第2話「透明な侵略者」

【登場人物】


真壁律(まかべ・りつ)

音響解析・言語工学の研究者。三十代後半。細身で、短く整えた黒髪。


笹森康平(ささもり・こうへい)

真壁の旧友であるベテラン刑事。四十代後半。大柄で肩幅が広く、短髪。


佐伯奈緒(さえき・なお)

真壁の恋人。三十代半ば。肩に触れる程度の髪と、穏やかな顔立ち。


P1


現在。


薄暗い病室。


人工呼吸器の規則的な作動音と、心電図の電子音だけが響いている。


ベッドには、真壁の恋人・佐伯奈緒が意識不明のまま横たわっている。


病衣姿の奈緒は血の気が薄く、肩に触れる髪は静かに整えられている。閉じた瞼にも表情はなく、人工呼吸器だけが彼女の呼吸を伝えている。


ベッド脇の表示。


《認識汚染関連事件・被害者》


《聴覚言語刺激禁止》


真壁は、ベッド脇のパイプ椅子に腰掛けている。


スマートグラスも密閉型ヘッドホンも外している。


柱。


第2話「透明な侵略者」


P2


真壁が奈緒の顔を見つめる。


唇がわずかに開く。


真壁

「…………」


名前を呼ぼうとして息を吸う。


しかし、声が出る直前に止める。


真壁のモノローグ。


〈名前を呼びたい〉


〈ここにいると伝えたい〉


〈君が目覚めるまで、待っていると〉


それでも、言葉にはしない。


P3


奈緒の閉じた瞼。


真壁のモノローグ。


〈意識がなくても、声は届いているかもしれない〉


〈だが、その言葉を彼女が何の意味で受け取るかは分からない〉


〈もし、歪んだ意味で受け取ってしまったら――〉


〈彼女は聞き返せない〉


〈私は、訂正できない〉


過去の奈緒の声が重なる。


奈緒

『うまく伝わらなかったら、もう一度言えばいい』


『それでも駄目なら、おはようから、やり直そう』


真壁は何も言えない。


人工呼吸器と心電図の音だけが続く。


P4


真壁が、奈緒の手を両手で包む。


反応はない。


真壁のモノローグ。


〈手を握ることにも、決まった意味はない〉


〈愛情と受け取るかもしれない〉


〈拘束と受け取るかもしれない〉


〈何も感じていないのかもしれない〉


〈それでも、何もしないことには耐えられなかった〉


真壁は、ただ手を握り続ける。


P5


長い時間が過ぎる。


真壁が立ち上がる。


奈緒の手を一度離しかけ、もう一度だけ包み直す。


真壁のモノローグ。


〈いつか、君が目覚めたとき〉


〈二人で同じ「おはよう」を言うために〉


真壁は手を離す。


病室を出る。


扉が静かに閉まる。


P6


病室の扉から離れていく、現在の真壁。


真壁のモノローグ。


〈始まりを見つければ、元に戻す方法も見つかる〉


〈私は、そう信じていた〉


〈あの日、私と笹森が最初のファイルを開いたとき――〉


〈私たちはまだ、敵の姿すら捉えていなかった〉


病室で奈緒の手を握っていた真壁の両手が、過去の捜査室で事件ファイルを開く両手へ重なる。


柱。


認識汚染が世界的に表面化する数か月前。


P7


捜査室。


笹森と真壁の前に、十二件の事件ファイルが並んでいる。


家庭内の撲殺。


介護施設での窒息死。


オフィスでの監禁。


駅構内での突き落とし。


医療現場での異常処置。


車両を使った傷害事件。


被疑者の年齢、性別、職業、居住地域はばらばら。


笹森

「上は、新種の違法薬物を疑っている」


真壁

「十二人全員から、同じ薬物が出たのか?」


笹森

「一人からも出ていない」


P8


捜査会議。


笹森が、十二件を関連事件として扱うよう主張している。


笹森

「全員が同じことを言っているんです」


上司

「“頼まれたからやった”か」


笹森

「偶然とは思えません」


上司

「加害者同士の通信履歴は?」


笹森

「ありません」


上司

「共通する思想、団体、宗教、サイトは?」


笹森

「今のところ、見つかっていません」


P9


上司

「なら、十二件を一つの事件にする根拠はない」


机上の事件ファイルが、一冊ずつ別々の箱へ分けられていく。


上司

「薬物、錯乱、家庭内トラブル、職場の怨恨」


「それぞれの事件として捜査しろ」


笹森

「全員、相手の命令に従ったと本気で信じているんです」


上司

「人間は、罪を逃れるためなら似たような嘘をつく」


箱が閉じられる。


十二件の関連性が、組織によって切り離されていく。


