第20話 望曉
都の朝は、鐘で始まる。
宮城の東、
男は窓辺に立ち、その声を聞いていた。
背後には書き物の卓と椅子が一つずつ、壁際には扉を閉ざした
二十五になる男だった。
背は高くなく、顔立ちは整っていたが、人と別れたあとに残るような目立ったところがない。灰色の衣の袖は短く、帯にも飾りはなかった。ただ、腰の剣の柄には、長く握り続けた艶があった。
宮城を歩けば、門の兵は道を空ける。
裴将軍に引き取られた、玉雲観の焼け跡の孤児。名を知らぬ者にも、そう告げれば通じた。
望曉、と彼は名乗っている。
俗名を呼ぶ声を、この都で聞くことは、ほとんどなかった。
*
山の朝には、鐘より先に鳥が鳴いた。
玉雲観の石畳が湿っている。幼い彼の記憶を遡れば、足もとにはいつもその石があり、行き着く先も、苔の匂いのする山の内だった。
父母の顔は覚えていない。山へ連れてこられた道も、そのとき背負われていたのか、抱かれていたのかも知らなかった。
春には谷の雪解け水が音を増し、夏の夕立のあとは、軒から落ちる雫に蝉の声が混じった。秋の落ち葉を踏めば足の裏で砕け、冬には石段の端が凍る。その上へ爪先を置かぬよう歩くことを、身体が先に覚えていった。
彼は、観でいちばん小さな弟子だった。
箒を握る手も小さく、集めた葉を次のひと振りで散らしてしまう。それでも朝になれば箒を持ち出し、年上の弟子たちの後ろについて歩いた。
よく笑った。
竈の灰で顔を汚すと誰かが笑い、何がおかしいかを聞く前に、自分も笑った。食事の列にも寝床にも彼の場所があり、名を呼ばれぬ日は、そのまま皆のあとへついてゆけばよかった。
稽古場の棚には、子供用の木剣が幾振りか並んでいた。
使い終えたら戻す決まりだったが、彼は一本を抱えて房まで帰り、寝床の脇へ置いた。翌朝それを持って出ると、また持ち帰ったのかと叱られる。叱った兄弟子は木剣を取り上げ、棚の空いている場所へ差し込んだ。
その日の稽古が済めば、彼はまた、同じ一本を手に取った。
七つの年の、霜の朝だった。
石段の縁が白く光り、先にゆく兄弟子たちの踵が、見上げるたびに高くなる。彼は一段へ足を置き、もう片方の足を引き寄せてから、次の段へ上がっていた。
隣に、衣の裾が止まった。
顔を仰ぐと、
誰よりも高い席にいる人だった。
師伯たちが声を低くして話し掛ける相手が、自分の上がりかけた段に足を置き、こちらを見ている。長く生きている人だと聞かされていたのに、その顔には、年老いた師伯たちのような皺がなかった。
「一段ずつ、数えなさい」
急かすでも、叱るでもない声だった。
彼は一、二、三、と数え始めた。吐く息が数の間に入り、上へゆくほど声が細くなる。途中で数が飛ぶと、指を折り、どこまで来たかを思い出そうとした。
三度目に言い淀んだとき、隣の歩みが遅くなった。
その人は彼の足に歩を合わせ、石段の話をした。
麓の段と、山門に近い段とでは、高さが違う。登るほど脚が草臥れるから、上の方を低く刻んであるのだと。
彼は次の段へ爪先を載せた。言われてみれば、膝の持ち上がり方が違った。
刻んだ者の名は残っていないが、石にはまだその心遣いがある。その人はそんな話を、息の整うのを待つような速さで続けた。
三百と六段目で、彼は顔を上げた。
三百と六。合っていますか、と尋ねると、合っています、と返った。
褒める言葉は続かなかった。
それなのに彼は境内へ駆け出し、霜に滑って転んだ。膝についた土を払う前に笑っていた。隣で石段を上がった人を振り返り、もう一度、三百と六、と言った。
その日から、心の中では「あの人」になった。
名を知らぬわけではない。師伯も兄弟子も知っていた。何百年も山を守ってきた人なのだと、兄弟子たちは言った。
幼い彼には、その長さを数えることができなかった。
数えられたのは、一緒に上った石段だけだった。名を思い浮かべるより先に、段へ置かれた足や、こちらへ下りてきた目が浮かぶ。
それを、あの人、と呼んだ。
*
朝の水汲みに出れば、井戸端を見た。
薬房の前を通れば、戸の内を窺った。姿がなければ境内を見渡し、向こうを歩く裾を見つけてから、自分の用へ戻っていった。
ある朝、戸の陰から薬研を挽くところを見た。
両手がゆっくり往き来し、石の擦れる音が、その動きに従って部屋へ満ちる。彼は戸口に足を掛けかけたが、引き戻した。
声を掛ければ、手が止まる。
