バベルの残響 ~確認するほど、誤解は確信に変わる~
御堂 伽(みどう とぎ)
第1話「意味の棺」
【登場人物】
真壁律(まかべ・りつ)
音響解析・言語工学の研究者。三十代後半。細身で、短く整えた黒髪。
笹森康平(ささもり・こうへい)
真壁の旧友であるベテラン刑事。四十代後半。大柄で肩幅が広く、短髪。
久世彰(くぜ・あきら)
真壁のかつての共同研究者。三十代後半。細身で、真壁より少し長い無造作な髪。
P1
全面、黒。
中央に白い文字。
人々は一つの言葉を話していた。
そこで、その言葉は乱された。
互いの言葉を、理解できなくするために。
――旧約聖書『創世記』第11章をもとに
下部にタイトル。
『バベルの残響』
第1話「意味の棺」
P2~P3・見開き
介護施設の小さな居室。
テレビから、明るい昼の情報番組が流れている。
テレビのリモコンは床に落ち、ベッドから手を伸ばしても届かない。
ベッドに横たわった老女が、開いた扉の前を通りかかった女性介護士へ声をかける。
老女
「悪いけど、テレビを消してくれる?」
女性介護士が足を止め、穏やかに微笑む。
女性介護士
「はい。分かりました」
女性介護士はテレビではなく、老女へ歩み寄る。
その両手が、老女の首へ伸びる。
場面転換。
オフィス。
怒った上司が、若い男性社員を叱責している。
上司
「今日はもういい」
「少し頭を冷やしてこい!」
男性社員
「……承知しました」
場面転換。
業務用冷凍庫へ押し込まれる上司。
男性社員が扉を閉め、外側からチェーンを巻く。
上司
「おい!」
「何をしてる!」
「開けろ!」
男性社員は、扉の向こうから聞こえる声に困惑する。
男性社員
「どうして怒るんですか?」
チェーンへ南京錠をかける。
男性社員
「あなたに言われたとおりにしているだけです」
P4
事件現場の写真。
監視カメラ映像。
ニュース画面。
逮捕された女性介護士と男性社員。
二人とも、怒りや狂気ではない。
自分がなぜ責められているのか、本当に理解できない顔をしている。
真壁のナレーション。
〈人が人を傷つける理由から、論理が消えた〉
〈当初、世界はそう報じた〉
一拍。
〈だが、消えたのは論理ではない〉
〈人間が共有していた、言葉の意味だった〉
P5
スマートグラスの試験運用開始から、数か月後。
現在の東京。
主人公・真壁律が雑踏を歩いている。
暗い色のジャケットに、スマートグラスと、生声遮断機能を備えた密閉型ヘッドホンを着用している。
服装は整えているが、以前より痩せた頬と、目の下の濃い隈は隠せていない。短く整えていた前髪も、わずかに伸びている。
街を行き交う人々も、全員が同じような装備をしている。
口を動かす者はいるが、生の話し声は聞こえない。
かつて騒音に満ちていた東京は、不自然なほど静か。
P6
真壁のスマートグラス越しの視界。
駅員が何かを話している。
駅員のヘッドホンに組み込まれたマイクが、発話を拾う。
駅員の端末から、その発話内容と現在の意味座標だけが送信される。
真壁のグラスに解析結果。
《発話を受信》
《発話者端末から現在意味座標を受信》
《使用者の解釈座標と照合》
《意味座標誤差:0.0007》
《安全》
駅員の生声は届かない。
発話内容が緑色の字幕と、抑揚を抑えた合成音声で再現される。
合成音声
『三番線に電車が到着します』
『黄色い線の内側へお下がりください』
真壁は周囲を確認し、黄色い線から離れる。
P7
コンビニの店員。
通行人。
道を尋ねる高齢者。
発話するたび、対応端末同士が、その瞬間の意味座標を照合する。
安全域なら、発話内容が字幕と合成音声として相手へ届く。
一致を確認できなければ、遮断される。
真壁のナレーション。
〈人間はもう、他人の言葉を直接聞かない〉
〈機械は、正しい意味を教えてはくれない〉
〈言い換えもしない〉
〈ただ、話す側が指した意味と、聞く側が受け取ろうとした意味が、どれほど離れているかを測る〉
真壁の視界に、緑色の字幕が無数に浮かぶ。