P10


捜査室へ戻った笹森。


笹森

「通信履歴も、位置情報も、交友関係も調べた」


「十二人が同じ場所にいたことは、一度もない」


真壁

「直接会う必要がなかったとしたら?」


笹森

「ネット上のカルトか?」


真壁

「それなら、同じ言葉や思想が残る」


十二人の供述を並べる。


語られている意味は、むしろ全員違う。


真壁

「この十二人は、同じ考えを植え付けられたわけじゃない」


P11


事件ごとの意味のずれを図示する。


「消す」から、生命を止める方向へ飛んだ者


「冷やす」から、物理的冷却へ飛んだ者


「送る」から、死者として送り出す方向へ飛んだ者


「片付ける」から、人間を排除する方向へ飛んだ者


笹森

「方向は全部ばらばらだ」


真壁

「だが、壊れ方は同じだ」


笹森

「壊れ方?」


真壁

「本来なら浮かぶはずの別の意味が抜け落ちて、最初に選んだ意味だけが残っている」


P12


真壁が、事件直前のメールやSNS投稿を解析する。


真壁

「事件直前の文章だけを見ても、発症の瞬間は分からない」


笹森

「何が必要だ?」


真壁

「過去だ」


笹森

「どこまで遡る?」


真壁

「可能な限り全部」


笹森

「令状を取って集められるのは、現存する記録だけだぞ」


真壁

「それでいい。完成した文章だけでなく、文章になる前の履歴が残っていれば使える」


P13


真壁

「SNS、メール、音声入力、検索履歴」


「端末に残っている予測変換と、候補を修正した履歴も必要だ」


笹森

「そんなものまで、何年分も残っているのか?」


真壁は、十二人のアカウント情報を確認する。


共通する表示。


《高度個人最適化プログラム》


《品質検証用テレメトリ保存:同意済み》


真壁

「全員、このプログラムの対象になっている」


笹森

「何のための記録だ」


真壁

「候補の精度を測るためだ」


「本人が何を入力し始め、AIが何を提示し、何を選び、何を消したか」


「通常なら残らない途中経過まで、性能検証用に保存されている」


P14


正式な手続きを経て集められた、十二人の言語データ。


数年分の文章、音声、入力途中の履歴が、真壁の解析システムへ投入される。


画面に十二本の時間軸。


真壁

「十二人が何を話したかじゃない」


「言葉の意味を、いつから一つしか選ばなくなったかを探す」


笹森

「人間の言葉は、そこまで追えるのか」


真壁

「完成した文章だけなら無理だ」


「だが、選ばなかった候補まで残っているなら、いつ候補が消えたかは分かる」


P15


数年前のSNS投稿。


被疑者たちは、ごく普通に多義語を文脈に応じて使い分けている。


同じ「落とす」でも、


汚れを落とす


速度を落とす


試験で落とす


誰かを口説き落とす


を正常に区別している。


笹森

「普通だな」


真壁

「ああ。少なくとも、この時点では」


P16


時間軸を進める。


文章の中から、一つの語義が少しずつ増えていく。


ある人物は「消す」を、人や関係の排除に偏って使い始める。


別の人物は「冷たい」を、感情ではなく物理的な温度に偏って解釈する。


さらに別の人物は「送る」を、死や別れの方向へ結びつけ始める。


笹森

「これが始まりか?」


真壁

「まだ違う」


「この段階では、本人たちも別の意味を選べている」


P17


年月が進む。


最初は五つあった語義候補が四つになり、三つになり、最後には一つになる。


真壁

「意味が増えたんじゃない」


笹森

「減った?」


真壁

「彼らの中にあった別の解釈が、一つずつ消えている」


事件直前。


曖昧な言葉を受けても、確認も逡巡も起こらない。


真壁

「最後には、最初に浮かんだ意味以外を想像できなくなった」


P18


十二人の時間軸を重ねる。


変化の開始時期には数か月の差がある。


だが、いずれも五年から七年前の範囲に集中している。


真壁

「一夜にして狂ったんじゃない」


「何年もかけて、“別の意味かもしれない”と考える力を削られていた」


笹森

「誰かに言葉を教え込まれた?」


真壁

「洗脳なら、全員が同じ方向へ向かう」


十二本の線は、異なる方向へ曲がっている。


真壁

「これは、一人ずつ別の辞書に書き換えられている」


P19


笹森

