第二部
ヒバナは人殺し
ヒバナは人殺しである。
灰色のごわごわした髪の、美しい少女の姿をした人殺しである。
ヒバナは少女だが人間ではない。魔物である。
心のゆがみから生まれたゆがみの娘である。
ヒバナを生んだ心のゆがみとは、言うまでもないかもしれないが、人を殺すことにためらいを持たない心。
ヒバナはためらいなく人を殺す。
真夜中、満天の星空とは言いがたいどんよりとした夜空だ。
ヒバナはドアをノックする。ぶっきらぼうな叩き方だ。
返事はない。ドアはピクリとも動かない。
ヒバナはドアを蹴った。木でできたドアは、あっけなく壊れた。
家の中に押し入る。誰もいないように見える。
でもヒバナにはわかる。家の中に誰かいる。どこかに隠れている。
ヒバナには聞こえる。声が聞こえる。
恐ろしい、恨めしい、口惜しい
耳で聞く声ではない。ヒバナ――ゆがみの娘には感じ取れる、人の心の声。
ヒバナは階段を登り、寝室の中に入る。ベッドとタンスに本棚にクローゼットが備えられた何の変哲もない部屋だ。
心の声は大きくなる。
怖い死にたくない怖い死にたくない
ヒバナはクローゼットを開ける。
ああああと悲鳴のような甲高い声が響く。
中に人間が隠れていた。人間は刃物を持っていた。
料理用の包丁だ。ヒバナめがけて振り下ろした。
無意味なことを。
包丁はヒバナに刺さっているように見える。そう見えるだけ。ヒバナの体を傷つけ、血を流させることはない。
人間が手を離すと、包丁は重力に逆らうことなくカランと床に落ちた。ヒバナの体をすりぬけて。
ゆがみの娘は人間には殺せない。手で触れることすらかなわない。
体から力が抜けそうになる人間の首を、ヒバナは右手でつかむ。
ゆがみの娘は人間に手を触れられる。考えてみれば、不公平な話だ。
「質問に答えてくれるか?」
今の人間は、ヒバナの言うことならなんでも聞く気だ。
「私に殺されるとわかっていたのか?」
人間はうなずいた。
「この町で人を殺せば私に殺される。わかっていたのになぜ人を殺した?」
人間は洗いざらい話した。
あいつが許せなかった。あいつは私を苦しめていた。あいつに腫れ物のように扱われていた。
耐えていたけどもう限界だった。あいつを殺すことしか考えられなくなった。
「本当に殺す以外にお前にできることはなかったのか・・・?」
人間は答えた。
自分はどうかしていた。後悔している反省もしている。
「反省・・・そんなことをするぐらいなら、そもそも人殺しなんてするべきじゃなかったんじゃないか? 」
人間は息を呑んだ。
「反省しているなら、なぜ自分が殺したと誰かに打ち明けなかった? なぜ私が来たことに気づいて、ここに隠れて殺されないようにしようとした? なぜお前を見つけた私を殺そうとした・・・?」
ヒバナは足元に転がる包丁に目を落とす。
人間はあぶら汗を流す。
「まさかと思うが・・・自分は殺されても死なないとでも思っているのか・・・?」
ヒバナの目は据わっている。
人間は何も言わなくなった。
「お前は他の人間と同じだ。殺されれば死ぬ」
人間の体から力がなくなった。体にナイフが突き刺さっていた。
ヒバナの左手に持つナイフによって、人間は命を奪われた。
ヒバナがナイフを抜き、右手を人間の首から放す。人間はクローゼットから飛び出て、ごろんと倒れる。
だくだくと流れる血が床を濡らす。
ヒバナは死体をじっと見下ろす。自分が殺した人間をじっと見る。
ヒバナは悲しむことなどない。人を殺して後悔することなどない。
ヒバナは胸に手を当てる。
「・・・・・・やっぱり、笑えない」
ヒバナは笑いたかった。
人を殺したいという心から生まれたバケモノならば、人殺しが好きでたまらないバケモノならば、人を殺して大笑いするべきだと思ってるし、実際以前のヒバナはそうしていた。
でも笑えない。今のヒバナは人を殺しても笑えない。
自分が恨めしいヒバナは、きつい顔をして歯を食いしばるしかできなかった。
ヒバナは殺す相手にこだわる。
ヒバナが殺すのは、人を殺した人か人を殺そうとしている人。
