第25話 灯火

 行商の話を聞いた夜、沈曉は竈の前で夜を明かした。

 薪の形を残した灰が、火のあったところを白く覆っている。ときおり奥から細い赤が透け、また埋もれるのを見ながら、膝に掛けた布の端を押さえていた。向かいで楊文が寝返りを打つと、衣の擦れる音のあとに、長い寝息が戻ってくる。


 玉雲観の焼け跡に、灯りが点る。

 ひと月もの間、夜ごと火を掲げれば、麓の者はその場所を覚える。隠れて何かを行うには、あまりに人目を引く灯りだった。丹房で仕事をするなら、手元を照らす火は要る。けれど、行商の伝えた灯は、点いては消えるという。

 沈曉は灰の下の赤を見つめた。

 火を消したあと、その者はどこへ向くのだろう。炉へ戻るのか。それとも、山を上ってくるはずの足音を聞こうとするのか。


 丹房の跡だと聞いたときから、思い浮かべている手は同じだった。

 あの男は、書き付けを残さない。

 そのやり方を、誰の傍で覚えたのかも分かっている。紙に名を記す代わりに、二人の知る場所へ火を置く。十年前に焼けた屋根も、窓も、薬を干した軒も、闇の中では見えまい。その奥に灯だけが点れば、彼には、そこがどの部屋だったか分かる。

 焼け落ちた丹房を、夜ごと一度、灯りの中へ建て直している。


 呼ばれているのだと思った。

 十年を隔てた山から、声の代わりに火を使って。

 足を向ければ何が待つか、灰を見ている間にも幾通りもの形が浮かんだ。それでも灯りを点ける手は、いつも同じところへ戻る。火を掲げたまま、こちらを向いていた。


 明け方、楊文が薄く目を開けた。

 沈曉は顔を上げ、また灰へ目を落とす。赤いところは、もうどこにもなかった。


     *


 朝のうちに、二人は集落へ下りた。

 楊文が鍛冶屋の方へ曲がり、沈曉は雑貨屋の戸をくぐる。紙屋のない集落で、軒の暗い店の棚に積まれた三帖が、選べる紙のすべてだった。

 指で厚みを確かめ、戸口の明かりへ透かすと、白い繊維が粗い目を作っている。いちばん詰まった一帖を抜き、朱と砥石、それに棚の隅の小さな木箱を求めた。摘み溜めた薬草と膏薬を納めれば、薬箱の代わりになる。

「まけようか」

 店の婆が、包みを結びながら言った。

「いえ。結構です」

「あんた、そういや前もそう言ったね」


 沈曉は言い値の銭を並べた。

 取り出したのは楊文の財布からである。今朝、要る分だけ持っていけと渡されたものが、銭の減ったぶんだけ掌に柔らかかった。

 木箱を抱えて外へ出ると、鍛冶屋の軒で刃が光った。


 中古の剣が束にして立てかけてある。研ぎ減った刃に、巻きの解けた柄。楊文は一本ずつ抜いて重さを確かめ、身体の向きを変えながら、空いている方へ振っていた。三本目だけ、鞘へ戻るまでが長い。