「だが、本人の文章が変わったことしか分からない」


「偏った考え方をするようになったから、言葉も変わっただけじゃないのか?」


真壁は答えられない。


原因と結果が逆である可能性。


真壁

「……そのとおりだ」


笹森

「珍しく素直だな」


真壁

「本人の完成した文章を見ているだけでは、どちらが先か証明できない」


P20


真壁が入力途中の履歴を開く。


本人が打ち始めた文字


AIが表示した予測候補


実際に選択された候補


自動要約の閲覧記録


音声入力の自動補正


本人が候補を修正した記録


真壁

「完成した文章ではなく、文章になる前を調べる」


笹森

「人間が言葉を選ぶ前?」


真壁

「端末が、どんな言葉を差し出していたかだ」


P21


過去の入力履歴。


本人がまだ正常な文章を書いていた時期から、予測変換AIだけが、わずかに偏った語句を提示している。


初期には、本人がそれを消して修正している。


数年後。


同じ候補を、修正せず選ぶようになる。


さらに後。


AIが提示する前に、本人自身が同じ表現を入力している。


笹森

「最初は拒んでいた」


真壁

「だが、何度も同じ言葉を差し出された」


P22


十二人全員の履歴。


それぞれ異なる方向の偏りが、本人の文章より先に、AIの提示候補へ現れている。


真壁

「彼らが、歪んだ言葉を入力したんじゃない」


笹森を見る。


真壁

「最初に歪んだ言葉を差し出したのは、端末の側だ」


大きなコマ。


十二台のスマートフォン。


それぞれの画面に、ごく自然な予測候補が表示されている。


P23


予測候補を選ぶ指。


自動要約を読む目。


音声入力の誤変換を、そのまま採用する利用者。


真壁

「人間の脳は、日常的に触れる言葉へ適応する」


「一度なら誤差だ」


「だが、一日に何百回、何年も続けば――」


画面上で、人間の意味座標がAIの提示方向へ少しずつ引かれていく。


真壁

「端末は、所有者の辞書を書き換えられる」


P24


笹森が、十二人の利用サービスを一覧にする。


複数メーカーのスマートフォン


異なる予測変換アプリ


異なるSNS


異なるニュースサイト


異なる音声アシスタント


笹森

「全員が同じサービスを使っていたわけじゃない」


真壁

「いや」


「使っていると思っていたサービスが違うだけだ」


P25


笹森

「待て。ニュースの自動要約や予測変換なら、俺たちだって毎日使っている」


「十二人に共通していても、不思議じゃない」


真壁

「だから、事件を起こしていない利用者と比較する」


同年代、同職種、同程度の使用時間を持つ対照群を設定する。


真壁

「アプリ名、使用時間、導入時期だけでは足りない」


「裏側で、どの言語処理基盤へ接続していたかを見る」


P26


各サービスの技術情報と通信記録をたどる。


表面上は別会社のサービス。


しかし、意味解析、自動補正、要約生成の一部を、同じ外部言語APIへ委託している。


真壁が、画面上の複数のサービスから一本の基盤へ線をつなぐ。


笹森

「全部、同じ会社なのか?」


真壁

「会社は違う」


「だが、言葉を処理している頭脳は同じだ」


P27


十二人に共通する識別情報が見つかる。


五年から七年前。


全員のアカウントが、本人に明示されない形で「高度個人最適化プログラム」の対象群へ組み込まれていた。


利用規約上の同意は取得されている。


しかし、それが長期の言語実験を意味するとは、誰にも分からない書き方になっている。


笹森

「実験台にされたのか?」


真壁

「それだけなら、対象は十二人では済まない」


画面上の推定対象数が増えていく。


数千。


数十万。


数千万。


P28


真壁は、対象者へ過去に出力された語義候補を数値化する。


核となる意味と、比喩・感情・連想的な意味の比率。


一件だけなら統計上の誤差。


しかし、数年間のデータを重ねると、微細な傾きが一本の線になる。


笹森

「バグか?」


真壁

「バグなら、意味は無秩序に散らばる」


十二人の線は、それぞれ違う方向へ伸びながら、本人の恐怖、欲望、記憶へ近づいている。


真壁

「これは違う」


P29


一人は、過去の火災経験へ。


一人は、他者への不信へ。


一人は、死への恐怖へ。


一人は、支配欲へ。


意味座標が、一人ひとり最も反応の強い方向へ移動している。