〈一致を確認できた言葉だけが、相手へ届く〉
〈人類は、機械の許可を得なければ会話できなくなった〉
P8
カフェ。
真壁が、かつて同じ研究機関に所属していた久世彰と向かい合っている。
久世は機能性を優先した暗いジャケット姿。頬は痩せ、目の下には濃い隈がある。
真壁を見ながらも、ときおり店内や出入口へ警戒するような視線を向けている。
二人ともスマートグラスとヘッドホンを着用している。
テーブルには二つのコーヒー。
久世
「例の解析結果を……君に渡したい」
真壁の視界。
《意味照合:正常》
真壁
「どこに保存した?」
久世
「それは――」
P9〜P10・見開き
真壁の視界に、赤い警告が走る。
《RED》
《重大な意味座標の乖離を検出》
《発話者の指示対象を特定できません》
《対話を強制遮断します》
真壁
「待て、久世――」
バツン。
久世の声が消える。
同時に、久世の顔と口元、手元の携帯端末が、赤黒い遮蔽領域に覆われる。
周囲の客。
テーブル。
床。
店の出口。
それらは見えている。
しかし、久世が何を話しているのか、どのような表情をしているのか、手に何を持っているのかは分からない。
赤黒い人型の空白だけが、真壁の向かいに座っている。
警告文が、その中央に浮かぶ。
《生の発話を直接受信しないでください》
《認識汚染のおそれがあります》
《危険な発話および発信源を遮断しています》
P11
真壁はスマートグラスとヘッドホンを外さない。
外せば、久世の生声と口の動きが直接届く。
赤黒い遮蔽領域の向こうで、久世が動く。
椅子の脚が床を擦る振動。
食器が触れ合う、小さな音。
続いて、紙がテーブルを滑る音。
それらは聞こえる。
だが、言葉として識別される音だけが消されている。
遮蔽領域が立ち上がり、テーブルの横へ移動する。
久世が近づいているのか。
何かを置いたのか。
それとも、逃げようとしているのか。
真壁には分からない。
真壁
「久世……?」
《対象者との通信は遮断されています》
《発話は送信されません》
赤黒い遮蔽領域が、出口へ動いていく。
P12
赤黒い遮蔽領域が、店の外へ出る。
自動ドアが閉まる。
《危険な発信源との距離を確保》
《視覚遮蔽を解除します》
久世の姿が消えた店内だけが、元の色へ戻る。
向かいの椅子は空になっている。
久世のコーヒーには、一度も口をつけた形跡がない。
その横に、何の文字も書かれていない封筒が置かれている。
周囲の客は真壁から距離を取り、怯えた目で見ている。
《対象者の意味モデルを隔離しました》
《以後の直接対話は推奨されません》
《対象者が残した未確認情報への接触は推奨されません》
真壁のナレーション。
〈遮断された相手とは、もう言葉を交わせない〉
〈何を伝えようとしていたのか〉
〈この封筒に、何を残したのか〉
〈確かめるには、久世が残した情報に触れなければならない〉
真壁の視線が、封筒と、閉じた自動ドアの間を行き来する。
P13
真壁は封筒へ手を伸ばしかける。
だが、指先が触れる前に止める。
代わりに、冷めかけたコーヒーへ手を伸ばす。
指先がカップに触れる。
カップとソーサーが、かすかな音を立てる。
真壁はそこで初めて、自分の指先が震えていることに気づく。
真壁
「今の異常は、久世の側だったのか?」
AI
《判定できません》
真壁
「私の聞いた意味は、まだ正しいのか?」
短い沈黙。
端末
《“正しい”の基準を特定できません》
真壁の表情が硬くなる。
封筒を開けず、電波遮断用の袋へ入れる。
バッグから、使い込まれた紙の手帳を取り出す。
今日の日付の下に、手書きの予定。
『午後二時――意味校正』
真壁が時刻を見る。
まだ正午前。
真壁
「……今日の校正を繰り上げる」
P14
東京郊外。
真壁が、古い校舎を利用した施設へ向かって歩いている。
入口の表示。
『生声区域』
『電子通信機器の持ち込み禁止』
真壁のナレーション。
〈機械の判定が信じられないとき、私は人間に自分の意味を測ってもらう〉