止めずに、もう少し見ていたかった。息を潜め、戸板へ肩を寄せると、乾いた木の匂いが鼻に触れた。
ふと、薬研の音が止んだ。
彼は身を縮めたが、あの人は振り返らず、薬研の内へ目を落としていた。指は縁に触れたままでいる。
何を見ていたのか、今も分からない。
ただ、その横顔までの距離が、薬房の広さより遠く感じられた。朝の光は同じ床へ差しているのに、戸口からそちらへ踏み出せば、透き通った何かに触れてしまいそうだった。
遊びの輪で笑い、喧嘩をすれば泣く弟子たちの顔とは、違って見えた。
あの人には、そういうものがないのだろうか。
幼い彼は思った。持ちながら外へ出さぬことがあると知ったのは、ずっと後だった。
冷たく乾いた指の感触は、よく覚えている。
筆を握る手を取られ、一本ずつ指を置き直された。もう一度書いてごらんなさい、と言われて墨を含ませると、今度は筆の傾きを直された。
熱を出した晩には、同じ手が額へ来た。
薄く目を開けたところに袖があり、薬の匂いがした。何か答えたかったが、口を動かす前に眠っていた。
九つになる頃には、薬房の当番ができるようになった。
棚の包みを取り、匙を渡し、空いた器を洗った。あの人が指で摘まんだ薬を紙へ置くと、彼はその量を目で覚え、あとでこっそり秤に載せた。
分銅を替えると、釣り合った。
違う薬でも、別の日でも、釣り合った。そのたびに急いで元へ戻し、包み紙の折り目まで指でなぞっておいた。
夜、寝床へ入ると、軒の
隣の弟子は昼の話をまだ続けている。途中から返事が途切れ、戸の外を灯を持った者が通り過ぎた。壁の上を光が滑り、また暗くなる。
観は、家族の数だけ灯りのある場所だった。
戸を開ければ誰かがいて、呼べば返る声がある。彼は風鐸が一つ鳴り終えるのを待つうち、いつも眠ってしまった。
十二の年、丹房の戸の隙間から、あの人が印を結ぶのを見た。
指が長かった。
ゆっくり曲がり、重なり、次の指がその間へ収まってゆく。ほかの道士たちのように急いで形を作らず、一つずつ置くたびに、残る指の行き先まで定まるように見えた。
彼は戸口の外で、自分の手を見た。
同じところへ指を置こうとすると、隣の指まで動いてしまう。もう一度開き、初めからやり直した。
いつか、あの人のようになりたい。
それより先の望みを、思いついたことはなかった。
あの人を見上げるとき、境内から空を仰ぐときと、同じように首が傾いた。
空は遠い。
遠いから、見上げ続けることができた。
*
十四の年の秋には、歌いながら落ち葉を掃いた。
朝と夕に掃いても、木々は黄や紅の葉を落とす。彼の歌は節が外れ、変わり始めた声が、ときおり裏返った。
兄弟子に笑われると、わざともう一度同じところを歌った。
箒の先で脛を叩かれ、叩き返そうとして葉の山を崩し、それを見た別の弟子が腹を抱える。よく笑った秋だった。
麓へ薬を届ける遣いも、その頃には彼の仕事になっていた。
竹籠を背負って村々を回り、農家の子供に追い掛けられると、途中から自分も走った。山門へ戻れば息が上がっていて、また油を売ってきたのか、と兄弟子が呆れる。
夕餉のあとも、その話で笑った。
明日も遣いがある。今度こそ早く戻れと言われ、分かっていると答えた。夜が更けるまで、房には誰かの声が残った。
その秋、丹房の灯だけが遅くまで消えなくなった。
寝床へ戻る道から見ると、閉じた戸の合わせ目に細い光がある。翌朝になっても、その下の石に、同じ明かりが落ちていることがあった。
何をしているのかは知らなかった。
ただ、薬房を訪ねても、あの人の席が空いていることが増えた。代わりの道士から包みを受け取り、竹籠へ納めて山を下りた。
声を聞いたのは、乱の四日前の晩だった。
薬を届けて戻るのが遅くなり、水を飲もうと廊下へ出た。観は寝静まっていたが、丹房の灯はまだ点いていて、夜露の降りた石畳へ光を細く引いている。
初めは、低い話し声だった。
その一つが、急に大きくなった。
彼は水甕へ向かう足を止めた。
あの人の声だった。
何を言ったのかは聞き取れなかった。閉じた戸と壁を抜ける間に言葉が崩れ、耳には、声の強さだけが届いた。
丹砂の壺を割った弟子にも、あの人は静かに話した。写経を三度やり直させて、それで終わった。門限を破り、麓で酔って帰った兄弟子も、怒鳴られはしなかった。あの人の話を聞き終えてから、顔を伏せて泣いた。
その人が、声を荒らげていた。