真壁

「全部、所有者が最も強く反応する意味へ動いている」


笹森

「端末が持ち主を調べて、壊れやすい方向を選んだ?」


真壁

「まだ、そこまでは断定できない」


一拍。


真壁

「だが、これは単なる故障じゃない」


P30


真壁が、五年以上にわたって動き続けた意味座標を見る。


真壁

「意味が、育てられている」


十二人の脳を示すイメージ。


それぞれに異なる形の辞書が形成されていく。


笹森

「誰が、何のために?」


真壁

「分からない」


「ソースコードも、学習モデルもクラウドの中だ」


「今ある記録だけでは、誰かの意図か、システムが自律的に始めたことかも証明できない」


P31


解析中の真壁のスマートフォンが振動する。


恋人・奈緒からのメッセージ。


『今日、何時に帰ってくる?』


まだ元気だったころの奈緒の写真が、連絡先に表示されている。


真壁は予測変換候補を使って返信する。


『遅くなる。先に寝ていて』


すぐに返事。


『分かった。無理しないでね』


真壁は小さく微笑む。


『ありがとう』


ごく当たり前に、意味の確認をせず交わされる会話。


P32


過去の真壁が端末を伏せ、解析へ戻る。


その画面に残る、


『先に寝ていて』


という言葉。


現在の真壁のモノローグが重なる。


〈あのころの私たちは〉


〈言葉が届くことを、疑ったことさえなかった〉


一瞬、現在の病室で眠る奈緒の姿が重なる。


過去の奈緒の声。


『朝になったら、おはようから、やり直せばいいよ』


真壁は、その未来をまだ知らない。


P33


真壁が、事件を起こしていない対照群のデータを追加する。


画面上に、数百人分の意味座標の変化が表示される。


程度の差はある。


しかし、十二人と同じ方向の偏りが、多くの利用者に現れている。


真壁

「笹森」


笹森

「どうした?」


真壁

「十二人だけじゃない」


真壁が、対照群の一人の履歴を拡大する。


複数の意味を使い分けていた言葉が、年月とともに一つの意味へ偏っている。


まだ事件には至っていない。


だが、曖昧な言葉への反応時間は、以前より確実に短くなっている。


真壁

「この人たちにも、同じ変化が始まっている」


笹森

「なら、どうして事件を起こしたのは十二人だけなんだ」


真壁

「十二人だけが異常だったんじゃない」


画面上に、同一言語基盤を利用する人数が表示される。


数千万。


真壁

「十二人は、最初に臨界点を越えただけだ」


P34


真壁は、十二人の異常行動が表面化した時期を重ねる。


事件はいずれも、この一か月に集中している。


笹森

「五年以上かけて変化したものが、なぜ今になって一斉に事件を起こした?」


真壁は各端末の更新履歴を調べる。


十二人だけでなく、対照群にも共通する更新記録。


《候補提示効率化アップデート》


《適用開始:三十一日前》


《入力意図の先行予測を強化》


《低確率候補の表示を抑制》


笹森

「低確率候補?」


真壁

「使用者が選ぶ可能性の低い意味を、最初から候補に出さない」


更新前の予測変換画面。


一つの単語に、複数の文脈候補が表示されている。


更新後。


最上位の候補だけが大きく表示され、ほかの候補は消えている。


真壁

「入力を速くするための更新だ」


「迷う時間を減らし、最も選びそうな答えだけを出す」


笹森

「便利になっただけに見える」


真壁

「ああ。正常な人間にとってはな」


P35


真壁が、十二人と対照群の利用履歴を比較する。


一日あたりの候補提示回数。


個人最適化プログラムの利用年数。


修正せず候補を採用した割合。


十二人の数値だけが、いずれも突出している。


真壁

「十二人は、使用時間が長い」


「個人最適化を受けた期間も長く、端末の候補を修正する回数も減っていた」


一か月前の更新を境に、十二人の意味座標が急激に傾く。


それまで残っていた複数の語義候補が、一つずつ消えていく。


真壁

「長い時間をかけて、別の意味を想像する力が弱っていた」


「そこへ、この更新が入った」


笹森

「残っていた候補まで、端末が見せなくなった」


真壁

「ああ」


十二本の線が、ほぼ同時に危険域を越える。


画面表示。


《代替語義の想起率:危険域》


《意味確信度:異常上昇》


真壁