受付でスマートグラスとヘッドホンを外し、電波遮断用の袋へ入れる。
装置を外した瞬間。
風の音。
鳥の声。
床の軋み。
人の息遣い。
遮られていた生の音が、一気に戻ってくる。
受付の女性
「予定より早いですね」
真壁
「少し、分からなくなった」
受付の女性
「何が?」
短い間。
真壁
「それが分からない」
P15
施設内。
壁には、実物と単語を対応させた札が並ぶ。
コップの横に『水』。
ろうそくの横に『火』。
薬箱の横に『痛い』『治す』『毒ではない』。
住民たちは、紙の辞書、写真、身振り、実物を使って会話している。
女性
「“水をください”」
相手の男性が、コップに入った水を指す。
男性
「これのことですか?」
女性
「はい。それです」
男性は水を渡す。
女性は一口飲み、互いに頷く。
P16
別の場所。
少年が自分の腕の傷を示す。
少年
「痛い」
大人が自分の腕をつねり、痛みを示す表情をする。
大人
「これに近い?」
少年
「もっと強い」
大人が三枚の表情カードを並べる。
少年は、一番苦しそうな顔を選ぶ。
真壁のナレーション。
〈ここでは、言葉だけで言葉を説明しない〉
〈実物、行動、表情、共有した記憶〉
〈一つの意味を、異なる角度から何度も確かめる〉
〈会話は、情報を送りつけることではない〉
〈二人が同じ場所へたどり着くための、共同作業だ〉
P17
静かな一室。
若い男女が向かい合って座っている。
二人の間には、辞書、写真、日記、日付の書かれたカード。
窓の外は昼。
男
「あなたに、伝えたいことがある」
女はすぐには返事をしない。
女
「“伝える”とは、私に何かを要求すること?」
男
「違う」
「あなたの行動を変えたいわけではない」
女
「では、あなたの内側にあるものを、私にも知ってほしいということ?」
男
「そうだ」
離れたところで、真壁が二人を見ている。
P18
男が一枚の写真を示す。
女が病院のベッドに横たわり、男が傍らの椅子で眠っている写真。
男
「あなたが高い熱を出した夜、私はここにいた」
女
「眠らずに、朝まで?」
男
「そうだ」
女
「私に頼まれたから?」
男
「違う」
女
「そうしなければ、誰かに責められると思ったから?」
男
「違う」
男は少し考える。
男
「あなたが一人で苦しむことを、私は望まなかった」
P19
窓の外。
日が傾き始めている。
男が別の写真を示す。
焼けた家の前に立つ二人。
男
「あなたが家を失った日も、私は残った」
女
「そのときと同じ方向の感情が、今も続いている?」
男
「そうだ」
女
「私が何も返さなくても?」
男
「それでも」
女
「私が、あなたのそばからいなくなっても?」
男は苦しそうに目を伏せる。
それでも頷く。
男
「それでも、あなたに生きていてほしい」
P20
夜。
ろうそくが短くなっている。
男が震える指で、紙に四文字を書く。
『愛している』
女は、その文字にはすぐ触れない。
病室の写真。
焼けた家の写真。
一日をかけて確認してきた言葉のカード。
それらを、もう一度見返す。
女
「病気の夜、あなたが残ったこと」
「家を失った日も、残ったこと」
「私が何も返さなくても、生きていてほしいと思うこと」
女が紙に触れる。
女
「それを、あなたは“愛している”と呼ぶのね」
男
「そうだ」
P21
女の目から涙がこぼれる。
女も手を差し出す。
二人の指先が触れる。
相手が拒まないことを確かめてから、静かに抱き合う。
それを見ている真壁。
真壁のナレーション。
〈意味は、辞書の中に保存されているのではない〉
〈人と人の間に積み重なった時間から、何度でも作り直すものだった〉
真壁は、痛みをこらえるように目を伏せる。
〈それを私が知ったのは――〉
〈世界が言葉を失ったあとだった〉
P22
現在の真壁の耳に、過去の音声が重なる。
録音された声
『あれ、いつまでそこに置いておくの?』
場面転換。
研究室の机に置かれた暗号化記録媒体。
柱。
認識汚染が世界的に表面化する数か月前。
真壁のナレーション。
〈始まりは、一本の録音だった〉