だからどうした? ヒバナは紛うことなき人殺しである。
ヒバナは殺すべき人間を探す。町で一番高い建物に登る。
高くそびえ立つ時計塔、ヒバナはそのてっぺんまで登る。
塔の外壁を走って登る。ゆがみの娘は重力に逆らえる上、ヒバナは足が速い。
時計塔のてっぺんから町を見下ろす。ヒバナは高いところは嫌いじゃない。
夕日がまぶしい。大人は仕事や買い物をすませ、子供たちは家に帰りはじめる頃合。
点のように見える人間たちを、ヒバナは上から見下ろしている。
ヒバナは呆れていた。
「人を殺せば殺されるとわかっていても、なぜ人を殺すんだ・・・? なぜ人を殺そうと思うことをやめない? マジで自分は大丈夫だとでも思っているのか?」
昨晩殺した人間を思い出し、ヒバナは呆れていた。
ルールを破れば取り返しのつかない罰が与えられるとわかっていても、ルールを破る人間たちがヒバナにはわからない。
「・・・私が言える立場じゃないか」
ヒバナは自分がうっかりしていたと思った。
自分は人間ではないバケモノだ。人殺しになんのためらいも持たず、今まで何人もの人間を殺してきたバケモノだ。人殺しの人間にとやかく言える身分じゃないことを、ヒバナはわかっているつもりだけど一瞬忘れていた。
ヒバナは町を見下ろす。心の声が聞こえてくる。
殺したい 殺したい 殺したい 殺したい
あっちこっちから聞こえてくる。
心の声を聞こうにも相手が近くにいなければならない。でもヒバナには特技がある。
人を殺したい気持ち、殺意に限ればどんな遠くからでも感じ取れる。この町の住人全員から感じることだってできる。
すごい力だ。でも、
「この力、役に立たんな」
ヒバナは気がついていた。
昨晩の人を殺した人間を見つけたのも、この力のおかげじゃなかった。
もっといい方法があることに、ヒバナはとっくに気がついていた。
何の気もなく、ヒバナは町の景色を見つめ続ける。
夕日が沈みかけている。
人通りがまばらになっている。街灯に明かりが点きはじめる。
何事もない景色を、ヒバナはただじっと見下ろしている。
街灯にどんどん明かりが点いてくる。外を歩く人がいなくなる。
暗くなる空と、明るくなる町。ヒバナは半眼で見つめる。
「ヒバナ?」
ヒバナの目が一気に丸くなった。驚いて肩がすくんだ。
バランスを崩し、落っこちそうになる。
「ヒバナ!」
ヒバナの名前を呼んだ誰かが、手を伸ばす。
ヒバナの腕をつかんで引き寄せる。
「ごめんねヒバナ、驚かせてしまって、大丈夫?」
誰かはヒバナを抱きかかえる。
丸い目のままヒバナは誰かの顔を見上げる。
さらっとした長くて白い髪の美しい少女だ。
「放せ!」
ヒバナはとっさに少女の腕を振り払った。
白い髪の少女とヒバナがお互いに向き合う。時計塔のてっぺんで。
「なんでここにいる」
元の鋭い眼つきに戻して、ヒバナが聞く。
「ここならヒバナに会えると思って」
白い髪の少女がさらりと答える。少女はヒバナと同じ方法でここまで来た。
塔の外壁を登って、重力に逆らい走って登った。
「ご苦労なことだ」
「ありがとう」
「ねぎらってない」
きつい表情のヒバナと正反対に、白い髪の少女は笑顔だ。
ヒバナが少女の名前を言いそうにないし、少女本人も名乗りそうにないので言ってしまおう。
白い髪の少女の名前はヒガンである。
ヒバナは向きを変えて、ヒガンと目を合わせないようにした。
「ヒバナと話したかったんだ」
ヒガンは構わず、ヒバナと話を続ける。
「私は話したくない」
「町でヒバナを見かけて、声を掛けてたんだけど、ヒバナ気がつかなかったからヒバナと二人きりになれるところを探してたの」
「気がついてたけど無視してたんだ」
「そうだったんだ」
ひどい仕打ちをしていたことを話しても、さらっと流して笑顔でいるヒガンにヒバナはいらだった。
今さらだが、ヒバナはヒガンのことが嫌いだ。
「ヒバナ、最近は町中によくいるよね」
「この町に住んでんだから当たり前だろう」
「でも前は町中でヒバナを見かけること、あまりなかった。きっとここにいるときの方が多かったんだね」