「これは」

「安いよ。安いなりだ」

 親父は鞴を動かしたまま、顎で刃先を示した。

「刃は使える。ただし、押しちゃいけねえ。引いて斬れ」

 楊文はもう一度刃を見て、鞘へ納めた。

「なまくらだな」

「なまくらだ」

「……ねえよりましだ」


 沈曉は木箱を抱え直した。

 襲われる前、雨の道でも、この男はそう言った。次の町で剣を探す、と。そのあとの小屋で聞いた声には、もう息が混じっていた。

 次のは、いいやつを、買う。

 いま軒下に立つ楊文は、親父へ銭を渡し、新しい鞘を帯に差している。沈曉の方を向くと、抱えた箱へ目をやり、帰るぞ、と顎を動かした。

 あの言葉を覚えているかは、聞かなかった。


 帰りの坂では、途中から沈曉の息が上がった。木箱の角を持ち替えるうち、隣の足音もゆっくりになる。楊文は少し先の道へ目を向けたまま、登りきるまで同じ歩幅でいた。


 小屋の前へ荷を下ろし、沈曉は紙を広げて風を通した。朱を溶く器の傍らで、楊文が砥石を濡らしている。刃を寝かせ、引き戻すたび、濡れた石から低い音が続いてくる。

 薬研を挽く音に、少し似ていた。

 手元で朱の粒が崩れ、その音に合わせるように、水の底から赤が広がってゆく。

「あんた」

 楊文は研ぐ手を動かしながら言った。

「あの灯りは、なんだ」


 沈曉の手が止まった。

 器の赤い水が静まり、その間にも石を擦る音が往き来する。楊文は刃を返し、反対の面へ取り掛かった。

「合図です」

「誰の」

「……焼け跡で、灯りを点ける者の」

「誰宛てだ」

 沈曉は、答えなかった。


 研ぎ音が途切れた。

 剣を膝へ置いた楊文の目に、沈曉は顔を上げる。

「あんた宛てだな」

「……はい」

「呼んでるのか」

「はい」

「じゃあ、あの灯りを点けてるのは」


 朱の器を板へ置くと、底が小さく鳴った。

「玉雲観で、生き残った者です」


 風が林を渡り、軒へ広げた紙の隅を持ち上げる。沈曉がそこを押さえる間、楊文は剣の腹を布で拭い、刃を日に透かしてから、また石へ戻した。

 式に襲われた夜にも、生き残りはいるのかと聞かれた。そのとき口にできなかったものを、今は声にして、この男の前へ置いている。

 誰なのかも、どういう間柄なのかも、楊文は問わなかった。指で水を掬って石へ落とすと、剣を研ぐ音がまた二人の間を満たした。


     *


 日が林の向こうへ傾く頃、沈曉は符を書き始めた。

 粗い紙は筆先を引き留め、朱を含んだ毛が、繊維に触れるたびわずかに乱れる。息を長く吐きながら線を引き、書き終えたものから傍らへ並べてゆく。願い入れのない上端へ、夕明かりが薄く差していた。

 三十枚を揃える頃には、筆を置いた指がすぐには開かなかった。もう片方の手でゆっくり伸ばし、朱の乾きを待ってから数え、油紙へ包む。


 夕餉のあと、楊文は借りていた器や灯を集落へ返しに行った。

 戻る頃には竈の火も落ち着き、小屋の奥へ薄い明かりを送っている。沈曉はその明かりで薬箱を詰め、符と朱を納め、脇へ自分の剣を置いた。向かいで横になった楊文の、上掛けから出ている手が見える。


 腹の傷は塞がっている。

 けれど今日、剣を試したあと、楊文は一度だけ帯の下へ手を当てた。坂道で歩を緩めたのも、こちらに合わせただけとは限らない。丹が閉じた傷の奥で、何がどれほど戻っているのか、沈曉の指にも測りきれぬところがあった。

 あの谷で、式はこの男だけを狙った。

 灯りのある山へ伴えば、同じ者の手が、またこの腹へ届くかもしれない。


 沈曉は荷の紐を取り、結びかけて止めた。

 路銀を残して出た臨江の宿でも、こうして音を立てずに支度した。置き去りにした男は、犬に干し肉をやり、塀を越え、牢の前まで来た。

 今度も独りで山へ向かえば、目を覚ました楊文は、まずこちらの寝ていた場所を見るだろう。それから戸を開ける。行き先さえ告げなければ、この身体で、人を捜すところから始めさせることになる。


 指の間に、結び目が半ばほど残っている。

 沈曉は紐を緩め、向かいへ目をやった。額に置かれた掌と、その下で自分が目を閉じていた間のことが、火の向こうの手に重なる。

 言え。俺が聞く。


「玉雲観へ、行きます」


 寝ている楊文へ向けて、そう言った。

 火の爆ぜる音より少し大きいくらいの声だった。上掛けは動かず、顔もこちらへ向かない。沈曉はすぐに目を逸らせずにいたが、やがて荷へ戻り、ほどけかけた紐を結び直した。

 口にした山の名が、小屋の中にまだ残っている気がした。

 十年前、観を出た夜には行き先がなかった。その後も、去るたび誰かに告げることを避けてきた。今夜は荷を枕元へ寄せ、灰を掛けて火を始末すると、戸口の手前に身を横たえた。


