第26話 負託

 山まで三日というところで、朝の道に人が立っていた。

 夜のうちに雨が通ったらしく、稲の葉先には雫が残り、田を貫く一本道が、濡れた石橋へ続いている。その袂(たもと)に繋がれた馬が首を垂れ、傍らの老人は、二人の来る方へ顔を向けていた。

 楊文(ヤン・ウェン)の手が柄に掛かるのを見て、沈曉(シェン・シャオ)は半歩前へ出た。

「……お一人です」

「一人だから、なんだってんだ」

「あの方は、兵を連れて来る時は、兵を見せます。見せないのは、兵がいない時です」

 楊文は柄に手を置いたまま、隣へ続いた。

 裴松(ペイ・ソン)は常服に剣を佩き、笠を欄干へ置いて待っている。供もなく、片足へ軽く重みを預けた姿は、旅の途中で涼む年寄りのようだった。ただ、北へ向かう道はここで川に遮られ、橋を渡るには、必ずこの男の前を通る。

「遅かったな」

 と、裴松は言った。

「灯りの噂は、半月前から儂の耳にあった。お前が聞きつけて、腰を上げて、この道を来る。……勘定では、二日早う着く読みだった」

「……渡しが、増水していました」

「そうか」

 裴松が頷き、沈曉も頭を下げた。格子を隔てず日の下で向き合うのは、十年ぶりになる。

 顔を上げると、老人の目がこめかみに留まっていた。

 朝に通した墨色の下から、白い筋が覗いている。沈曉はそこへ触れかけ、息を整える方を先にした。橋へ続く短い上りのぶんが、まだ胸に残っている。

 裴松は元の髪色を知っている。かつては結い上げた白い髪のまま、この男を観へ迎えた。今は顔からこめかみへ、それから息の上下する襟元へと、老人の目が移ってゆく。

「……色を、保てんのか」

「はい」

「そうか」

 裴松は深く息を吐き、欄干に置いた手を開いた。牢で、変わらぬ顔を恐ろしいと言った男の、その指の節へ朝日が当たっている。

 沈曉は上げかけた手を下ろした。隣では楊文が、二人の顔を見比べていた。


「お前が、楊文か」

 裴松が楊文へ顔を向けると、その背がわずかに伸びた。まだ名乗りを交わす前だった。

「白澗観(はくかんかん)の生き残り。武の筋は江湖(こうこ)仕込み。臨江では、儂の役所の裏塀を越えた」

「……見てたのか」

「儂の役所だ」

 裴松は、表情を変えずに言った。

「番犬に干し肉をやったろう。あれは儂が仔犬の頃から飼うとる犬でな。餌をやった人間の顔は忘れん。……お前が門前で拳の皮を破った時から、儂は知っておった」

 楊文の口が開きかけ、閉じた。

「錠を、鍔(つば)で打ったな」

 裴松は、続けた。

「三度、鳴った。詰所に誰もおらんことに気づかず、走った。……気づかんくらいで、ちょうどよかった。気づいておれば、迷うたろう」

 その言い方に、楊文が眉を寄せた。

「あんた」

「なんだ」

「あの晩、わざと兵を外したのか」

 裴松は、答えなかった。

 視線が橋の向こうへ逸れる。その間に楊文の手が懐へ動き、衣の上から何かを押さえた。鉄の鍵を収めているところだった。

 老人の目がそこを掠め、沈曉へ戻ると、楊文もゆっくり手を下ろした。


「この先の道に、兵は置いておらん」

 裴松は、橋の向こうを顎で示した。

「北の検問は三日前に畳ませた。山裾の駅の兵は、東の街道へ回した。理由は書類に書いてある。書いてあることは、全部正しい。正しいことしか、書いておらん」

「……勅命(ちょくめい)は」

「果たしておる」

 老人の声は、平らだった。

「儂の任は、十年前の罪人を探すことだ。探しておる。今日も、探しておる。……この街道は、昨日検めた。誰もおらんかった」

 沈曉は橋の向こうへ目をやった。濡れた道は稲田の先まで続き、人影も、槍の穂先もない。牢の卓に鍵を置いた手が、今は山へ続く街道を開けている。

「なぜ、と聞いてよいですか」

「聞くな」

 裴松は、短く言った。

「聞けば、儂は答える。答えれば、長くなる。……長い話は、もう一つの方でしてしまった。今日はそちらの持ち時間だ」