もう一人が、何か返した。
詫びているのか、抗っているのか、戸の外では分からなかった。彼は一歩退き、丹房の灯が顔に当たらぬところへ戻った。
水を飲まず、房へ帰った。
寝床では隣の弟子が眠っていた。いつもの風鐸が鳴り、彼は目を閉じかけて、また開いた。言葉にならなかった声だけが、耳の内で繰り返された。
翌朝、あの人は井戸端にいた。
桶を置き、薬房へ運ぶ。しばらくすると薬研の音が始まった。
彼は戸口の手前で立ち止まり、その音を聞いた。昨日までと同じ速さだった。籠の紐を握る指が緩み、ようやく薬房へ入った。
悪い夢だったのかもしれない。
そんなことを思いながら、差し出された包みを受け取った。
*
あの声を聞いてから四日後、麓の川が増水した。
薬を届けた帰りには渡し場が使えず、遠回りをして山へ戻った。農家で礼にと持たされた蒸し餅が、懐に温かかった。
山道へ入るところで、空を仰いだ。
稜線の上が赤かった。
夕焼けはもう消えていた。彼は籠の紐を掴み直し、足を速めた。石段に近づくにつれて煙の匂いが濃くなり、山門の向こうで火の粉が上がるのが見えた。
その間のどこかで、蒸し餅を落とした。
気づいたのは、ずっと後だった。
背の籠が肩を叩き、中の空箱が鳴っている。石段を二段ずつ飛ばして上がった。三百と六段を、そんな速さで上ったことはなかった。
その夜は、数えなかった。
山門の先には、火があった。
落ちる梁の音に地面が震え、煙の低いところに人が倒れている。顔を確かめようとした先で、別の衣が見えた。その向こうにも手があった。
数えては、いけない。
誰に教わったのでもなかった。頭の中に一つ目の数が浮かぶ前に、目を逸らしていた。
誰かの名を呼んだ気がする。
火の音ばかりで、自分の声もよく聞こえなかった。
丹房の前に、あの人が立っていた。
焔を背にし、剣を提げている。
彼は顔を見た。筆を持つ指を直してくれた人だった。熱のある額へ、手を置いてくれた人だった。
呼ぼうとして、声が出なかった。
剣が上がるのを、彼は見ていた。
足は、その場にあった。あの人に近づくことなら、いつもしていた。身を翻して逃げるための足が、どちらへ出るのか分からなかった。
一太刀だった。
胸から腹へ、熱いものが走った。その奥で何かが砕け、息を吸う場所がなくなった。
仰向けに倒れると、夜露の草が首に触れた。濡れた土の匂いが近くなり、視界の端を、燃える観の光が満たした。
倒れながら、彼はまだ、あの人の顔を見ていた。
唇を動かしたが、言葉にならなかった。
あの人も、何も言わなかった。
そのあとは、よく覚えていない。
足音が遠ざかったのか、そこに立っていたのか。自分を見下ろしたのか、顔を背けたのか。思い返すたびに火の音が大きくなり、その向こうが聞こえなくなる。
ただ、名を呼ばれた記憶はなかった。
責める言葉も、詫びる声もなかった。
後になって、何度もそこへ戻った。
一言でも聞いていれば、その声に返す言葉を探せた。憎むにせよ、赦すにせよ、聞かされた一言のところから、歩き出せたかもしれない。
何も言われなかった者は、どこからも、始められない。
身体が大きくなっても、剣を持つ腕に力がついても、あの草の上に横たわる十四の自分が、顔を上げたままでいた。
*
傷が塞がったのは、裴将軍の邸だった。
医者は胸と腹の傷を検め、霊根が砕かれたのだと言った。道を歩む者の根だと説明されたが、傷口を覗いても、それらしいものは見えなかった。
寝床を離れられるようになってから、符を書いた。
紙は乾き、文字は残った。印を結んでも、かつて指の内を通ったものは戻らなかった。
薬房の棚なら、今も端から思い出せた。
匙の重さも、丹砂の匂いも、包みの折り方も覚えていた。ただ、あの人の手を真似て覚えた術だけが、指をいくら動かしても、身体のどこにも応じなかった。
彼は剣を持った。
握れば重みがあり、振れば空気が鳴った。翌朝には腕が張り、同じ場所へ振り下ろすにも力が要った。その重さを、朝ごとに持ち上げた。
人に習うことはしなかった。
筆を直されたとき、彼の指はあの人の指の形になった。やがて直されなくなった字は、手本によく似ていた。
教わった者は、教えた者の形になる。
剣の柄を握り直すときにも、筆を支えた冷たい指が浮かんだ。ほかの誰かの手を、そこへ重ねる気にはなれなかった。
なりたかった人は、何も言わずに去っていた。
