第1幕「未知なる世界」

[1]赤漆の髪色をした少女

 微睡まどろむ意識の中で、遠くから姉の声が聞こえた。


『ったく、いつまで寝てんだよ。不甲斐ふがいねぇなぁ』

『████!! █████████████!!!』


 うまく聞き取れなかったが、続けざまに妹が騒ぐ声も聞こえた気がした。


 ――また喧嘩ケンカかなぁ……母さんの雷が落ちる前に仲裁しないと……。


 日常茶飯事いつものの姉妹喧嘩に呆れながら、自分が寝ていたことに気がついた彼――加々良かがら至誠しせいはゆっくりとまぶたを開ける。


「――ッ!!?!?」


 直後、至誠は驚きのあまり思わず目を見開く。

 同時に心臓がね、息を飲んだ。


 鼻先に見知らぬ少女の顔があり、至誠を見下ろしていたからだ。


 少女は赤漆あかうるしのような真っ赤な髪を持ち、猫のように縦長い瞳孔どうこうをした瞳はまるでガーネットのようだ。


 顔立ちは北欧ほくおう的な白人のもので、少なくとも、日本人である至誠にとって馴染なじみ深い縄文人じょうもんじん弥生人やよいじん的な黄色人種おうしょくじんしゅではない。


 少女の年頃は10代前半、それも小学校の高学年程度の幼さだ。


 至誠の視点では、少女の顔が逆さまに映っている。

 すなわち仰向あおむけになっている至誠の枕元まくらもとに少女が立ち、好奇こうきの表情でのぞき込んでいた。


「██████████████████」


 少女が口を開く。

 しかし日本語ではない。高校で習った英語とも違う。そのため至誠には何を言っているのか皆目分からなかった。


 少女は口を閉じ、至誠の鼻先から顔を離す。


 返事を期待した眼差まなざしだと気がついたのは、再び少女が口開いた後だった。


「████████████████」


 相変わらず至誠には彼女が何を言っているか分からない。

 いや、至誠にとっては、ここがどこでなぜ自分が居るのか――その全てが不明だ。


 ――まずは返事を……。


 改めてそう思い、至誠は口を開こうとする。

 だが口から言葉が発せられることはなく、こひゅーと息が漏れ出るのが精一杯だった。


 言葉だけではない。まるで金縛りにかかっているかのように、首から下が動かない。指先すら微動びどうだにせず、顔もうまく表情が作れない。


 思い返すと、目覚めて少女の顔が視界に飛び込んできた際、驚きのあまり飛び上がるほどだったが、体はピクリとも反応してはいなかった。呼吸と、まばたき、眼球運動による視線移動はできる。あとはかすかに口と眉が動かせる程度だ。


 ゾワリとした寒気おかんが至誠の全身を駆け巡る。この金縛りが一時的なものか、それとも頸髄けいつい損傷などによる恒久的なものか分からなかったからだ。


「████████████████」


 再び少女が口を開いた。

 しかし視線はすでに至誠から外れ、どこか別の場所へと向けられている。


「██████」


 少女は至誠以外の誰かに何かを問いかけ、返事が返ってくる。声は低いが爽やかさもある成人男性のものだったが、相変わらず言葉が理解できない。


「█████████████、███████████」


 さらに別人とおぼしき声が聞こえてきた。その声は物腰の柔らかい老年ろうねんの女性のように聞こえた。


『██████████』


 続けて聞こえてきたのは若い女性の声だ。だが子供っぽさはあまり感じられず、20代前後といった印象だ。


 それらの声に共通していることは、何を言っているのか全く分からないことと、声の主にまるで心当たりがないことだ。


 と同時に、至誠は心がざわざわと波立つのを自覚した。


 至誠はとっさに「落ち着け」と内心で自分に言い聞かせ、深呼吸をこころみる。パニックになったところでかえって自分の首をめるだけだ――と理性がうったえる。


 ――落ち着け……落ち着け……。落ち着いて、状況の確認と、今できることがないか考えよう。


 至誠は思考を論理的に巡らせることで、波立つ感情をせき止めようとした。


 だが状況は至誠を置いてけぼりにしながら進行する。


 ふと、少女が移動し視界から外れる。


「……」


 かと思えばすぐに戻ってきた。


 少女の腕には本が抱かれている。それも日本では見られないような古く重厚感じゅうこうかんのあるアンティークな革装本かわそうぼんだ。サイズはA3ほどで、背幅は5センチ以上はある。


