夫が買った夢のマイホームは、中古の原子力空母でした。

志乃原七海

第1話。月刊、原子力空母。

第1話、


朝から、嫌な予感はしていた。


 夫が静かだったからだ。


 うちの夫は、静かなときほどろくなことを考えていない。


 私はトーストにバターを塗りながら、向かいに座る夫を見た。


 新聞でもない。


 スマートフォンでもない。


 妙に分厚い雑誌を、ずいぶん真剣な顔で読んでいる。


「ねえ」


「ん?」


「なんの本?」


 夫は表紙を少し持ち上げた。


「月刊軍用旗艦」


「だから何よ、それ」


 娘が牛乳を飲みながら笑った。


「今月、空母特集だって」


「毎月何を特集してるの?」


「先月は強襲揚陸艦」


「その前は?」


「巡洋艦」


「定期購読してるの?」


 夫の手が止まった。


 分かりやすい。


「……まあ」


「定期購読してるのね?」


「勉強になるぞ」


「何の役に立つのよ」


 私は雑誌を取り上げようとしたが、夫はさっと胸元へ引いた。


 その反応だけは早い。


「ちょっと見せて」


「いや、今いいところだから」


「何がいいところなの?」


「中古市場」


 私は手を止めた。


「何市場?」


「中古艦市場」


「そんな市場を家庭に持ち込まないで」


 娘が吹き出した。


 夫は気にせずページをめくっている。


「ほら、たまに出るんだよ。払い下げ」


「何が?」


「空母」


「中古車みたいに言わないで」


「中古だから安いんだって」


「何と比べて?」


「新品」


「新品と比較するな!」


 朝から声を張り上げたくなかった。


 本当に。


 できれば静かにコーヒーを飲みたかった。


 なのに夫は、こちらの事情など何も知らない顔で雑誌をこちらへ向けた。


「見てみろよ、これ」


 見たくはない。


 けれど、見せられたら見る。


 そこがいけない。


 ページの中央に、灰色の巨大な船が載っていた。


 その下には大きな文字。


《今月の特選中古艦》


 そのさらに下。


《元旗艦 ケンブリッジ》


「……ケンブリッジ?」


「いい名前だろ」


「名前の感想を聞いてない」


「五万トン級」


「もっと聞いてない」


「格納庫付き」


「空母なんだから付いてるでしょうね」


「居住区もある」


「それもあるでしょうね」


「食堂、医療施設、浴室、ジム」


 夫の声がだんだん弾んでいく。


 私はだんだん嫌になっていく。


「お前、前に言ってたじゃん」


「何を?」


「広い家がいいって」


「言った」


「収納多め」


「言った」


「キッチン広め」


「言った」


「部屋数も欲しい」


「言ったけど」


 夫が雑誌を指さした。


「全部ある」


「家じゃないでしょうが」


「でも住める」


「住めると家は違うのよ」


 娘が横から覗き込んだ。


「何LDK?」


「数えたら負けよ」


「ペット可かな」


「そこを気にしないで」


 夫はさらにページをめくった。


「しかもこれ、かなり掘り出し物らしい」


「空母に掘り出し物なんてあるの?」


「あるだろ、中古なんだから」


「その理屈で全部押し切るつもり?」


 夫は答えなかった。


 答えないときも危ない。


 しばらくして、何気ない顔で言った。


「一回、見に行かない?」


「どこへ?」


「ケンブリッジ」


「空母を?」


「見るだけ」


 出た。


 見るだけ。


 この人が「見るだけ」と言って、本当に見るだけで帰ってきた記憶がない。


 テレビを見に行けばテレビ台まで買う。


 車を見に行けば試乗する。


 犬を見に行けば名前まで考える。


 それが原子力空母になると、どうなるのか。


 想像したくない。


「いやよ」


「なんで」


「必要ないから」


「見てから決めればいいじゃん」


「見る前からいらないものってあるのよ」


「でも現物見ないで判断するのも怖いだろ」


 私は夫を見た。


「そこだけ急に常識人にならないで」


 娘が笑っている。


 完全に面白がっている。


「ちょっとくらいならいいじゃん」


「ちょっとって、どこにあるのよ」


「イギリス」


 私は一度、聞き流した。


 たぶん脳が拒否したのだと思う。


「……どこ?」


「イギリス」


「英国?」


「うん」


