題なんだよ」

 返事が出来ず、典子は顔を上げた。その先に、圭人と蓮がいる。

 ……沈黙の後、圭人が手を差し伸べた。

「……部屋、帰ろうぜ。典子」

 中性的な顔立ちにそぐわない、線の太い手。

 典子はその手を見つめた。


 あれから、どうやって帰って来たのか。

 気が付いたら、バスルームにいた。目の前は、白い湯気で埋まっている。

 典子は湯船に身を浸していた。湯の心地良さは感じない、温度のある液体の中に、ただ入っていた。何度思い出しても『処分』その意味は変わらなかった。

 得也が殺されてしまう。

 なんとかしたい。それが願望だが、だからといってマサムラたちに対する怒りはない。元はと言えば、自分が蒔いた種だ。その芽を刈り取る人たちを、非難出来ない。

 ウィルスの脅威だって、頭では分かっている。

「……かけいくん」

 得也も、あの夜に、自分と同じ浜辺にいたのか。そこで、あの白い怪物のどちらかに噛まれた、そしてグール・ウィルスに感染した。

 その感染した体で、逃げ回っていた。

「わたしのせいだ」

 何度悔いても、悔やむ事しか出来ない。

 頭の中がぼうっとする。視界がかすむのは、湯気のせいだけじゃない。

 雨の日の過去がよみがえる。

 突然の雨。自転車を力いっぱい漕ぐ自分。

 点滅する信号。

……強引に、渡ろうとして……

 頭が朦朧となった。電信柱に激突した車。雨の匂いに、ゴムの焼けるいやな匂いが広がって……自転車ごと、水たまりに転がっていて……

 額が冷たくなった。

 突然、意識が覚醒した。典子の目の前に、白い天井があった。

「――気がついたか」

 天井を蓮の顔がまたいだ。

「風呂の中で寝るな」

 ベッドの上だ。パジャマを着ている。

「湯あたり起こしてたんだよ」

 圭人の声。慌てて飛び起きかけて、目まいが起きた。斜めになった典子の上半身を、圭人の手が支えた。

「心配するな。典子を風呂から引っ張りだして、着替えさせたの、俺じゃなくて蓮だから」

「……ごめんなさい」

「典子の端末から、持主の脈拍と脳波の異常値が送信されてきたからさ」

 片方の耳につけている、クリップ型の端末の事だ。

 圭人から差し出されたコップの水を、典子はぼんやりと見つめた。

 言葉が勝手に転がった。

「掛井くんを、処分……て言ったわね」

 2人が同じ表情になった。

「処分、て……あの白い2人と、同じ事になるの?」

 殺すという単語が、口に出来なかった。

「掛井くんは、本当に、感染しているの?」

「そうだ」「その通りだ」

 答えは、残酷な程に明瞭だった。

「やめて!」

 蓮と圭人。2人とも信用がおけるのは分かっているが、典子の意志と全く別の場所で役目を持っている。

 この2人に得也の事を懇願しても、駄目なのは分かっていた。それでも。

「やめて、ころさないで!」

 典子は蓮の胸にすがりついた。

「お願い、何かの間違いに決まってる! だって、言葉をしゃべっていたじゃない、感染したら、人の意識も知能も壊れるんでしょう!」

「なら、典子。お前はどうだ?」

 細胞が凍りついた。

「彼もお前と同じ、レアケースの1つだ。感染していながら、人の意識や知能もある。だが、お前と大きく違う点が1つある」

「……」

「掛井得也は人間を食べている」

 その時、奈落の底へ、心が吸い込まれた。口でなら否定はいくらでも出来る。

 だが、それは事実なら、否定しようが動かせない。そして相手は蓮だった。

 典子は首を振った。否定なのか、意識を保つためか、自分でも分からなかった。

「典子には見せなかったが、その記録もある。それから、お前は聖英学園の石川という教師を知っているか?」

「隣のクラスの……担任よ」

 失踪したという噂があった。

「掛井家の収納庫で、掛井得也の母親の死体と共に、彼の白骨が発見された。母親の死体の腐敗は進んでいたが、石川の死体には骨についているはずの肉も、内臓もなかった。腐敗によるものではなく、そぎ落とし、抜き取られたものだと警察の検死結果は出ている。警察も、重要参考人として掛井を追っている」

 もう、拒否する事が出来ないほど、事実は重く、動かすことは出来ない。

 それでも、典子には懇願を止める事が出来なかった。

「だめ……やめて……」

 蓮は無表情のままだ。圭人も黙っている。

「掛井くんはわるくない……全部、掛井くんじゃなくて、私のせいだから……だから、許して……」

 典子は懇願を繰り返した。

 自分がそもそもの発端だ。

 何があっても、悪いのは自分だ。得也じゃない、罰せられるなら、自分を罰して欲しい。

 典子は叫んだ。

「悪くないから、ころさないで」

「どういう意味だ」

「元は、私のせいだ。掛井くん、聖英学園に来るはずじゃなかった。もっと、偏差値が高い付属に行くはずだったのに……」

 圭人と蓮は黙っている。

「私と掛井くんは、同じ中学だったの。同じクラスで、その時から、掛井くん、頭良かった。進路希望が、県で一番偏差値が高い付属だったけど、絶対に受かるって、皆そう思っていた。