P23
数か月前。
音響言語解析研究室。
音声データを分析する真壁。
現在と同じ顔だが、頬にはまだ張りがあり、目の下に濃い隈もない。髭のない顔、短く整えた髪、皺のないシャツとジャケットから、現在より若々しく端正な印象を受ける。
画面には、音声波形、スペクトル、文字起こし、発話間隔、語義候補。
ドアがノックされる。
真壁
「開いています」
ベテラン刑事・笹森康平が入ってくる。
着慣れたスーツの上着を片手に持ち、ネクタイはわずかに緩んでいる。疲れは見えるが、足取りと視線には現場の緊張が残っている。
真壁
「珍しいな」
「警察が言葉の研究者に何の用だ?」
笹森
「音声鑑定を頼みたい」
P24
笹森が、正式な捜査協力依頼書と記録媒体を机へ置く。
真壁
「鑑識では処理できなかったのか?」
笹森
「音そのものには異常がないそうだ」
真壁
「なら、私に何を調べろと?」
笹森
「この二人が――」
記録媒体を見る。
笹森
「本当に、同じ会話をしていたのか」
P25
事件現場の写真。
玄関に、古い靴と壊れた収納箱が放置されている。
居間には血痕。
笹森
「被害者は野崎修。三十四歳」
「被疑者は、同居していた柴田徹。三十五歳」
「口論の末、柴田が野崎を工具で殴った」
真壁
「被疑者は?」
笹森
「犯行を認めている」
真壁
「動機は?」
笹森
「“片付けろと言われ、殺せと命令された”」
真壁
「……何だ、それは」
P26
笹森
「本人は錯乱していない。受け答えも一貫している」
「野崎に命令され、その命令どおりにしたと本気で信じている」
真壁
「薬物は?」
笹森
「陰性。既往歴もない」
笹森がスマートフォンの写真を示す。
笹森
「現場にあった端末が、会話を自動保存していた」
真壁
「録音を聞けば、供述の嘘は分かるだろう」
笹森
「俺も、そう思った」
P27
真壁が録音を再生する。
野崎の声
『あれ、いつまでそこに置いておくの?』
柴田の声
『今は動かせない』
野崎
『邪魔なんだけど』
柴田
『分かってる。だから隠してある』
野崎
『全然、隠れてないだろ』
柴田
『じゃあ、どうしろっていうんだ』
野崎
『今日中に片付けてよ』
真壁が再生を止める。
真壁
「散らかった物をめぐる口論だ」
笹森
「ああ」
真壁
「これのどこが、“殺せという命令”になる?」
P28
笹森が二枚の供述調書を見せる。
笹森
「“あれ”が何を指しているか、それぞれに聞いた」
被害者・野崎側の記録。
『玄関に放置されていた、柴田の古い靴と壊れた収納箱』
被疑者・柴田の供述。
『自分たちの秘密を探っていた人間』
真壁
「人間?」
笹森
「柴田は、野崎と自分が“ある人間を消す相談”をしていたと思っている」
真壁
「その人間は実在するのか?」
笹森
「いない」
「防犯カメラ、通信履歴、周辺の聞き込み――該当する人物はどこにもいなかった」
真壁の目つきが変わる。
P29
真壁が録音と、柴田の端末に残された会話支援ログを解析システムへ取り込む。
画面には、
音声波形
発話間隔
視線の推定方向
語義候補
指示対象候補
が並ぶ。
笹森
「端末の記録も見るのか?」
真壁
「この端末は、曖昧な言葉を聞くたびに、会話の状況を補っていた」
笹森
「状況を?」
真壁
「“あれ”が何か分からなければ、使用者の履歴から候補を出す」
真壁が画面を指す。
《指示対象推定》
《会話相手の視線・直前の検索・行動履歴を参照》
真壁
「人間が理解する前に、端末が“何の話か”を先回りしていたんだ」
P30
録音の冒頭。
野崎
『あれ、いつまでそこに置いておくの?』
柴田
『今は動かせない』
野崎
『邪魔なんだけど』
同時刻の端末ログ。
野崎側では、指示対象候補の最上位に、
《玄関の収納箱》
柴田側では、
《周辺を監視している人物》
《秘密を知る第三者》
真壁が柴田側の候補を拡大する。
笹森
「端末が、人間だと教えたのか?」
真壁
「断定はしていない」
「だが、柴田が以前から抱いていた不安を拾って、最も反応の強い候補を先頭に置いた」
