第2話。陸の要塞
翌朝になっても、原子力空母は陸にあった。
当然なのだけれど、私はまだ少し納得していない。
ホテルを出て、また車に揺られ、昨日と同じ保管施設へ向かう。娘は朝から楽しそうで、夫に至っては観光地へでも向かうような顔をしていた。
「今日、中まで見られるんだよね?」
「もちろん」
「格納庫も?」
「たぶんな」
「学校もある?」
「それは知らない」
「学校?」
私は横から口を挟んだ。
「なんで空母に学校がある前提なの?」
「いや、ケンブリッジだから」
「名前だけで教育機関を期待するな」
夫と娘が笑う。
私は笑わない。
笑ってはいけない気がする。
昨日、この五万トンの灰色の塊を見た瞬間から、夫の中ではもう「内見」ではなく「確認作業」になっている。
買うかどうかを見るのではなく、買うための理由を探している。
そこが怖い。
施設へ到着すると、現地の担当者らしい男性が待っていた。
夫は妙に慣れた顔で挨拶をしている。
「あなた、やり取りしてたの?」
「メールで少し」
「少し?」
「まあ、何回か」
「何回」
「覚えてない」
「覚えてるでしょう」
夫は聞こえないふりをした。
また逃げた。
担当者の案内で、私たちは巨大な船体へ近づいた。
近づけば近づくほど、家から遠ざかる。
壁のような船腹を見上げながら、私は何度も考えた。
これを本当に家として見るのか。
玄関はどこ。
リビングはどこ。
そもそも、玄関という概念はあるのか。
「すごいな」
夫が呟いた。
「何が?」
「実物」
「昨日も見たでしょう」
「昨日は外だけじゃん」
「普通の家なら外見た時点でだいたい分かるのよ」
「でもこれは中が大事だろ」
「家みたいに言わないで」
中へ入ると、今度は広さに腹が立った。
通路が続いている。
扉が並んでいる。
階段がある。
また通路。
また扉。
私は途中から、自分がどこを歩いているのか分からなくなっていた。
「これ、迷うでしょう」
「最初だけだよ」
「住む前提で答えないで」
「案内図あるし」
「家の中で案内図を使いたくないのよ」
娘が壁の表示を見ながら先を歩いている。
「ママ、こっち食堂だって」
「食堂?」
「広いぞ」
夫が嬉しそうに先へ行った。
嫌な予感しかしない。
案内された先には、本当に食堂があった。
しかも広い。
家庭用のダイニングどころではない。
「何人で食べるのよ」
「三人」
「この広さで?」
「友達呼べるじゃん」
「何百人呼ぶつもり?」
娘が笑いながら椅子に座った。
「誕生日会とかできそう」
「規模を考えて」
「結婚式もできるな」
「パパ、気が早い」
「娘の結婚式を空母でするな!」
私だけが必死だった。
その後も、浴室。
医療区画。
トレーニング室。
厨房。
居住区。
夫は見るたびに感心し、娘は見るたびに喜んだ。
私は見るたびに、家という言葉の意味が分からなくなる。
やがて、大きな空間へ出た。
「ここ格納庫だって」
娘が見上げる。
広い。
とにかく広い。
「飛行機三十機くらい入るらしいぞ」
「うちは一機も持ってません」
「車置けるじゃん」
「駐車場扱いするな」
「三十台どころじゃないぞ」
「そんなに車もいりません」
夫は満足そうに頷いた。
「収納には困らないな」
「収納で格納庫を数える人、初めて見た」
そのまま上へ進み、ようやく飛行甲板へ出た。
風が強かった。
空が広い。
地上に置かれているとはいえ、視界の端まで灰色の甲板が続いている。
娘が走り出しそうになったので、私はすぐ止めた。
「走らない」
「広い!」
「広くても走らない」
夫は両手を腰に当て、得意そうに辺りを見回した。
「どうよ」
「何が」
「庭」
「庭じゃない」
「広いだろ」
「飛行甲板でしょう」
「でも外出られる」
「そういう問題じゃない」
夫は少し黙ったあと、急に思い出したように言った。
「なあ、ママ」
「何」
「この家、浮くぞ」
私は夫を見た。
「……家は浮かなくていいのよ」
「しかも動く」
「もっと動かなくていい」
娘が振り返った。
「引っ越ししなくても家ごと引っ越せるじゃん」
「そう!」
「娘に変な価値観を植え付けるな!」
夫がますます調子に乗った。
「海が見たくなったら海」
「最初から海にいるでしょう」
「フランス行きたくなったらフランス」