「高いところが好きなんでな」
「うん、いい景色が見れたりするもんね」
「お前も好きなのか」
「ううん、あまり」
「怖いのか?」
「怖くない。でも高いところから何かを見下ろすのがあまり好きじゃない」
「じゃあ来なくてよかっただろう」
「でもヒバナと話したかったから」
「私は話したくないんだ」
「でも、わたし見てたのヒバナが町の人と話しているところ」
「人を殺したやつを知らないか聞いていた」
「そうなんだ。ヒバナ、変わったね。前はそういうこと人に聞かずに一人だけで調べてたのに」
「そのほうが見つけやすいとわかったんだ」
「じゃあわたしとも話せる?」
「お前とは一言も話したくない」
「そうなんだ」
どんなひどいことを言っても、ヒガンは笑顔のままでいることをヒバナはよく知っている。だからヒバナはヒガンのことが嫌いだ。
ヒガンは何も言わなくなった。
話したくないというヒバナの気持ちに応えたらしい。
気づかいなのかあてつけなのか、よくわからない態度にヒバナはますますいらだった。
日は完全に落ちた。
今日の夜空は雲ひとつない。月が顔を出し始め、町は街灯の明かりで照らされている。
二人とも何も言わず、夜の景色を眺めるのみ。
ここにいる理由はない、そう気づいてヒバナが塔のてっぺんから立ち去ろうとしたときだった。
殺したい殺したい殺したい殺したい
心の声が聞こえてくる。殺したいという声自体は珍しくない。でもちがう。
殺したい殺したい殺したい殺したい
強い殺意の声がする。ヒバナは目をさらに鋭くさせる。
「ヒバナ」
何かを諭すようにヒガンが言う。
ヒバナと同じく心の声がヒガンにも聞こえている。
ヒガンに返事することなく、ヒバナは時計塔から飛び降りる。
「ヒバナ!」
ヒバナの後を追って、ヒガンも塔から飛び降りる。
ゆがみの娘はやたらと丈夫。町で一番高い建物から飛び降りたって、スタッときれいに着地する。着地してすぐに高く跳ぶことだってできる。
家の屋根に飛び移り、走り、また跳んで別の家の屋根に。
さらに跳ぶ。壁が真横にある。壁を蹴った。反動で一直線に速く跳ぶ。
ヒバナと同じことが、ヒガンにもできる。
二人は声のしたほうへ、全速力で跳んでいく。
二人ほぼ同時に、目的の場所に降り立った。
殺したい殺したい殺したい
心の声はすぐ近くで聞こえる。
声の主が目の前にいる。
そいつの見た目は、バケモノとしか言いようがない。中身も紛うことなきバケモノ。
物騒な刃物を握りしめるバケモノ。心の中は殺したいという声しかないバケモノ。
心のゆがみが生んだもの。異形の怪物、ゆがみの魔物。
人を殺したいという思いから生まれた魔物、人を殺すことしか心にない。
「やるよヒバナ」
ヒガンから笑顔は消えていた。
いつのまにか、右手には刀が握られている。暗がりの中でも輝いて見える、見た目の美しい刀だ。斬れ味鋭く、バケモノでも人間でもどんなものでも斬れる。
「お前はやらんでいい」
鋭い眼つきで、ヒバナも武器を握る。
ヒバナの左の手のひらからパッと光が放たれた瞬間、ヒバナのナイフが現れる。
人を殺すのが目的で作られたであろう形のナイフだ。
「相手は一匹だけだ」
ヒバナはヒガンを制しようとする。
「ちがうよヒバナ」
「なに?」
ヒバナは周りをよく見た。
相手は人殺しの魔物だけではない。
心の声が聞こえる。
むかつくむかつく
ねたましいねたましい
おそろしいおそろしい
うらめしいうらめしい
人殺しの魔物と比べて小さいやつが、二人の前だけでなく周りにうろついている。
ヒバナは舌打ちをする。
「ちっこいやつまでうろついてたか。面倒くさい」
心のゆがみとも言い切れぬ、単なるネガティブな感情、怒り、妬み、恐怖、恨み、そういった小さな心の動きからでも魔物は生み出される。
心のゆがみから生まれた魔物とは力も弱いし、種類も違うが、面倒なのでこういうやつらもまとめて、ゆがみの魔物と呼ぶことになっている。
「ひっこんでろ。全部私がやる」
「やだ。ヒバナに全部丸投げなんてしたくない」