 老人は欄干の笠を取り、縁を手の中で回した。被るには低い位置で、その手が止まった。

「陳霖(チェン・リン)」

「はい」

「山におるものの話を、する」


 橋の下では、増水の名残を含んだ水が橋脚を洗っている。裴松は濁った流れへ目を落とし、笠の縁に両手を添えた。

「十年前、儂は焼け跡へ行った。骸(むくろ)を見た、という話は牢でした。……一つ、しなかった話がある」

 編み目の隙間から、細い光が指へ落ちる。

「生きておる者が、一人おった」

 沈曉は、動かなかった。

「山門の外だ。年寄りの道士の骸から、少し離れた草の中に、子供が倒れておった。胸から腹へ、一太刀。誰もが骸だと思うた。儂も思うた。抱え上げた時、その子の指が、儂の袖を掴んだ」

 沈曉は欄干へ指を置いた。雨を吸った石は冷たく、指の下でざらついている。

「李慕言(リー・ムーイェン)という」

 初めて聞く俗名だった。胸の内でその音を辿ると、知っている子供の顔へ重なる。

「観の記録は焼けておったから、俗名は麓(ふもと)の村で調べた。物心つく前に観へ上がった子で、親はもう、村におらんかった。……引き取る者がない。儂が、引き取った」

 隣で楊文の息が短く止まった。谷の夜に尋ねられ、答えずにいた生き残りの名を、二人は並んで聞いている。

「医者は、助からんと言うた。助かった。助かって、それきり、あまり喋らん子になった」

 裴松は笠を欄干へ戻したが、縁に掛けた手は離さなかった。

「儂の屋敷で育った。飯を食い、字を書き、儂の孫のような顔をして、十年おった」

 老人の口が一度閉じ、目だけが、水の過ぎる方へ向いた。

「拾うた年は、まだ傷が塞がらんかった。粥しか食えん体でな。儂の女房が、匙で口まで運んでやった。あれは、目を開けたまま、じっと天井を見ておった。うまいとも、まずいとも言わん。ただ、口を開けて、飲んで、また開けた」

 橋脚に引っ掛かっていた草が流れへほどけた。沈曉は冷えた石に指を置いたまま、次の言葉を待った。

「傷が塞がって、床上げした日。あれは初めて口をきいた。ありがとうございます、と言った。それだけだ。名を聞いても、村の名を聞いても、答えん。答えんのは、忘れたからだと思うておった。……後で分かった。忘れたのではない。答える意味が、あれには分からなんだのだ」

「行儀のよい子だった」

 老人は、続けた。

「出されたものは残さず食う。好き嫌いを、一度も言わなんだ。甘いものを出しても、辛いものを出しても、同じ顔で、同じ速さで食う。……子供というのは、そういうものではなかろう。儂の娘は、椎茸で三日泣いた。孫は、青菜を庭に埋めて隠しておった」

 楊文がこちらへ目を向けた。沈曉は受けかけた視線を欄干へ落とし、指についた水を親指で拭った。

「字の稽古は、驚くほど早う進んだ」

 裴松の声が、少し明るくなった。

「儂が師を付けたら、ひと月で師の方が困った。教えることがない、と言いおった。あれは字を、決して崩さん。手本と寸分違わぬように書く。……なぜそこまで正しく書くのかと聞いたら、答えが返ってきた」

 裴松は笠の編み目へ目を落とした。

「間違えると、直されますから、と言うた」

 沈曉の指先が、石の上でわずかに曲がった。筆を持つ手に自分の手を添え、傾きを直した朝があった。

「誰に直されるのかを、儂は聞かなんだ。聞けば、あれの中の誰かが、傷つく気がした」

 笠の縁を押さえていた指が緩んだ。

「拾うて一年が過ぎた頃、初めて笑うのを見た。庭の池で、鯉が跳ねた時だ。……儂は嬉しゅうて、その日一日、鯉の話ばかりしておった。あの一瞬は、二度と来なんだ」

 唇の端がわずかに和らぎ、次の息で戻った。

「夜中に、廊下で会うことがあった」

 裴松の声は、また平らに戻る。

「眠れんのだろう。庭を見ておる。儂が声をかけると、起こしましたか、と詫びる。詫びて、部屋へ戻る。……戻る背中に、儂は何も言うてやれなんだ。何がその子の夜を埋めるのか、儂には分からなんだからだ」