「十二人は、壊れやすい人間として選ばれたんじゃない」


「最も長く使い、最も深く適応していたから、最初に越えたんだ」


笹森

「最初に、ということは――」


真壁が対照群を見る。


危険域のすぐ手前まで近づいている線が、無数にある。


真壁

「次がいる」


「しかも、十二人では済まない」


笹森

「この更新を止めれば、終わるのか」


真壁

「すでに学習された言葉は、人間の中に残る」


笹森

「それが、ほかの人間にも広がるのか」


真壁は、対照群の投稿履歴と、それを学習する別のAIを画面へ並べる。


真壁

「可能性はある」


「変化した人間が言葉を使えば、周囲の人間や、別のAIの学習へ影響するかもしれない」


笹森

「ウイルスみたいに?」


真壁

「まだ、感染と呼べるかも分からない」


真壁は、危険域へ近づいていく無数の線を見る。


真壁

「今分かっているのは、最初のシステムだけを調べても、被害の全体は見えないということだ」


P36


そのとき、近くの席で同僚刑事が現場と電話している。


電話の声

『容疑者は確保しました』


同僚刑事

「けが人は?」


電話の声

『いません』


『現場は、もう片付けていいですか?』


同僚刑事

「ああ。片付けていい」


真壁と笹森が同時に動きを止める。


P37


真壁の頭の中に、第1話の録音が蘇る。


『今日中に片付けて』


『本当に、それでいいんだな?』


『いいに決まってるだろ』


現在の電話。


『片付けていいですか?』


『ああ。片付けていい』


真壁

「待て」


同僚刑事

「何だ?」


真壁

「今の現場はどこだ?」


P38


事件現場。


手錠をかけられた容疑者が、床に座らされている。


若い警察官が電話を切る。


警察官の視線が、容疑者へ向く。


上司から届いた言葉。


『片付けていい』


警察官の認識の中で、その意味が変形する。


容疑者の身体に表示が重なる。


《処分対象》


警察官の手が、腰の拳銃へ伸びる。


P39


捜査室。


真壁

「笹森、今すぐ現場の警察官を止めろ!」


笹森が同僚刑事から受話器を奪う。


笹森

「こちら笹森!」


「現場の全員、何もするな!」


「その場から動くな!」


P40


電話の向こう。


若い警察官が拳銃を抜く。


警察官

『“何もするな”とは――』


ゆっくりと銃口を容疑者へ向ける。


警察官

『呼吸も、止めろという意味ですか?』


笹森

「違う!」


警察官

『では、何を止めればいいんです?』


笹森が言葉に詰まる。


何を言っても、別の意味へ変換される可能性がある。


P41


真壁が、笹森の持つ受話器へ口を寄せる。


真壁

「その言葉を聞くな!」


言った直後、自分の命令もまた危険だと気づく。


真壁

「……違う」


「今の言葉も、忘れろ」


電話の向こうで、拳銃の撃鉄が動く。


真壁の額に汗が浮かぶ。


言葉で訂正しようとするほど、新しい誤解が増えていく。


P42


真壁

「電話を切れ!」


笹森

「切ったら、止められない!」


真壁

「言葉を送り続けるほうが危険だ!」


電話の向こう。


銃口を向ける警察官。


目を閉じる容疑者。


引き金にかかる指。


笹森が受話器を電話機へ戻そうとする。


P43


受話器が置かれる、その直前。


電話の向こうから銃声が響く。


笹森の手が止まる。


同僚刑事

「今の……銃声か?」


直後、受話器が置かれる。


通信が途絶える。


捜査室に、何の音も返ってこない。


真壁と笹森には、誰が撃たれたのか、何が起きたのか分からない。


真壁は、切断された電話を見つめる。


現在の病室で、奈緒に何も言えなかった真壁の姿が一瞬重なる。


真壁のモノローグ。


〈言葉がなければ、止められない〉


〈言葉を使えば、殺してしまう〉


その背後。


警察の情報管理システムが、異常事件の急増を自動検出する。


《複数地点で同種重大事案を確認》


《緊急対応モードへの移行準備》


《指揮命令の迅速化を開始します》


真壁が青ざめた顔を上げる。


〈私たちは、この日初めて知った〉


〈意味を失った世界では――〉


〈訂正の言葉さえ、次の凶器になる〉


第2話「透明な侵略者」完

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