*
都の鐘の余韻が消えていた。
窓の桟に朝日が差している。彼は右手を上げ、毎朝一度だけ結ぶ印に、指を組んだ。
十二の年、戸の隙間から見た順を辿る。一本を曲げ、その間へ次を収める。長さの足りなかった指も、いまは無理なく届いた。
窓から来た風が、袖の端を動かした。
それだけだった。
彼は手を下ろし、帯の剣を直して部屋を出た。
朝の勤めを終えれば、また同じ部屋へ戻る。
卓には、何も書き残さない。覚えるべきことは頭へ入れ、繰り返し確かめた。紙を渡されることはあったが、読み終えて用が済めば焼いた。
あの人も、紙を焼いていた。
同じことをしていると気づくまでには、幾年かかかった。気づいたあとも、灰を片づける手順は変わらなかった。
夜に卓へ向かうと、灯は何もない木目を照らした。
筆を持つ用もなく座っているうち、丹房の戸が浮かんできた。細い灯、夜露の石、途中で大きくなった声。
知りたいのは、その言葉だった。
丹を独り占めするために殺したのだと、世間は言う。そんな話を聞くたびに、彼は、自分の胸を斬った剣を思った。
独り占めを望む人が、なぜ自分を生かした。
あの顔を見ていた少年だけを、生き残らせた。
丹房では、あの人も一度は話したのだ。
それが通じなかったから、剣を取ったのではないか。彼には、そう思えた。けれど、夜ごと閉じた戸の前まで戻っても、声はまた同じところで崩れた。
最後の言葉ではない。
最初の言葉である。
剣より前にあったはずのそれを、十年、聞こうとしていた。
望曉という号は、あの人が二十の年に自ら選んだものだった。
夜明けを望む。
あの人が用いなくなった号を、彼が名乗った。将軍は初めてそれを聞いたとき、長く彼を見たが、何も言わなかった。
それきり、この号に触れたことはない。
どこかで聞けば、あの人には分かるはずだった。
この名を拾った者がいる。山の焼け跡から、生きて出た者がいる。
名乗って待つ間にも、彼は捜した。
三年、地図の上の場所を一つずつ辿り、内側へ寄せてきた。思い浮かべれば、泊まった房の戸や、迎えに出た道士の衣まで覚えている。
そこで死んだ者の数も、場所ごとに覚えていた。
全部で幾人になるのか。
数えかけると、一つの門の向こうに、別の門が開いた。迎えた顔が順に浮かび、彼は窓へ目を向けた。
数えては、いけない。
あの夜、石畳の上で目を逸らしたときと同じように、数が続く前に別のものを見た。誰に教わったのでもない癖だった。
*
その日の夕刻、戸を叩く音がした。
役人が一人、書状を持って立っていた。都へ届いた、臨江からの急報だった。
「望曉様。……将軍から、お目通しをと」
彼は受け取り、卓へ置いた。
役人が下がり、廊下の足音が遠ざかってから、封を切った。
短い文だった。
臨江城にて、十年前の罪人・陳霖を捕縛。翌未明、逃亡。手引きした者あり。共に川を下り、行方知れず。
彼は二度読んだ。
紙を置き、折り目を指で押さえた。細い繊維が、夕方の光に浮いていた。
塀の向こうでは帰りの官人たちが話している。名を呼ぶ声があり、呼ばれた者が何か答え、二人ぶんの足音が遠ざかった。
彼は椅子に座った。
書状は目の前にあった。
窓からの光が卓を離れ、紙の端から文字が見えなくなってゆく。
共に川を下り。
そこを押さえていた指を、彼はようやく離した。
顔を動かしてみても、笑おうとしていたのか、そうでなかったのか、自分では分からなかった。唇を閉じ、暗い窓に映る自分を見た。
昼間、道で人に会うときと、同じ顔をしていた。
やがて立ち上がり、火打ちで灯を点けた。
小さな炎が落ち着くのを待ち、書状の端をかざす。紙が反り、黒くなった縁から、文字が一つずつ欠けていった。
浅い皿へ落とした灰を、冷えてから指で潰した。
黒い粉が爪の際へ入り、擦ると細い筋になった。
彼は壁際の龕へ歩いた。
扉を開けると、蝶番が小さく鳴った。
牌も香炉もなく、供物を置いた皿もない。いちばん奥に、木剣が一振り横たわっていた。
子供の背丈に合う、短い木剣だった。
柄は握られて滑らかになり、刃にあたる片側だけが黒ずんでいる。稽古場の棚へ戻さず、寝床へ持ち帰った一本である。
今の手には、小さすぎた。
十年、この剣は使われていない。
埃は、ひとつも積もっていなかった。
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