「家で行くな」
「アメリカだって行ける」
「飛行機で行きなさい」
夫が甲板を指した。
「飛行機もここから――」
「持ってないでしょうが!」
娘がまた笑った。
私は疲れてきた。
まだ午前中なのに。
そのあと、艦内設備の案内を見ていた娘が、急に立ち止まった。
「ねえ」
「今度は何?」
「スタバある」
「……何が?」
「スターバックス」
私は案内板を見た。
確かに書いてある。
スターバックス。
その下に、マクドナルド。
さらにミスタードーナツ。
「なんで原子力空母の中にスタバがあるのよ」
「便利じゃん」
「海の上なのよ」
「朝コーヒー飲めるぞ」
「家で淹れなさい」
「マックもある」
「ありますね」
「ミスドも」
「ありますね!」
娘が楽しそうに言った。
「学校帰り寄れるじゃん」
「どうやって学校からここへ帰るの?」
「艇とか?」
「通学に艇を使わせるな!」
「ヘリでも」
「もっと嫌よ!」
夫が案内板を見ながら、さらに奥を指した。
「コンビニもある」
「もう街じゃない」
「だろ?」
「褒めてない」
そのとき、娘が別の表示を見つけた。
「パパ」
「ん?」
「これ何?」
指さした先に、英語で書かれた案内があった。
《CAMBRIDGE COLLEGE》
夫が目を輝かせた。
「学校あるぞ!」
「だから何で嬉しいのよ」
「すごいじゃないか。ケンブリッジに留学だぞ」
「留学なの?」
娘が聞く。
「家の中だから転入じゃないか?」
「どっちでもない可能性を考えなさい」
「でも学校問題も解決だな」
「解決してません」
「通学時間ゼロ」
「だからそういう問題じゃない」
「雨でも濡れない」
「娘を艦内の学校へ勝手に転入させるな!」
娘は案内を覗き込んでいる。
「図書室もあるみたい」
「いいじゃん」
「よくない」
「実習室も」
「よくないって言ってるでしょう」
夫は満足そうだった。
「空母購入特典だな」
「学校を購入特典にするな!」
私の声がまた艦内に響いた。
五万トンもあると、怒鳴り声までよく通る。
午後になっても、内見は終わらなかった。
いや、もう内見と呼んでいいのか分からない。
途中で夫が、やけに嬉しそうな案内表示を見つけた。
「見ろよ」
「何」
「設備使用料、無料ってある」
「何が?」
「カタパルト」
「使わない」
「無料だぞ?」
「無料でも使わない」
「模擬装備の展示サービスもあるらしい」
「もっといらない」
「主婦って無料好きだろ」
「無料でもいらないものはいらないの!」
娘が笑っている。
夫も笑っている。
私はもう、笑うしかなくなってきた。
それが悔しい。
夕方近くになって、私たちは再び甲板へ出た。
風が少し冷たくなっていた。
夫は遠くを見ながら、満足そうに息を吐いた。
「いいな」
「何が」
「ケンブリッジ」
また始まった。
「広いし」
「広すぎる」
「学校あるし」
「そこを家の条件に入れないで」
「店もある」
「営業してるか分からないでしょう」
「病院もある」
「家に病院はいらない」
「浮く」
「分かった」
「動く」
「それも分かった!」
夫は笑った。
娘も笑っている。
私は二人を見てから、巨大な甲板を見渡した。
確かに、普通ではない。
普通どころではない。
でも、ここまで全部見せられると、少しだけ判断がおかしくなる。
広い。
設備はある。
生活はできる。
学校まである。
店もある。
病院もある。
五万トン。
原子力空母。
中古。
いや。
最後の三つで全部台無しだった。
「そういえば」
私はふと思い出した。
「これ、結局いくらなの?」
夫がこちらを見る。
「ケンブリッジ?」
「他に何を聞くのよ」
「ああ」
あまりにも普通の顔だった。
「一億八千万」
私は黙った。
娘も黙った。
「……一億八千万?」
「うん」
高い。
もちろん高い。
でも、都内で家を買えばそれくらいするところだってある。
この広さで。
この設備で。
五万トンで。
いや、五万トンは関係ない。
私はもう一度、夫を見た。
「……一億八千万、ね」
「うん」
夫はにこにこしている。
私は、まだその笑顔の意味を知らなかった。
第2話
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