第17話 あの男の思うつぼ
カーテンのわずかな隙間から覗くのは、光を一切拒むような真っ暗闇だった。
夜空に星があるのかどうかすら分からない。まるで世界そのものが、意図的に息を潜めているかのようだ。
(それほど時間は経っていない)
エリシアはそう判断した。
だが、体感する時間は異様に引き伸ばされ、秒針一つ進むたびに胸が締め付けられる。
夜は、静かすぎた。
王宮に必ず響くはずの時計の鐘も、衛兵の足音も風が庭を渡る気配すらない。
この部屋だけが、世界から切り取られ黒い箱の中に封じ込められている。
蝋燭の炎が、ゆらりと揺れる。
微かな空気の動きに反応して、炎は細く伸びまた縮む。
そのたびに天蓋の布が歪んだ影を落とし、壁には意味を持たない不気味な模様が浮かび上がった。
それはまるで、蠢く何かが内側から這い出そうとしているようにも見えた。
「おやめください。パトリス王太子。このような事は、婚姻前にすることではありません」
震えを抑えながら、エリシアは必死に声を絞り出した。
喉が渇き、舌が強張る。
理性が警鐘を鳴らしているのに、身体は恐怖に支配され、思うように動かない。
そのとき、視界の端に何かが映った。
ベッドサイドの小卓に、無造作に置かれた腕輪。
ーー琥珀の石が埋め込まれた腕輪。
ブレイクから「お守りだ」と言われ、渡されたものと寸分違わぬ意匠。
反射的に自分の手首を見る。
そこには、確かに同じ腕輪が嵌められていた。
だとすれば、そこにあるのは⋯⋯。
(これは、パトリスの? どうしてパトリスも、同じものを? ブレイクから受け取ったの?)
疑念が、冷たい水のように背筋を伝う。
パトリスが、甘く、慈しむように囁いた。
「エリシア、ここは君の居場所だ」
耳元に近づく声。逃げ場のない距離。
「私の、居場所?」
「寂しかったんだろう。だから飛び降りたんだ。こうやって体温を伝えれば安心すると、ブレイクも言っていた」
理解できない言葉の羅列。
その直後、パトリスの唇が首筋に触れた。
吸い付く感触に熱を帯びた吐息。
それが何を意味するのか理解してしまった瞬間、思考が弾け飛ぶ。
初めて与えられる侵害。
恐怖と嫌悪が一気に噴き上がり、視界が白く染まった。
(ブレイクが私を、パトリスに? どうして、どうしてなの?)
「いや、やめて。お願いよ、パトリス」
「そうやって呼んでくれるのは、十年ぶりだね」
くすり、と微笑む声が余計に恐ろしい。
「再会したら、当てつけみたいに他人行儀でさ。傷ついたよ。聖女のくせに、君も意地悪だよな」
「聖女の、くせに?」
エリシアは顔を顰めた。
胸の奥で、何かが静かに、だが確実に折れていく。
聖女であれば、すべてを受け入れろというのか。
聖女であれば、人の愚かさを全て受け入れ拒む権利すらないとでもいうのだろうか。
「今日は大事な夜だから、優しくするよ。愛されていると実感すれば、君の心も落ち着くだろう」
パトリスの声には疑いがなかった。
本気で、自分のしようとしている行為が正しいと信じている。それが、何よりも恐ろしい。
「やめて。私は、望んでいない」
「どうして? 君はずっと僕の妃になるはずだった。婚約していただろ」
パトリスは心底、不思議そうな声で尋ねた。
悪意も、自覚もない。
(自分で婚約を破棄したくせに)
「それは、過去よ」
「過去じゃない。君が否定しても、僕と結婚する未来は変わらないよ」
言葉が、届かない。
理屈も、感情も、すべてが拒絶されている。
聖女の力とは、なぜ癒しと回復しかできないのだろう。
今、この男を攻撃できる力があれば。
迷うことなく、その四肢を引き裂いていただろう。
「殺してやりたい! 私に指一本触れてみなさい。穢らわしい、パトリス・ノイダン」
自分の中にこんな感情が眠っていたのかと、エリシア自身が驚くほどの殺意が湧き上がる。
聖女だからと、すべてを我慢し続けることにも限界があった。
「そんなふうに怒るんだね」
楽しげに、パトリスは笑った。