 裴松は欄干に手を組み、親指を重ねた。

「体が癒えると、剣を振り始めた。裏庭で、雨の日も振った。筋が悪い。何百回振っても、良うならん。それでも振る。……儂が教えてやると言うたら、断られた」

「――」

「結構です、と言いおった。丁寧にな。儂はそれきり、教えると言わなんだ」

 風が欄干を越え、三人の衣の裾を同じ方へ膨らませた。

「十年で、あれは儂に、何一つねだらなかった」

「銭も、着物も、剣もだ。要るものは要ると言え、と幾度も言うた。あれは、ありがとうございます、と頭を下げて、何も言わん。……何も欲しがらん子供ほど、恐ろしいものはない。欲しいものが一つもないのではない。欲しいものが一つしかないから、他の全部が要らんのだ」

 沈曉は、目を伏せた。

「儂は、その一つが何なのかを、十年、聞けなんだ」

 沈曉の知らない屋敷に、粥の椀があり、手本を広げる卓があり、雨の落ちる庭があった。彼が薬を包み、村を移り、また薬を包んでいた間に、あの子の身体は大きくなり、握る剣も変わったのだろう。

 それでも、手を取ろうとする老人には、結構ですと答えた。

 沈曉は石から指を離した。筆の傾きを直したのも、剣の持ち方を教えたのも、自分だった。あの子の手に残っていたものを思うと、濡れた指を袖で拭うまでに間があった。


「三年前から、あれは屋敷を空けるようになった」

 裴松の声が、低くなった。

「都の勤めだ、と言うておった。ひと月、ふた月と出て、戻ってくる。戻ってきた顔が、出ていく前より静かになっておる。……儂は、それを見ておった」

 老人は、橋の欄干に手を置く。

「同じ頃から、儂の耳に、妙な噂が届き始めた。地方で、人がまとめて死ぬ。傷がない。歩いたと言う者がおる。……儂は将軍職にあった男だ。報せを地図に置く癖が、体に残っておる」

 楊文が麻紐で描いた円が、沈曉の目の内に浮かんだ。地名を拾い、結んだ紐が、最後にこちらへ戻ってきた形である。裴松の卓にも、三年ぶんの報せが同じ輪を作っていた。

「置いた印が、輪を描いた」

 裴松の手が、欄干の上で握られた。

「輪の縮む先に、何があるのかは分からなんだ。ただ、あれの留守と、印の日付が、重なっておった。……重なっておることに、儂は気づいておった」

 欄干を握る手の甲に、筋が浮いた。

「気づいて、儂は、見ないふりをした」

 沈曉は顔を上げた。

 薬房の戸の陰へ、もう一度振り向けばよかった朝がある。火の番に掛けられた言葉へ、答えずに手を動かしたこともある。裴松の声を聞くうち、仕事の方へ戻してきた自分の手が、膝の脇で重くなった。

「問えば、答えが出る。答えが出れば、儂は動かねばならん。動けば、あれを法に渡すことになる。……儂は、問わなんだ。孫のような顔を毎朝見て、行ってくるかと聞いて、行ってまいりますと返される。それでよい、ということにした。四十年、軍法を曲げなんだ男が、家の内でだけ、目を瞑った」

 裴松は、こちらを見た。

「儂が、行かせてしまった」

 裴松は欄干を掴んだまま、口元を動かさずに息を継いだ。

「牢破りの報せが都へ上った日に、あれは屋敷を出た。行き先は言わなんだ。儂も、聞かなんだ。……聞かんことが、儂の弱さの形だ。お前の黙りと、儂の聞かずは、たぶん、同じ穴の獣よ」