 中学三年、卒業間近の日の夕方だった。

 自転車で買い物に行き、突然の雨に降られた。買っていた雑誌が雨に濡れてしまうのがイヤで、帰りを急いだ。

 横断歩道で点滅していた信号は、赤になろうとしていたが、典子は強引に渡った。

「走っていた車が、飛び出した私に慌ててハンドルを切って、電信柱に衝突した。その車に乗っていたのが、掛井くんの家族で、ご両親はかすり傷で済んだけど、助手席にいた掛井くんは足の骨を折って、手術を受けて、一か月の入院することになったの……そのせいで、志望校に受験できなかった」

 両家の間に弁護士が入って、示談交渉はまとまったが、当然、得也の母には罵倒された。

 息子の将来を壊したと、病院で顔を合わせた時、廊下で土下座を強要された。

――志望の進学校に受験出来なかった得也は、聖英学園に入学した。

 聖英学園に入学した得也と、典子は同じクラスになった。

 得也はクラスに馴染む素振りは、全く無かった。

「元々、入る気のなかった学校で、しかも本命より学力のレベルが低いもん。学校も、楽しくないのも無理ないじゃない」

 得也が周囲にとけこむように、何とかしようと思った。

 それが、得也の逆鱗に触れた。

『俺に構うな』

『いつまで加害者面しているつもりだ』

 クラスの面前で、得也は典子に忌々しげに言葉を吐き捨てた。典子は自分の思い上がりを知らされた。消え失せたくなるほどの羞恥だった。

 二年になって、クラスは別れた。得也がほとんど学校に来なくなった。

 性質の悪いグループと、付き合いが出来たという噂を聞いた。まさか、と思った。

 掛井くんはそんな人間と遊ぶようなタイプじゃない。

 しかし『構うな』そう言われた以上、元凶である以上、得也にそれを確かめる事どころか、接することも出来なかった。

 隣のクラスになっても、顔を見ない。

 いくら心配でも、校舎の入口で毎朝、彼の靴箱を見ているしかなかった。

「……もしも、私が事故を起こさなかったら、掛井くんは希望通りの学校に入れて、聖英に来ることも無かった。学校生活だって、付き合う友達だって違っただろうし、夜に浜辺なんか絶対に行かなかった」

 人の運命を狂わせた罪は、どうすれば償えるのか。

 もしも得也が殺されれば、自分は法律ですら罰してもらえない、人殺しだ。

「だから、掛井くんは悪くない、私のせいで掛井くんは感染して、それから……」

 石川教師が、得也に殺されたのも自分のせいだ。

 事故さえなければ、2人は無関係でいた。

「殺すなら、私を殺して」

 元凶は自分だ。心は罪悪感で潰された。

 あの日、自分の起こした事故が全ての始まりだ。得也の運命が狂ったのも、人が死んだのも、全ては自分のせいだ。

 それなのに、自分は生かされている。血液抗体、そのおかげで。

「掛井くんを酷い目に遭わせておいて、私は……平気な顔で、貴方たちと学校に通っていたのよ」

 圭人と蓮と一緒に、 得也がいない学校生活を楽しんでいた。

 靴箱に入り切らない、毎朝の蓮宛のラブレターの量に、キレていた圭人の姿に笑った事。

 美術の時間、蓮がモデルを務めた結果『この美しさを、私の画力で冒涜出来ない』とほとんどの生徒が、白地でスケッチを提出してしまった事態に、驚き呆れた事。

「……お願い……掛井くんは、許して……」

 闇の中で、声がした。

「それは、出来ない」

 許しは、真っ二つに叩き割られた。

「処分の対象は、あくまで人類に害をなす感染者だ。典子はそうじゃないが、奴はそうだ」

 圭人の声に、揺らぎは無い。個人的感情を完全に封印した目。

「掛井を確保するのは、俺たちの役目だ。支部長だって言っただろう? この事態は、すでに典子の感情だけじゃ済まされない問題なんだよ」

 声を失ったまま、典子は圭人を見つめた。謝罪も懇願も、全てが無にかえされて空っぽになった。

「……蓮、後を頼んだ」

 圭人が背中を向けた。

「仕事残しているんだ。片付けてくる」

 典子はベッドの上で、償い方が分からない罪を呆然と眺めた。

「――典子」

 蓮が残っていた。

「お前は、掛井の運命を狂わせたと言ったな。本来行くべき進路が、事故のせいで外れたのが発端だと」

 首が動いた。その通りだ。

「……望んだその通りの将来や、生活が送れなければ、それは不幸なのか?」

 典子は顔を上げた。

「事故はただのきっかけだ。お前は、不運のパーツの1つにしか過ぎない」

「……それは……」

「つまらないきっかけ1つで、状況が変わるなんて良くある事だ。失敗を回避したいなら、状況に合わなくなった当初の作戦を捨てて、その都度、新しい戦略や戦術を立てれば良いだけのことだろう。きっかけなんか、いくらでも転がっている。今回たまたま、それが典子だっただけだ」

