メールを開いただけなのに
kotonoha*
第1話 開いただけ
一
朝の開発フロアで最初に見つけるのは、たいてい柳瀬くんの画面だ。
私の席から柳瀬くんの席までは、机三つ分。椅子を少し引くと、彼のモニターの右半分が見える。今朝そこに映っていたのは、開発中のレジェンの設計画面ではなく、動画サイトの再生画面だった。犬が芝生を走っている。
「柳瀬くん」
「はい」
「それ、レジェンに犬の機能でも付けるの」
「……いえ」
「私用禁止って、先月も言ったよね。先々月も」
「すみません。ビルドの待ち時間で」
「ビルドの待ち時間に見るなら、仕様書を見て。犬は家で見て」
「家に犬いないんです」
「だから会社で見るの?」
柳瀬くんが画面を閉じた。閉じる前に、犬が芝生の端まで走りきったのが見えた。
「柳瀬さん、三回目ですよ」
隣の席から久保田くんが言った。
「久保田くん、数えなくていい。数えるのは私の仕事」
「じゃあ、怒るのも」
「私の仕事。久保田くんは自分のコードを見て」
「見てます。見ながら数えてました」
「あと、リーダー、十時の会議の資料、リーダーの機で印刷していいですか」
「いいよ。共有プリンタの設定、私の機にしか残ってないから」
久保田くんは入社三年目で、頼んでいないのに私の側につくところがある。それを私は止めていない。
レジェンは、うちの会社、帝電工業が出しているスマホだ。三年前の初代が思ったより売れて、去年の二代目で一気に伸びた。電車で向かいの席を見れば、五人に一人はレジェンを持っている。その次の機種の中身の三割を、私のチームが作っている。犬の動画を見ている暇は、本来、無い。
「柳瀬くん、ビルド通ったら設計書のレビュー出して。午前中」
「はい」
「嶋田さん、朝から怖いね」
後ろを通った部長が言った。
「怖くしています。十時、会議ですよね」
「会議室B。営業も来る」
十時から、部長との進捗会議があった。
「嶋田さん、通信まわり、来月の頭に一週間前倒しできない?」
「できません。前倒しすると試験の期間が四日になります。四日で見つかる不具合と、七日で見つかる不具合は、種類が違います」
「営業が、発表を早めたがっててね」
「営業が早めたいなら、営業が試験をしてください。私のチームは七日やります」
「……分かった。営業には俺から言う」
会議室を出る時に、隣のチームのリーダーが小声で言った。
「よく言うね、部長に」
「言わないと通るので」
「通るって、何が」
「無理な日程が。うちは二年、遅れゼロです」
「知ってる。だから嫌われてるんだよ、営業に」
「営業に好かれる仕事じゃないので」
私の机の引き出しの一段目には、個包装の焼き菓子が入っている。二段目にはレビューの控え。三段目には評価面談の記録。上から順に、私がよく開ける順だった。
二
昼休みに、私はスイーツのまとめサイトを見る。これは私用だが、私用のスマホなので問題は無い。
「リーダー、それ、ルヴェールですか」
弁当を持って通りかかった久保田くんが、画面を覗いた。
「覗かない」
「桃のタルトですよね。うちの姉が並んで買えなかったやつ」
「今日の一位。四千二百円」
「高っ」
「桃が高い年なの」
「そういえば、姉のところにメールが来たらしくて。ルヴェールが来週、オンラインストアを始めるって。先着千名で会員登録すると、全品二割引」
「知ってる」
知らなかったが、部下に教えられたくなかった。
「先着千名って、詐欺のメールみたいな文句ですね」
柳瀬くんが、自分の席から言った。
「大手だから。ルヴェールが詐欺やる理由がない」
「それはそうですけど」
「柳瀬くん、レビュー出した?」
「……午後に」
「午前中って言ったよね」
話はそこで終わった。終わらせた。
午後二時に、そのメールは来た。
会社の受信箱に、ルヴェールの名前で。件名は「オンラインストア開設のお知らせ」。来週の月曜に全品二割引のオンラインストアを開設すること、先着千名限定の会員登録を受け付けていること。文面は普通で、店のロゴが上にあって、下に登録のリンクがあった。
なぜ会社のアドレスに、と一瞬思った。思ってから、去年の暮れを思い出した。取引先への手土産を、去年まで楽天に出ていたルヴェールの店で頼んだ。経費で落とすために、会社のアドレスで。だから店が私のアドレスを持っている。今度は楽天を通さない店の直営のストアだから、二割引ける。筋は通っている。
私用のスマホを出そうとして、やめた。リンクは目の前の画面にある。スマホに打ち直す間に、千名のうちの何人かが埋まる。
会社のPCで、リンクを開いた。
登録の画面は、店の色だった。名前、メールアドレス、パスワード、それから支払いに使うカードの情報。カードはあとで買う時に要るので、今のうちに入れておいたほうが早い。パスワードは、いつも使っているものにした。部下には使い回すなと言っているが、部下は六人いて、私は一人だ。