 翌朝、まだ暗いうちに戸を開けると、楊文が立っていた。

 研ぎ上げたなまくらを提げ、荷を背負い、林の間からわずかに見える山の方を向いている。

 沈曉は、動かなかった。

「……いつから」

「昨日の晩からだ」

 楊文は肩の紐を直しながら、こちらを見た。

「あんたの荷造りは、静かすぎるんだ。物を置く音がしねえ。……臨江でも、そうだったんだろうな。俺が見てりゃ、気づけた」


 沈曉は敷居に置いた足を見た。

 まだ越えていない。その外側に、楊文の草鞋が二つ揃っている。

「行くなら、二人だ」


 危険です、と口にしかけた。

 あの谷のことを、この男は自分の腹で知っている。傷を隠す帯の下へ目を落とすと、差したばかりの鞘が、楊文の呼吸につれてわずかに動いた。

 沈曉は頷いた。

 楊文が先に歩き出し、三歩で振り返る。

「先に言っとくが」

「はい」

「俺は、あんたを許してねえ」

「はい」

「けど、置いてかれるのは、もっと腹が立つ」


 今度は振り返らず、林へ入ってゆく。

 沈曉は戸を閉め、その足音を追った。


     *


 街道へ出る頃には、田の端まで日が届いていた。

 夏の終わりの風に、穂を含んだ稲が少しずつ頭を下げている。白く乾いた道は畦の先で折れ、その先の村からは、朝の煙が細く上がっていた。

 山まで十日あまりの道である。


 人相書きはまだ出回っている。宿場へ入るときは楊文が先に立ち、門や人の集まる壁へ目をやった。後ろへ続く沈曉の荷には、新しい木箱の角が当たっている。歩くたび、乾いた薬草が中でかすかに擦れた。

 臨江へ向かったときと同じ道を、途中まで辿る。今は日が傾けば宿を取り、朝になると、二人の支度が済んでから戸を出た。


 三日目の夕方、山寺の軒で風鐸が鳴った。

 坂を下りてきた風が銅を揺らし、澄んだ音をひとつ、道へ落とす。その余韻を聞きながら、沈曉は足を緩めた。

 玉雲観の東の軒には、ひとつだけ音の濁った鐸があった。

 鋳の悪いもので、ほかの音が風に伸びるあとへ、短く籠もった音を添える。直そうという話は何度も出たが、あれで朝が分かると言う者がいて、結局は同じ鉤に吊るされたままだった。沈曉も夜明けの薬房でその音を聞き、窓を開けていた。

 山寺の鐸がもう一度鳴る。

 今度は、濁った音の続くのを少し待ってから歩き出した。


 五日目の朝、宿場の子供が往来に石を並べていた。

 しゃがんだ膝の前を指が一つずつ移り、数の途中で顔を上げる。呼んだのは店の奥にいる母親らしく、子供は返事をして立ち、並べた石をそのまま残して駆けていった。


 三百と六段。

 玉雲観の石段は上へ行くほど低く刻んである。そのことを話した子供に、数え直しを三度、付き合った。

 三度目、山門の前で、三百と六、合ってますか、と聞かれた。

 合っています、と答えると、子供はまだ顔を上げていた。沈曉はその横を通り、観の中へ入った。そのときの足元の石も、門の陰も、今は往来の小石より近くに浮かぶ。

 よく数えました、と言えば、あの顔はどう動いただろう。

 言葉は、十年経ってから出てくる。合っている数を確かめたあとの、あの短い間に置くはずのものが、今頃になって。


 七日目、薬屋の店先から乾いた根の匂いが流れてきた。

 棚の前で足を止めると、楊文も二、三歩先で立ち止まる。買う物があるのかと顔だけを向けたので、沈曉は首を振り、歩きながらもう一度棚を見た。

 玉雲観の薬房では、使う順、乾く順、毒の遠近で置き場所を決めていた。誰かが気を利かせて並べ替えると、仕事の前に一つずつ元へ戻す。背を伸ばして上段に手を掛けるうち、袖に薬の匂いが移り、朝の間じゅう残る。