「英国って、あの英国?」


「他にある?」


「なんで家の内見に英国まで行くのよ!」


 夫はきょとんとしている。


 本気で分かっていない。


「だってそこにあるから」


「もっと近いところにしなさいよ!」


「空母って、そう都合よく売ってないんだよ」


「知らないわよ!」


 娘が急に顔を上げた。


「イギリス行くの?」


「行くならな」


「ロンドン寄れる?」


「寄れるんじゃない?」


「フィッシュアンドチップス食べたい」


「いいな」


「旅行の話に変えないで!」


 私は二人を交互に見た。


 もう完全に行く空気になっている。


「待って。三人で行くつもりなの?」


「家族で内見だろ」


「普通の内見はパスポートいらないのよ」


「まあまあ」


「まあまあじゃない」


 嫌な予感がした。


「航空券、いくらすると思ってるの?」


「十万くらい?」


「一人でね」


「ああ」


「ああ、じゃない」


 私はスマートフォンを手に取った。


 三人分の往復。


 空港までの交通費。


 宿泊。


 食事。


 現地移動。


 考えれば考えるほど、腹が立ってくる。


「これ全部、内見のために発生するのよ?」


「旅行だと思えば」


「思いません」


「せっかくだから二泊くらい」


「増やすな!」


「一泊だと忙しいだろ」


「そもそも行かなければゼロなのよ!」


 夫は雑誌へ視線を戻した。


「でも本体は安いんだよ」


「本体?」


「中古だから」


「その言葉、禁止にしようかな」


「ほんとに安いって」


「いくらなの?」


「それは現地で詳しく聞けばいいじゃん」


「なんで値段も知らずに英国まで行こうとしてるの!」


「目安は載ってる」


「じゃあ言いなさいよ」


「まあ、それはあとで」


「なんであと?」


 まただ。


 この人の「まあ」は危険信号になっている。


 夫は時計を見た。


「そろそろ出ないと」


「どこへ?」


「会社」


「逃げるな」


「遅刻するから」


「その前に航空券は買ってないでしょうね」


 夫が玄関へ向かった。


「ねえ」


「行ってきます」


「買ってないでしょうね!」


「行ってきます!」


 逃げた。


 本当に逃げた。


 娘がパンをかじりながら私を見る。


「買ってると思う?」


「思う」


「三人分?」


「たぶん」


「窓側あるかな」


「行く気にならないで」


 その夜。


 予想は当たった。


 三人分。


 往復。


 しかもホテルまで取ってあった。


 私はしばらく夫を問い詰めたが、夫は最後まで「見るだけだから」と言い張った。


 見るだけのために、英国まで行く。


 そんな家探しがあってたまるかと思った。


 けれど、その数日後。


 私は英国にいた。


 娘もいる。


 夫は楽しそうだった。


 空港から車に乗り、さらに長いこと揺られた。


 私はてっきり港へ向かっているのだと思っていた。


 原子力空母を見るのだから、少なくとも海はあるだろうと。


 ところが車は、どんどん海から離れていく。


「ねえ」


「何?」


「港、こっちなの?」


「港じゃないよ」


「は?」


「保管場所」


 嫌な予感がした。


 もう何度目か分からない。


 しばらくして車が止まり、夫が先に降りた。


「着いたぞ」


 娘も続く。


 私は最後に車を降りた。


 そこで、しばらく動けなかった。


 目の前に、巨大な灰色の船体があった。


 どう見ても船だった。


 どう見ても空母だった。


 ただし。


 陸にある。


「……ねえ」


「何?」


「これ」


「うん」


「陸にあるんだけど」


「払い下げだからな」


「払い下げ?」


「原子力空母」


「それは知ってる」


「内見しやすいように陸上保管されてるらしい」


 私はもう一度、見上げた。


 五万トン。


 原子力空母。


 中古。


 内見。


 英国。


 そして陸。


 何ひとつ、家探しの言葉として正しくない。


 夫が嬉しそうにこちらを向いた。


「どう?」


「……はあ」


 それしか出なかった。


               第1話

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