「大丈夫。怒っても君は美しいよ」
顔が近づく。
逃げ場は、もうない。
吐息が再びエリシアの肌にかかった瞬間。
「いやぁぁっ!」
裂けるような悲鳴が、部屋に響き渡った。
直後、重厚な扉が激しく開かれる。
抑え込まれた怒りを全身に纏ったリオネルが、私兵と神官たちを引き連れて立っていた。
蝋燭の光を背に、その影は大きく床に落ちる。
空気が、一変した。
「パトリス・ノイダン。聖女冒涜の現行犯として、国際法に則り拘束する」
リオネルの低く、揺るぎない号令が部屋に落ちた瞬間、空気が凍りついた。
次の瞬間、扉の向こうから重装の兵士たちが雪崩れ込む。
金属鎧がぶつかり合う鈍い音、床を踏み鳴らす軍靴。
先ほどまで甘く歪んでいた空間は、一瞬で現実へと引き戻された。
「なっ、なんだ? 無礼だぞ」
パトリスが言葉を発するより早く、両腕を捻り上げられ床に膝をつかされる。
王太子としての威厳も、絹の衣も乱暴な手によって無慈悲に引き剥がされた。
「放せ! 僕が誰だか分かっているのか?」
叫びは虚しく、兵たちは無言で拘束を完了させる。
鉄の音が、王太子の自由を完全に封じた。
「エリシア様、大丈夫ですか?」
リオネルの声が、嵐の後の静寂のように響く。
「リオネル様。これは、一体⋯⋯」
エリシアの声は震えていた。
喉が詰まり、言葉が途切れそうになる。
その声を聞いた瞬間だった。
リオネルの表情が、音を立てて崩れた。
強張っていた瞳が潤み、張り詰めていた理性の膜が破れる。
アメジスト色の瞳から、宝石のような涙が一粒、静かに頬を伝って落ちた。
エリシアは、その光景に息を呑む。
(リオネル様?)
彼は、常に淡々とした男だった。
感情を表に出さず、冷静で、どこか人を突き放したような印象。
アイリスとの離婚話を聞いた時には、権力のためなら平然と人を切り捨てる男だと、どこか納得していた。
それなのに、今、目の前にいる男は開けたドレスに包まれた彼女が恐怖に震える姿を見て、まるで自分のことのように涙を流している。
その不器用なまでの真剣さが、胸に刺さる。
「リオネル、ありがとう。私は大丈夫よ」
気づけば、慰めるような声が自然と口をついていた。
リオネルは一瞬、驚いたように目を見開き、すぐに視線を伏せた。
「リオネル・モンド。お前、裏切ったのか? こんなことをして、タダで済むと思うなよ。これは反逆だ!」
兵に引きずられながら、パトリスが振り返る。
その瞳には、怒りと困惑、そして歪んだ執着が混じっていた。
その声を聞き、エリシアの背筋がぞくりと震える。
ーーパトリス・ノイダン。
この国の王太子で明日には、玉座に座るはずだった男。
その男が今、罪人のように拘束され、闇の廊下へと連行されていく。
王宮の蝋燭の光が、彼の背中を冷たく照らしていた。
「エリシア様。夜中ではありますが、臨時裁判が開かれます。今日が、九百年続いたノイダン王家の終わりの日です」
リオネルは静かに告げる。
あまりにも静かな宣告だった。
エリシアはそっと、自分の左腕を見る。
琥珀の石が嵌め込まれた腕輪が、蝋燭の光を受けて鈍く輝いている。
(良かったわね。全部、貴方の思い通りでしょう、ブレイク⋯⋯いいえ、セドリック・レイディン)
胸の奥で、名前を訂正する。
「臨時裁判に向かいましょう。私の証言も、必要になるでしょうから」
エリシアはゆっくりと立ち上がり、着崩れたドレスを整える。
指先はまだ震えているが、視線は真っ直ぐだった。
その姿を見て、リオネルは言葉を失ったように唇を噛む。
守られるべき聖女でありながら、誰よりも毅然と立つ姿。
「強いですね、エリシア様は⋯⋯。貴女を守れる男になりたかった。けれど私なんて必要なさそうだ」
リオネルは掠れた声で呟く。
夜明け前の王宮で、歴史が終わり新しい罪と真実が暴かれようとしていた。
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