三分で終わった。
ブラウザを閉じたところで、久保田くんが後ろを通った。
「リーダー、会員登録できました?」
「できた。たぶん先着間に合った」
「会社のアドレスで登録したんですか?」
「私用じゃなくて業務用だから問題ない。取引先への手土産に喜ばれるんだよ」
「なるほど、それでですか」
嘘ではない。去年、手土産に使った店だ。久保田くんは自分の席に戻った。私はブラウザの履歴を開いた。ルヴェールの登録の画面が、時刻つきで残っている。消せば、私用だったと自分で認めることになる。取引先の店だ。消さずに閉じた。
三
控えのメールは、五分後に来た。
件名は「会員登録ありがとうございます」。本文の上に、登録した名前とメールアドレス。その下に、一行。
あなたはちょうど100番目の会員様でした。プレゼントにクーポンを差し上げます。購入の際に誤入力ください。
誤入力。
声に出さずに笑った。ご入力、と書くつもりで、変換を間違えたのだ。大手のスイーツ店の、開設前のオンラインストアの、控えのメールで。担当の人は若くて忙しくて、たぶん今、これを送ってしまったことに気づいていない。私なら、レビューで戻す。「誤入力しないでください←誤入力」と赤で書く。
怪しい、と思った。
誤字と、100番目という区切りのよさと、開設前のプレゼント。三つ並ぶと、私の仕事の勘は少し引っかかる。引っかかったものをそのまま通したことは、レビューでは一度も無い。
添付は、zipが一つ。ファイル名は、店の名前と、クーポン、と読める英語。一品限り半額、と本文に書いてある。桃のタルトが、四千二百円。半額なら二千百円。
千名の中の100番目、というのは、運がいい。運がいい時に疑うのは損だと思った。それに、クーポンを画像で送る店は、去年の暮れにも一つあった。画像なら、開いても画像だ。
zipを開いた。
中に、画像が一枚。店のロゴと、クーポンの番号と、「一品限り半額」の文字。画像は普通に開いて、普通に閉じた。それだけだった。何も起きなかった。PCは静かで、画面は白くて、フロアのどこかで誰かのビルドが通った音がした。
「リーダー、レビュー出しました」
柳瀬くんが言った。
「見る。……柳瀬くん、さっきの犬、最後まで走った?」
「え。……はい。走りました」
「そう。よかったね」
「リーダー、機嫌いいですね」
「普通」
レビューを開いた。設計書の三頁目に、変数の名前が二種類混ざっていた。赤で書いた。「名前は一つに。読む人が迷う」。書きながら、誤入力ください、を思い出して、もう一度笑った。
「リーダー、いま笑いました?」
「笑ってない。柳瀬くんの変数を見て、少し」
「笑ったんですね」
「三頁目、直して」
四
定時を過ぎて、フロアの半分が帰った。
久保田くんは残っていた。彼はいつも私より遅くまでいて、私より早く来る。
「リーダー、まだいます?」
「帰る。明日、柳瀬くんの設計書、三頁目を見ておいて。変数の名前」
「もう見ました。二種類混ざってるやつですよね」
「そう。私より先に見ないで」
「先に見て、リーダーが見る前に直させたら、リーダーの手間が減ります」
「減らなくていい。私が見つけるのが仕事」
「……見つける仕事、多くないですか」
「多い。だから私がリーダー」
久保田くんは、それ以上は言わなかった。私は鞄を持って、会社のPCの電源を落とした。
「リーダー、そういえば」
「何」
「姉も登録したそうです。月曜にクッキーの缶を買うって」
「私は桃のタルト」
「……リーダー、桃、好きですね」
「今年は高いの」
久保田くんは笑って、自分の画面に戻った。
電車の中で、私用のスマホでルヴェールの商品一覧を見た。
オープンは月曜。桃のタルトは季節限定で、月曜からの分は数量が決まっている。半額のクーポンで買うなら、これだ。あとは二割引で、焼き菓子の詰め合わせを一つ。取引先の手土産に使えば経費で通る。通るように、私は伝票を書ける。
クーポンの画像は、会社のPCの中にある。月曜の昼休みに、番号を写せばいい。写すだけなら、私用ではない。私用かどうかは、私が決める。私が決めていいことになっている。
家に着いて、スマホの画面に、ルヴェールのサイトを開いたままにした。
オープンまで、あと六日。
サイトの上に、そう出ている。数字は月曜に向かって減る。四千二百円が二千百円になる日を、六日待てばいい。
会社のPCのことは、考えなかった。考える理由が無かった。電源は落としてきたし、明日の朝、いつも通りに立ち上がる。
つづく
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