「ひっこめ」
「いや」
不毛な問答はさっさと終わらせ、ヒバナは大きな人殺しの魔物めがけてつっこんだ。
先手必勝、ヒバナは魔物の体のど真ん中にナイフを突き刺そうとする。
防がれた。やたら大きい刃物で魔物はヒバナのナイフを受け止めた。
ヒバナはまた舌打ちをする。すぐに後ろに跳んで、距離を離す。
魔物が反撃する。やたらめったら刃物を振り回す。ヒバナを狙ってはいるが、当てるのが下手なようだ。
自分を狙う刃物を、ヒバナは軽くかわす。
上から振り下ろして、ヒバナにかわされて、刃物は地面にめり込んだ。好機だ。
ヒバナは刃物を踏みつける。ベキッと刃物が折れてしまう。
「おっと」
ヒバナもまさかこうなるとは思わなかった。魔物の武器を封じればそれでいいと思っていた。
丸腰になった魔物。なにやら焦っているように見える。
「遺言あるか?」
ヒバナは魔物と話してみる。
魔物は何も言わない。
何も言えない。
魔物は言葉がわからない。耳で聞こえる声を出すこともできない。
「あるわけないな」
話しかけたのはヒバナなりのおふざけだ。
ヒバナはナイフを振る。
魔物をやたらめったらに斬りつける、刺す。
容赦することなく斬りつづける。もういいかと思ってナイフを止めた。
魔物はまだ立っている。
「まだか」
ヒバナは再びやたらめったらに斬りつける、刺す。
魔物が死ぬまでやめない。
「しぶといやつ」
やっと魔物が死んだ。跡形もなく消え去った。ゆがみの魔物の死体なんてこの世界には存在しない。
「死ぬなら断末魔でもあげてほしいもんだ」
魔物が消えた後ちょっとの間、空気を斬っていたヒバナがごちる。
まだ戦いは終わっていない。
ヒバナはナイフを構えなおし、周りを見る。
静かだ。何事も起きていない。
「ヒバナ、大丈夫?」
ヒガンの声だ。
刀を地面に刺している。その先には、刀で体を貫かれて苦しんでいるように見える小さな魔物の姿がある。
「わたしは大丈夫。こいつで最後だよ」
ヒガンは刀を一旦魔物の体から抜いて、もう一度突き刺した。
魔物は消え去った。
ヒバナはその様子に、息を呑んだ。
ヒバナが大きな魔物一匹を殺す間に、ヒガンはたくさんの小さな魔物を全部殺していた。
戦いは終わっていた。一人で全部殺したかったヒバナはきまりが悪かった。
ヒバナは三度目の舌打ちをした。
ゆがみの娘がゆがみの魔物を倒す。この町では日常風景である。
「ヒバナ――」
ヒガンに声を掛けられても、聞こえないことにして、ヒバナはさっさとその場から立ち去ろうとした。だがそうしなかった。
何かを見つけてしまった。ヒバナはそれの近くに行く。
「どうしたのヒバナ?」
ヒガンはヒバナについていく。
ヒバナはそれの近くでしゃがみこむ。
人間の死体だ。血を流して倒れていた。
「死んでから間もないね」
ヒガンがヒバナの後ろから死体を見て言った。
ヒバナもヒガンも、死体を見てうろたえることなどない。
「やつらにやられたんだ」
刃物で刺されたような傷と、ここに死体があることからヒガンがそう結論付けた。
「ちがう」
ヒバナが否定した。
ヒガンが「えっ」と声を漏らす。
「この傷はさっきの魔物の得物とはちがう。大きさが明らかに違う。こいつをやったのは恐らくただの包丁だ。出血がやけに少ないのもおかしい。違う場所で血を流して死んで、ここまで運ばれたんだ」
死体を少し観察して、ヒバナはすらすらとこの人間に起こったであろう事を推理する。
ヒバナはさらに、うつぶせの死体をひっくり返してあお向けにする。
「こいつ・・・刺された以外にケガをしている。打撲だ・・・全身を強く打っている。これは・・・高いところから突き落とされたな。でも骨が折れてない。高さはそれほどでもない。・・・・・・死んだ後で落とされたんだ」
「すごいねヒバナ。そんなことまでわかるんだ」
心から感心するヒガンを、ヒバナは無視して、黙ってじっとしだした。
「どうしたのヒバナ?」
とヒガンに聞かれても、ヒバナは何も答えない。
(・・・やはり聞こえない)
何が聞こえなかったのか?