 ただでさえ大きな本が、少女の体格と対比たいひされることでさらに大きく感じられた。


 しかし少女はその重量感をまったくものともしていないようで、そのまま優雅ゆうが所作しょさで本を開き、ページをめくっていく――至誠にはその音だけが耳に届く。


 至誠の視界からは、革装本の表紙と裏表紙しか見えず、少女が何をしているのか、何をしようとしているのか分からない。


 直後、周囲になぞの光が現れ浮遊ふゆうしはじめる。それは直線だったり曲線だったり点だったり様々だが、それらが組み合わさり複雑な図柄ずがらを形成し、光が増していく。


 だが至誠が見えたのはそこまでだ。それ以上はたえず増加する光量に目がくらみ、思わず眉間みけんにシワが寄るほど強く目をつぶった。


 ……。


 まぶしすぎて、まぶたを開けない。


 1分か、2分か。

 いや、もっと経過していたかもしれない。


 …………。


 ……。


 ………………。


 しばらくして、ようやくまぶしさが減ってきた。

 同時に、再び少女の言葉が聞こえてきた。


「どうだ? これで言葉は通じているはずだが」


 ――えっ?


 不意に聞こえてきた少女の流暢な日本語に、至誠は思わず目を丸くする。いや、それ以外のリアクションが取れなかったと言った方が正確だろう。


「通じたようで何よりだ」


 至誠の表情の動きで察した少女は満足げに語ると、再び至誠に顔を近づけ「さて――」と言葉を続ける。


「今は無理に動かない方がいい。現在、君の肉体は治療の最終段階に入っている。体が動かないのも声が出ないのもそのためだが、処置しょちが終われば動くようになる見込みだ」


 ――治療? 事故にあった? それとも何かしらの事件に巻き込まれた?


 再びぞわりとした感情が至誠の脳裏のうりににじみ出てくる。


 しかし立て続けに話を続ける少女のおかげで、至誠の脳裏が恐怖とネガティブで満たされるよりも早く事態が進行する。


「まずは意識レベルを確認しておきたい。この指先を追うことはできるか?」


 少女は至誠の目の前で指を立てると、位置を左右へスライドさせる。

 至誠は様々な感情を押しとどめ、今は素直すなおに目で指先を追うことにした。


「眼球運動は自発的にできているな」


 しばらく応じていると、少女は満足げにつぶやく。


 続けて少女は両手の人差し指を立てつつ、一方的に話を進める。


「次にいくつか簡単な質問をする。肯定ならば君から見て右側の指を、否定なら左の指へ視線を向け答えてくれ。もし質問が理解できない、あるいは答えが分からない場合は目を閉じてくれればいい。どうだ、できそうか?」


 すでに意思の疎通そつうが始まっていることに気がついた至誠は、至誠から見て右にある少女の指へと視線を向ける。


「よろしい。では、今の日付は分かるか?」


 今度は視線を左へ向け否定の視線を向けると、少女は愉しそうにはにかんだ。それは至誠が日付を答えられなかったことに対してではなく、問題なく意思疎通ができているという手応えを得たからだろう。


「今いる場所が分かるか?」


 何が何やら分からない――そう思い至誠は再び否定を示す。


「今ここで目を覚ましたことに心当たりは?」


 立て続けに否定を示す。


「では記憶はどうだ? 思い出せるか?」


 そう問われ思い返そうと試みると、記憶が曖昧あいまいな気がした。高校2年生のころまでは覚えているが、新しい記憶ほど多く欠落している。まるで虫食いにあった本のようだ。特に、最後にどこで過ごしていたのか、どこで寝たのかは全く思い出せない。