 沈曉は唇を開きかけ、閉じた。二人の間で、笠の紐が風に揺れていた。

「じいさん」

 語り始めてから黙っていた楊文が、硬い声で口を挟んだ。

「あんたは、止めに行かねえのか。育てたんだろう、十年」

 裴松は、楊文を見た。

「儂が行けば、あれは戸を閉める」

「……」

「十年、同じ屋根の下で閉められ続けた戸だ。儂には、開け方が分からなんだ。分からんまま、飯だけ食わせた。……開けられる者がおるとすれば、儂ではない」

 老人の目が沈曉へ動き、楊文もその先を見た。

 問いは続かなかった。楊文は自分の掌を開き、柄を握るところの皮を親指で擦っている。やがて手を下ろすと、帯に差した剣の鞘(さや)へ指が触れた。

 十年前に山を失った子供と、いま三日先の山で待つ男が、裴松の声の中で一人になった。その名を聞いてから、楊文は一度も、斬るとは言っていない。


 裴松は欄干の笠を取り、被ってから馬の傍らへ移った。寄せてくる鼻先を撫で、手綱の結び目に指を掛けたところで、楊文へ向き直る。

「白澗観の」

「……なんだ」

「三年の輪の中に、お前の山が入っておった。儂が早うに目を開けておれば、届いたかどうかは、分からん。分からんが――」

 老人は頭を下げた。

 腰から深く折れた背の向こうに、日を受けた田が広がっている。元将軍の白い頭が、往来で、楊文の目よりずっと低いところにあった。

「済まなんだ」

 楊文は、動かなかった。

 指が掌へ食い込み、また離れる。楊文は何か言いかけ、息だけを吐いてから、口を開いた。

「……頭を上げてくれ。あんたが下げる頭じゃねえ」

「儂の頭だ。どこで下げるかは、儂が決める」

 裴松は頭を上げ、手綱の結び目を解いた。鞍へ手を掛けたまま、もう一度沈曉の方を向く。

「陳霖。儂はもう、十年前のことを問わん。牢で問うて、答えは貰った。答えぬというのが、お前の答えなのだろう。……ただ、一つだけ言うておく」

 老人の目が北へ移った。田の先に、三日先の稜線(りょうせん)が灰色に重なっている。

「あの子が山で何をしておるのか、儂は知らん。麓の村は、もう誰も上らん。夜の灯りを見て、道士様の帰ってきなさった、と拝む年寄りと、祟りだと戸を閉める者が半々だそうだ。……昼間、材木が上がっていくのを見た者がおる。あれは山で、何かを建てておる」

 材木を上げるには、あの石段を通る。

 沈曉は、三百と六段の途中に長い木が横たわるところを思い浮かべた。誰の肩に担がれ、どの庭を通り、何の跡へ立てられるのか。見て覚えた手が、今度は焼けた山の形をなぞっている。

「知らんが、待っておることだけは分かる。十年、あれは待つことしかしてこなんだ。……待たれておるのは、お前だ」

 裴松は右足を庇いながら鞍へ上がり、腰を据えると背を伸ばした。馬上に戻ったその姿に、二十年前、観へ来たときの輪郭が重なる。

「儂は、麓の駅におる」

 手綱が引かれ、馬の首が南へ巡った。

「山から誰が降りてきても、儂が迎える。……誰が降りてきてもだ」

 馬が歩き出し、二歩目でまた手綱が張った。老人は前を向いたまま言った。

「言い忘れておった」

 沈曉は老人の背を見上げた。

「あれは今、望曉(ワンシャオ)と名乗っておる」

 馬は南へ去り、蹄の音が稲田の間を遠ざかってゆく。残された名だけが、橋の上で、耳の奥に留まっていた。


 望曉。


 夜明けを望む、と書く。二十歳の彼が選び、十年前の夜に捨てた号だった。

 その名で呼ばれると、あの子は顔を上げるのだろう。はい、と答える声まで思い浮かび、沈曉は欄干へ目を落とした。先ほど指で拭ったところだけ、濡れた石に薄い跡が残っている。

 いつから、そう呼ばれていたのか。

 尋ねる前に、蹄の音は遠くなっていた。


 二人は北へ歩き出した。

 橋を渡ると稲の匂いが濃くなり、道は田の間を抜けて、緩やかな上りへ続く。楊文の後ろを歩きながら、沈曉はもう一度、その名を胸の内で呼んだ。

 足が、一歩分だけ遅れた。

 前を行く楊文が歩を緩める。何も言わず、隣に戻った足音と並んで、坂を上っていった。

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