人の心の声だ。死人の心なんて何もないと思うほうが当たり前だろう。
だが以前のヒバナは、死人の心を感じていたという。でも今のヒバナには死人から何も感じない。
(やっぱり思い込みだったというのか・・・?)
ヒバナは無意味なことをやめた。上を見上げてみた。
「真上にベランダ・・・ミステリーならこのあとさらに謎が増えるところだが・・・」
ヒバナはジャンプした。真上のベランダへ飛び立った。
引き戸がわずかに開いている。鍵もかかっていない。ヒバナは家の中に入る。
においがした。鼻につくにおいだ。
血の匂いだ。床に引きずったような血痕がある。たどってみる。
寝室に血だまりがあった。まだ新しく渇いていなかった。
寝室には激しく争った跡まである。壁紙に爪で引っかかれたような傷がある。
血のついた包丁が、サイドテーブルの上に置かれていた。
「現実はミステリーとちがう」
そうつぶやいた後、ヒバナに心の声が聞こえた。
恐ろしい、悲しい、口惜しい
いろんな感情がごっちゃになった心の声だ。
声の主を探す。
階段を下りる。声の主はあっさり見つかった。
居間のソファで、その人間はぐったりするようにして座っていた。
「あんた、人を殺したか?」
ヒバナの唐突な質問にも、その人間は全く驚かなかった。
何も言わずうなづくだけだった。
「すぐ近くに死体があった。あれは誰だ?」
人間は答えた。自分の親だと。
「なぜ親を殺した?」
親にひどいことを言われた、自分の親と思えなかった。だから殺したと答えた。
「何を言われた?」
たくさん言われた、毎日毎日心ない言葉を浴びせられた、お前なんか子だと思いたくないとまで言われていたと答えた。
「なぜ今殺した?」
近くにゆがみの魔物が現れた。見てみると、あいつが刃物を持っていることに気づいた。近所の人たちが戸締りをきつくする中、自分は寝室で震える親を包丁で刺し殺した。死んだ親をベランダまで引きずって、そこから突き落とした。そうすれば、魔物の仕業だとごまかせるかもと思っていたと答えた。
「浅知恵だったな」
人間は何も言わなかった。
「この町で人を殺したら・・・わかっているな?」
ヒバナはナイフを人間に見せつけた。
人間は怖がるそぶりを見せなかった。
「あんた・・・自分がどうなるかわかっていないのか?」
人間はわかっていると答えた。
思い通りにしてほしい、自分はもう死ぬつもりだとまで言った。
ヒバナは口を閉ざした。
人間は自分の命が終わるのを待った。
ヒバナのナイフがパッと光った。ナイフがヒバナの左手から消えた。
人間はどういうことかと目を見開く。
「私は人殺しのバケモノだ。でもバケモノだって殺すやつを選ぶ。あんたみたいな死にたがってるやつを殺したって・・・楽しくない」
ヒバナはきびすを返した。
「生きろ。親を殺した人間としてな」
ヒバナはそのまま立ち去ろうとした。
――気配を感じた。すぐに後ろを振り向いた。
手遅れだった。
親を殺した人間は殺された。
ヒガンが殺した。
うなだれる人間の体から、ヒガンは刀を抜いた。
ヒバナは呼吸が荒くなった。
「だめだよヒバナ。人を殺したことは命をもって償わせないと」
血にぬれた刀を手に、ヒガンは白い髪をなびかせながら、ヒバナのほうを向いた。
「それに親を殺した人間として生きるなんて、死ぬよりもつらいことだよ」
語るのをすっかり忘れていた。
ヒガンはヒバナと同じく、美しい少女の姿をした魔物、ゆがみの娘である。
ヒガンを生み出した心、これもヒバナと同じく人を殺すことをためらわない心。
長くて白い髪と同じように、白い着物に鮮やかな赤色で描かれているのは自分と同じ名前の花。返り血ではない。