 一方で、古い記憶にはそのような感覚はない。


 至誠は九州で生まれ育った。

 父は寡黙な漁師で、遠洋えんようまで船を出す時期は長期間家を空けること。母は怒ったら鬼のように怖いこと。年子の姉と妹はよく姉妹喧嘩をしていて、母の雷になぜか自分もよく巻き込まれていたことなど――小さい頃からの思い出は不思議とすぐに浮かんでくる。


 そのため少女の問いに肯定と否定どちらで返すか悩んでいると、少女は察し、新たな選択肢を提示ていじする。


「記憶が部分的に欠落している感じか?」


 その問いにすぐに肯定を返すと、彼女は満足そうにはにかんだ。


「では最後の質問だ。自分の名前は思い出せるか?」


 加々良かがら 至誠しせい

 言葉が出ないので名乗ることはできないが、しっかりと覚えている。


 少女は一呼吸置き「意識レベルや意思疎通いしそつうに問題はなさそうだな」と満足げに語り指先をおろす。


「次の確認だ。今から足先に触れる。触られたと感じたタイミングで目を閉じてくれ」


 少女は至誠から視線を外し、別の誰かに対して頷く。


 直後、誰かに左足に触れられている感覚があったので、目を閉じた。


「どちらの足に触れられているか分かるか? 触れられている側の目だけを閉じてみてくれ」


 言われた通り右目を開く。

 すると触れられている足が右に変わったので、すぐに閉じる目も入れ替える。


 それを何度か繰り返し、同じように腕も触れられたが、問題なく答えられた。


神経しんけいに問題はなさそうだな」


 少女は満足したように確認を終える。


 ――今、手足の触覚が分かるってことは、脊椎せきつい損傷なんかじゃないっぽい……?


 素人考えではあるものの、至誠はそう思えてわずかに安堵あんどした。


 その間に少女は「さて――」と話を進める。


「確認は以上だ。聞きたいことは山ほどあるが、今は後に回そう。最優先すべきは治療の完遂かんすいだからな」


 少女はさらに至誠へと近づき、前髪を優しくかき分けながら言葉を続ける。


「いや、その前にこちらの把握はあくしている状況について、軽く説明しておこうか。まず君がどこの誰なのかについて、我々は全く情報を持ち合わせていない」


 ――えっ……。


「君は『神託残滓しんたくざんし』と呼ばれる『地下深くの特殊な氷層ひょうそうの中』で『肉体がひどく損傷した状態』で発見された」


 ――な、なぜ? いったい何が?


 そんな疑問は言葉にならず、ただ瞳孔どうこうにのみ心理状態が反映される。


「心当たりがないようだが、それはこちらも同じだ。|瀕死ひんしの人間を見つけ、治療したにすぎない」


 それほど重篤じゅうとくな状態だったのだろうか――と、脳裏のうりに死の恐怖がにじり寄る。


「だが肉体の損傷そんしょうについては安心していい。すでに治療の最終段階に入っている。まもなく完治かんちする見込みだ。意識レベルにも問題は見受けられない。故に、今は難しいことは後にまわし、五体満足ごたいまんぞくで命をつなぎ止めたことを喜ぶといい」


 少女はその小さな手を至誠のほおえると、人肌の温もりがじんわりと伝わってくる。


 と、少女は「あぁそうだ――」とつぶやき、思い出したように名乗る。


「まだ名乗っていなかったな。私はリネーシャだ。リネーシャ・シベリシス。この名前に心当たりは?」


 すでにかかげられた指はなかったが、先ほどと同じように視線を左へと向け否定を示す。


 すると少女――リネーシャは「そうか」と相づちを打ち、長く鋭い八重歯やえばをのぞかせながら、再び愉しそうにはにかんだ。

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