「……」

「状況の変化が、全て失敗につながる訳じゃない。彼の運命が狂ったとすれば、事故以外にも原因があるはずだ。事故の後、どう行動したか」

 静謐な蓮の顔を、典子は見つめた。

 言葉に装飾は無い。典子への同情や憐憫ではなく、今までに蓮が得て来た経験からの言葉だ。言いたいことは分かるし、それも正しいが。

「……割り切れない」

「割り切れないなら、そう割り切るしかない。それなら、どうする?」

 典子を責めるでも、呆れるでもない。

……それなら、どうする? 意識の向こうにあるのは、分厚く高い鉄の壁。それをどうやって取り除き、道を作るのか。

 自分を責める涙は、武器にならない。

 典子は目を閉じた。

                 ※


 典子の部屋から出た圭人は、メインルームでモニターの監視にあたっていた。

 壁四方には、何千何万ものモニターがマス目のように広がる、画像の大海原だった。

 街中、施設、防犯カメラとあらゆるところに設置された監視カメラの映像が、ここに集結している。掛井得也の体格や特徴に一致する人物が映れば、直ちにセンサーに引っ掛かるはずだった。

 腕組みをしてモニターの海に沈む圭人へ、同じく背中合わせにモニター監視中のカスノが声をかけてきた。

「典子ちゃんは、大丈夫だった?」

「大したことないよ。蓮がついてる」

……発見次第、処分しろ。

……殺すなら、私を殺して

 支部長の命令と、典子の泣き顔が同時に脳裏をよぎった。

 パブヤン島が浮かぶ。

『この子と一緒に殺して』

 肩に食いつく感染した娘を抱きしめて、圭人に懇願して来た若い母親。

 もう、憎まれる事に、慣れているはずだ。

 沸き起こりかけた感情に、圭人は蓋をした。


 端末画面に映し出された、男女の二体の死体。

 一つは腐乱している女、そしてもう一つは、食われた後の男。

「流石に理性が人だと、母親を食べる気にはならなかったようね」

 医療室で、マーニットは端末のスイッチを切った。空に浮かぶ数々のホログラフィ、モニターが一斉に消えた。

 疲労よりも倦怠が、これ以上の労働を拒否していた。

 机の引き出しから、写真を1枚取りだす。それを机の上に置くと、キャビネに立ってウィスキーを取り出した。

 それをグラスに注ぐ。

 写真に映っているのは、姉のユワディと姪のアンラット、そして姉の夫のソム。

 休暇が取れたら島へ、姉の家に帰省したものだった。すでに両親はいない。マーニットにとって、家族と呼べるのは姉と、その家族だった。

 1杯、2杯。濃いアルコールは咽喉を焼いた。愛する家族を前にして、思考は冷たいままだ。マーニットは姉家族の写真を見つめた。

「……飲み過ぎるなよ」

 マーニットは振り向いた。いつの間にか、マサムラが医療室に入って来ていた。

「ノックはしたよ」

「気が付きませんでした。次は足音を立ててお入り下さい。いかがです? ご一緒に」

 マーニットは悪びれる気なく、ウィスキーの瓶を掲げてみせた。

「頂くよ」

 強いアルコールのグラスが2つになった。

 つまみも会話もない、酒のやり取りがしばらく続いた後、ようやくマサムラが写真について口を開いた。

「ご家族か?」

「ええ」

 マーニットは、写真に目を落としたまま答えた。

「……桂三曹のことだが」

 やっと本題か。マーニットは目を閉じ、息を吐いた。

「……私が読ませて頂いた桂三曹の経歴に、パブヤン島の任務の記載はありませんでした」

 ドクター若木が会議室で言わなければ、ずっと知らなかっただろう。

「彼は当時、パブヤン島で訓練を受けていた訓練生だった。緊急事態で人手が足らず、駆り出されたんだろう。記録に記載される経歴は、正式に配属されて以後だ」

 騙した訳じゃない、と聞こえた気がした。もちろん、マサムラがそう言うはずもないだろうが。

「ここに映っている姉夫婦と姪は、処分の対象でした。姪は、まだ10才でした」

「……」

「当時の桂三曹が、直接手を下したかどうかは分かりませんけれど」

「桂三曹は、ウィルスによる犠牲者がこれ以上広がらないために、命令に従い任務を果たした。奴の立場を分かってくれるか?」

 マーニットは、頭を振った。休暇を終えて職場に戻る自分を、泣きながら追いかけて来た、幼い日のアンラットを思い出す。

 マサムラの視線が、分かってやれと圭人への理解を乞うている。 

 しかし、分かるかどうか、答えは出ない。出しても、正しい答えなのか、自分でも分からない。

 マーニットは、黙ってグラスを飲み干した。





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軍人たちの放課後 洞見多琴果 @horamita-kotoka

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