ヒガンには信念がある。この町に住む人を守る。そのためなら、町に住む人を殺すやつは必ず殺す。魔物でも人間でも。それが当然のことだとヒガンは強く思っている。
「お前・・・」
ヒバナは目を据わらせた。呼吸がどんどん激しくなる。
自分が生かした人間を殺した。ヒバナにはそれに怒っている――ちがう。
「ああああ!」
ヒバナは再びナイフを握った。ヒガンを殺そうと。
ナイフをヒガンのひたいにめがけて振り下ろした。
――――振り下ろしただけ。
ナイフはヒガンのひたいのわずかに先で、ぴたりと動かなくなった。
ヒバナの手が止まっていた。呼吸が荒い。体が震える。
なのに、ナイフを握る左手だけはピクリとも動かない。
「ヒバナ」
ヒガンがヒバナに声を掛ける。
ナイフの切っ先を突きつけられても、いたって冷静だ。顔は無表情だ。なにも感じていないのか。恐怖も悲しみも何も。
「お前に何かを殺させたくなんかない。そのためならお前を殺したってかまわない。そのはずなんだ・・・」
ヒバナの行動が理解できないのは、ほかならぬヒバナ自身だ。
ヒガンを殺そうと思っても、何かが邪魔して殺せない。ナイフを持つ手が止まってしまう。
何度やってもそうなる。ヒバナがヒガンを殺そうとしたのは、これで三度目だ。三度目の正直なんて言葉は、ここでは全く通用しない。
なぜこうなるのか、ヒバナには全く理解できない。
「殺したいなら殺していいんだよヒバナ」
ヒバナは目を見開いた。
「私は殺しても死なないから、ヒバナの気が済むなら私を殺していいんだよ」
ゆがみの娘は人間とちがう。一番の違いは死なないこと。
殺しても動かなくなるだけで、しばらく経てばまた元どおり動き出す。動かなくなったときの記憶もバッチリ残る。
そうとはいえ、ヒガンは恐ろしいことをあまりにもさらっと言ってしまっている。
ヒバナはヒガンの言うとおりにする気はない。したくてもできない。
ナイフが消えた。ヒバナは一目散に、家から出て行った。一秒でも早く、ヒガンの近くから去りたかった。
取り残されたヒガンはヒバナを追おうとしなかった。
「ヒバナ・・・」
とボソッとつぶやくだけだった。
街灯が照らす町を、ヒバナは全速力で走った。つまずいてしまった。
転んで地面に突っ伏した。
「クソ・・・クソ・・・」
立ち上がろうにも、体に力が入らない。
近くにあるものに身を寄せた。噴水だった。
たまたま、水面をのぞきこむような体勢になった。
街灯のおかげでバッチリ見えた。
水の鏡に映るヒバナ。
今にも泣き出しそうな、悲しい顔をした少女の顔。
「ああああ!」
何を思ったかはヒバナにもわからない。ヒバナは水面に映る自分の顔を殴りつけた。
泣きそうな自分の顔をなかったことにでもしたかったのか。本物の鏡だったら粉々に砕けていただろう。
水しぶきがヒバナにかかる。
顔がびしょぬれになってしまう。
ヒバナの呼吸はまだ荒い。
「あいつの・・・あいつのせいだ・・・」
ヒバナはヒガンのことが大嫌いだ。
ヒガンが刀を振る姿が嫌いだ。ヒガンがバケモノを斬る姿が嫌いだ。
ヒガンが人を殺すところなんて大嫌いだ。ヒガンに人殺しなんてさせない。
だからヒバナが人を殺す。
ヒバナは必死で心を落ち着かせた。
ヒバナはゆっくりと立ち上がる。顔に力をこめる。
怒りの形相を作ってみせる。
「この町に人殺しは・・・私一人だけでいい」
ヒバナは強い決意で心を満たさせた。
顔が水でぬれている。
涙を流しているように見えると言われたら、ヒバナは一体どうするつもりなのだろう。
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