 量りを使わずに薬を量っていると、戸の陰から、それが見ていた。振り返ると、消えた。

 軽い足音が廊を遠ざかり、少し経つと、また戸の際に気配が戻ってくる。

 並びを直す必要がなくなったのが、いつからだったかは覚えていない。ただ、量りを脇へ寄せるたび、あの視線があった。

 呼んで、手の上へ薬を載せてやるだけでよかったのかもしれない。重さを尋ね、違っていれば足し、余れば戻す。教えることは幾らでもあった。

 沈曉はいつも、量ったものを包む方へ手を動かした。


 店の匂いが遠のくと、足元には乾いた道が戻ってくる。

 記憶の中の廊を、その先まで歩けば夜になる。沈曉は薬箱の紐を肩へ掛け直し、隣を歩く楊文の鞘へ目を移した。新しい鞘の先が衣を擦り、歩調に合わせて往き来している。


 渡しで足を留められたのは、その先だった。

 上流で降った雨が、川を褐色に膨らませていた。対岸の杭は半ば水に沈み、舟はまだこちらの岸へ繋がれている。舟頭が水を見に下りては戻るのを、二人は柳の根方で待った。

「どんなとこなんだ。玉雲観ってのは」


 沈曉は川面から顔を上げた。

「……静かな、山でした」

「それだけか」

「風鐸の、多い観でした。朝は、鐘より先に鳥が鳴きます。冬は、石段が凍ります」

 川の中ほどを、枝が一本流れてゆく。

「下から来る者は、日が当たる方を選んで上ります。観から下りるときは、まだ暗いので、手すりに沿って」

「あんたもか」

「はい。薬を買いに」

「転ぶのか、あんたでも」

「籠を持っていますから」


「……大きな観だったのか」

「皇族の方々も、お入りになる観でした。お迎えする日は、山門から奥の堂まで、扉を開けます」

「普段は閉めてんのか」

「使わぬところは。開くと、庭の向こうに次の庭が見えて、その先まで、朱の柱が続いていました」


 沈曉は対岸へ目を向けた。柳の枝が風に撓み、二人の膝へ落ちる光を揺らしている。


「廊には幡を掛け、庭では香を焚きます。風が入ると、手前の幡から順に動いてゆく。大殿の前まで、香の煙が低く流れていました」

「あんたも、そこに並んでたのか」

「初めは。のちには、堂の中でお待ちする方でした」

「祭酒だからか」

「はい」


 楊文は膝に肘を置き、こちらへ顔を向けた。

「……似合いそうだな」

「何がです」

「そういうとこの、いちばん奥にいるのが」


 沈曉は少し黙り、川面へ目を戻した。

「奥には、神像がありました」

「あんたより奥か」

「はい。ずっと高いところに」


 繋がれた舟が岸へ寄り、舷の下で水が鳴った。


「古い堂でしたが、柱も、梁の彩色も、よく手入れされていました。朝、扉を開けると、神像の胸の辺りへ日が差します。お顔は暗いままで、金の衣だけが、堂の奥に見えていました」

「夜は、見えねえだろ」

「灯を持って入ります。近づくと、衣の襞に光が移って、見上げているうちに、お顔も見えてきます」

「……見られてるみてえだな」

「はい。灯を下ろすと、お顔だけ、また暗くなります」


 楊文は、沈曉の顔にしばらく目を留めていた。

 川風が二人の間を抜ける。沈曉は襟元を合わせ、対岸の杭へ目を戻した。水の引いたところに、濡れた木肌が細く現れていた。


 十日目の午後、峠へ出た。

 登りきったところで風が通り、汗を含んだ襟が首筋に冷たくなる。沈曉は息を整えながら北を見た。

 山並みが幾重にも重なっている。近い緑の向こうに青が沈み、いちばん奥の山だけが、午後の光を薄く吸って、灰色に霞んでいた。


 沈曉は足を止めた。

 稜線はなだらかに上り、一度沈んでから鋭く立ち、また落ちる。下がった先の緩い起伏へ目を移すと、その下にあるはずの屋根の位置まで分かった。

 百年、朝ごとに見上げてきた形だった。

 山はまだ同じ形で、空を支えている。


 石段は、三百と六段ある。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録(無料)

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る