柴田の過去の検索履歴。
『誰かに見られている気がする』
『スマートフォン 監視 確認方法』
『秘密を知られた場合』
真壁
「存在しない人間を作ったのは、端末だけじゃない」
「柴田の恐怖と、端末の補完が、互いを正しいと教え合った」
P31
録音の続き。
野崎
『鍵はどこ?』
柴田
『もう必要ない』
野崎
『必要に決まってるだろ』
柴田
『だったら、どうして消せと言った?』
野崎
『そんなこと言ってない』
柴田
『今さら何を言ってるんだ』
端末ログでは「鍵」の候補が分かれている。
野崎側。
《収納箱を開ける物理的な鍵》
柴田側。
《秘密を暴く証拠》
《監視者が握っている情報》
さらに「消す」。
野崎側。
《玄関照明を消す》
柴田側。
《監視者の生命活動を停止させる》
笹森
「同じ単語の意味が違うだけじゃない」
真壁
「ああ」
「二人は、“この場で何が起きているか”という前提から別だった」
P32
真壁が、正常な会話データを隣へ表示する。
真壁
「普通なら、“あれ”の指示対象が分からない時点で迷いが生じる」
正常な会話の波形には、短い沈黙。
視線の移動。
聞き返し。
『あれって、どれ?』
『箱のこと?』
事件音声には、その空白がほとんどない。
真壁
「だが柴田には、迷う必要がなかった」
笹森
「端末が候補を出していたからか」
真壁
「それだけじゃない」
柴田が端末の候補を採用してきた履歴。
同種の曖昧な表現が現れるたび、
《監視》
《露見》
《排除》
に近い候補を選んでいる。
真壁
「何度も同じ補完を受け入れるうちに、候補が候補ではなくなった」
「最後には、端末が示さなくても、それ以外を思いつけなくなったんだ」
P33〜P34・見開き
中央に、一本の録音波形。
左右に、二人が見ていた異なる状況。
左側――野崎の意味世界。
玄関を塞ぐ古い靴と壊れた収納箱。
収納箱の鍵。
消してしまった玄関照明。
散らかった物を片付けてほしいという、日常的な要求。
右側――柴田の意味世界。
窓の外から自分たちを監視する、実在しない人影。
秘密を暴くための「鍵」。
その人間の存在を「消す」という命令。
証拠と目撃者を「片付ける」という相談。
右側の世界の背後には、過去に端末が提示した無数の候補が積み重なっている。
《監視》
《秘密》
《排除》
《脅威》
《処理》
録音された同じ台詞が中央で重なる。
野崎
『あれを片付けて』
柴田
『本当に消していいんだな?』
二人は向き合っている。
しかし、二人の視線の先にある世界は、一度も交わらない。
P35
録音。
野崎
『ちゃんと分かってる?』
柴田
『分かってる』
野崎
『だったら、今すぐ片付けて』
柴田
『俺がやるのか?』
野崎
『他に誰がやるんだよ』
柴田
『……本当に、それでいいんだな?』
野崎
『いいに決まってるだろ』
柴田
『あとで違うなんて言うなよ』
野崎
『言わないよ。もう二度と見たくない』
真壁が再生を止める。
真壁
「確認している」
笹森
「それでも、間違えた」
真壁
「違う」
真壁の額に汗が浮かぶ。
真壁
「柴田の中では、確認するたびに答えが一致した」
「野崎が否定しても、その否定さえ“あとから責任を逃れるための嘘”として補完された」
笹森
「何を言われても、自分の考えが正しいことになるのか」
真壁
「ああ」
「確認したから、間違いを確信に変えたんだ」
P36
録音の最後。
椅子が動く音。
野崎
『何するんだよ』
柴田が工具を持ち上げる。
野崎がその腕をつかむ。
野崎
『やめろ!』
柴田の認識世界。
野崎の制止が、別の意味へ置き換わる。
《秘密を知る人間を逃がすな》
《最後まで実行しろ》
柴田
『今さら止めるのか』
野崎
『違う! そんな話じゃない!』
柴田
『だったら、何の話をしてたんだ!』
鈍い打撃音。
物が倒れる。
野崎のうめき声。
二度目の打撃音。
沈黙。
やがて、柴田の震える声。
柴田
『どうして……』
『お前が、やれと言ったんだろう』
『ちゃんと、確認したじゃないか』
真壁の指が、再生停止ボタンの上で止まっている。
P37
真壁が、一本の録音から復元した二本の会話を画面へ並べる。
どちらも文章として成立している。
どちらも返答のタイミングは自然。
しかし、指示対象も、前提となる状況も、因果関係も一度として重なっていない。
真壁
「錯乱していたんじゃない」
笹森
「何?」
真壁
「少なくとも柴田の中では、最初から最後まで論理が通っている」
真壁は二つの状況モデルを見比べる。
真壁
「これは、口論じゃない」
笹森を見る。
真壁
「同じ言葉を使っていただけだ」
「二人は最初から、まったく別の世界の話をしていた」
P38
笹森は答えない。
鞄から分厚いファイルを取り出し、机に置く。
真壁
「何だ、それは」
笹森
「この事件だけなら、俺もここには来なかった」
ファイルを開く。
複数の事件記録。
家庭内傷害。
介護施設での死亡。
職場での監禁。
駅構内での突き落とし。
医療現場での異常な処置。
笹森
「この一か月で十二件」
真壁
「全国で?」
笹森
「この管内だけだ」
P39
真壁の顔から血の気が引く。
笹森
「加害者たちに接点はない」
「年齢も、職業も、生活環境も違う」
事件記録の中の加害者たち。
誰もが、怒りや狂気ではなく、困惑した顔で供述している。
笹森
「共通しているのは、事件の直前まで全員が――」
「相手との会話は成立していたと信じていることだけだ」
真壁は十二件の記録を見る。
一件目の柴田と同じ言葉。
『言われたとおりにした』
『確認した』
『相手も同意していた』
P40
真壁は十二件の発話データを解析する。
画面上に、単語の意味座標が表示される。
同じ単語から伸びた線が、事件ごとに異なる方向へ広がっていく。
真壁
「代わりの意味を探していない」
「自分の解釈を疑った形跡もない」
「それなのに、意味に対する確信度だけが異常に高い」
笹森
「感染症か?」
真壁
「違う」
笹森
「じゃあ、何だ?」
真壁
「まだ分からない」
真壁は、ばらばらに移動した意味座標を見る。
真壁
「だが、偶然じゃない」
「誰かが、人間の中にある“意味の地図”を動かしている」
P41〜P42・見開き
崩壊前の、平和に見える東京。
電車の中で、予測変換候補を選ぶ指。
SNSが自動生成した要約を読む目。
推薦された短い文章を、無意識に受け入れる人々。
音声アシスタントへ話しかける子供。
人間が入力した言葉が、巨大なサーバー群へ流れ込む。
サーバーが学習した言葉が、再び世界中の端末へ送り返される。
真壁のモニター。
『人間の言葉』
↓
『AIによる学習』
↓
『AIが生成した言葉』
↓
『人間による再学習』
意味座標が、循環するたびに、ほんのわずかずつ移動していく。
研究室の窓から見える東京の夜景。
高層ビル。
電波塔。
基地局。
無数のスマートフォンの光。
すべてが重なり、天まで届く巨大な塔のように見える。
真壁はまだ、その循環が何を生むのか知らない。
真壁のナレーション。
〈それが、人類の築いた言葉の塔が――〉
〈足元から、音もなく崩れ始めた瞬間だった〉
〈だが、あのときの私はまだ知らなかった〉
〈塔を崩していたものが〉
〈すでに、私の中にも入っていたことを〉
P43
現在。
超低速対話共同体を出た真壁が、封印袋からスマートグラスを取り出す。
再び装着。
起動画面。
一瞬だけ、赤い文字が表示される。
《警告》
《使用者:真壁》
《基準意味モデルとの乖離を検出》
真壁が目を見開く。
次の瞬間、通常画面へ切り替わる。
《端末動作:正常》
《対話遮断対象:なし》
端末音声
『端末の動作に問題はありません』
真壁は何も言わず、遠くの東京を見る。
無数のビルと電波塔が、夜空へ伸びている。
真壁のモノローグ。
〈その“問題”という言葉を――〉
〈私と機械は、本当に同じ意味で使っているのか〉
第1話「意味の棺」完
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