第4話 弔葬

 楊文は堂の敷居で足を止めた。

 朝の光に十五の白が並び、堂の奥には、昨夜からの線香の匂いがかすかに残っている。香炉の灰に立つ幾筋もの跡を越えて、楊文の目が覆いの列を辿った。端まで行き、また戻り、二度目を見終えたところで喉が動く。

「……そうか。ありがとうな」

 礼は、敷居と白い列とのあいだに落ちた。覆いの下の顔は、もう昨日の顔ではあるまい。楊文はその一枚にも手を掛けずに立ち、沈曉は井戸から汲んできた水を、桶ごと土間へ下ろした。


 朝のうちに傷を検めると、一昨日の乱戦で二針ほど切れていた。滲んだ痕を焼酒で拭い、縫い直して、新しい晒しを巻く。そのあいだも楊文の顔は堂の方へ向いたまま、膝の上の掌には、骸を運んだ麻縄の痕が赤く残っていた。

「今日、埋める支度をする」

「はい」

「手順やら作法やら、俺は半端にしか知らん。門派の弔いは、いつも師匠が」

 沈曉が手当ての道具を薬箱へ戻していると、楊文は途切れた話の先を探すように続ける。

「……七日ごとに、何かやるんだったな。確か」

「七度でございます。七日ごとに魄(はく)が一つずつ散りますので、そのたびに送ります。……ですが、それは残された者の務めです」

 

 薬箱の蓋が閉じ、その乾いた音をあとにして、二人は裏山の墓地へ向かった。

 墓地は斜面にある。

 歴代の墓が古い順に段を成し、字の薄れた墓標も、その次に立つ墓標も、同じ方角を向いて等しい間隔を守っている。山に積もった年月を一段ずつ辿ると、いちばん新しい墓の先に、まだ空いた斜面があった。裾には朝霧が薄く這っている。

 楊文は日当たりと水はけを確かめ、ここだ、と決めた。十五人を帰す場所は、この山に揃っていた。

「役所への届けは」

「必要ない。山のことは、山で始末する。麓へ届けて、何が変わる」

 死人の出た家に、近ごろ役所の車が来る。その話なら沈曉も街道筋で聞いていた。帰りの荷については誰も口にせず、車の来た家から順に、弔いの声が小さくなっていくという。

 二人は山を下りると、そのまま手分けして支度にかかる。納屋では鋸の音が板を渡り、沈曉の押す鉋(かんな)の下から白い木肌が現れるころ、堂では楊文が、一人ずつ骸を夜具に包んでいく。

 麻縄を掛ける前に、楊文はそれぞれの胸元へ品を一つずつ納めた。夜のうちに寮を回り、房ごとに持ち出してきたものらしい。廊下へ並べた順に取り上げる手は、迷わず持ち主の胸へ向かい、読みかけの頁も、繕いの途中で残った糸も、終わらなかった暮らしの形のまま白い夜具へ包まれていく。

「……全部、分かっちまうんだよな」

 手を動かしたまま、楊文が呟く。

「十年も一緒に暮らしてりゃ、箸の癖まで分かる。分かることが、こんなに――」

 沈曉の押さえる麻縄が引かれ、言葉の途切れたところで、結び目だけが固く締まる。

 

 牌が十五枚になる頃、楊文は墨と筆を持ってきた。

 師匠の名を書く最初の一枚には、長く筆が浮いている。穂先が触れてからは一息で、二枚目からも、入門の古い順に名が置かれていく。太く、力の籠もった字である。整わぬ画にも省いたところはなく、乾かすために並べる順まで、かつての弟子たちの並びを守っている。

 最後の一枚を前にして、筆が止まった。

「……こいつは、まだ号をもらってないんだ」

 竹箒を持っていた、いちばん若い弟子の牌である。

「この春にもらうはずだった。師匠が、もう考えてあると言ってた。俺は聞いてない。誰も聞いてない。……師匠のなかにだけ、あるんだ」

 楊文は幼名を書き、その横へ小さく、白澗観弟子、と添えた。授けられるはずの号に代わって、細い字が板の白を埋めていく。隣では沈曉が鉋を扱い、木の縁を整えていた。

 書き上がった牌を壁際に立てかけると、楊文は列の前に立ち、端から一本ずつ指を差してゆく。幾つ目かで止まった指は、しばらくその一本に向いたまま、やがて静かに下りた。楊文は堂へ戻る。


 昼を回った頃、楊文が客間の前で立ち止まった。

 斎堂の並びのいちばん奥にある、来客のための一間だった。開いた戸の向こうには、隅へきちんと畳まれた夜具があり、洗った茶器が盆の上に伏せてある。十幾人の暮らしが途中で絶えたこの山で、ここだけは、帰り支度を終えた部屋の顔をしていた。

「……そういえば」

 楊文の目は畳まれた夜具に留まる。

「客が来るって話があった。俺が下りる前の日だ。師匠が言ってた。都から客人が見えるから、粗相のないようにと」

「会いましたか」

「いや。着いたのは俺が発った後のはずだ。名前も、顔も知らん。何の用かも聞いてない。ただ――丁重にもてなせと。師匠がああいう言い方をするのは、身分のある筋の客だ」

 沈曉の目が盆の上へ移る。

「いつ発つ、という話は」

「聞いてない」

「供の人数は」

「知らん。……なんでそんなことまで」

「歳の頃は。若いのか、年寄りなのか」

「だから、会ってないんだって」

 振り向いた楊文の顔を見て、沈曉はようやく口をつぐんだ。問いを重ねる声の硬さには、自分でも途中から気づいていた。ひと呼吸おき、いつもの調子へ戻す。

「……失礼しました。手がかりが、それしかないもので」

「いや。……いいんだ。俺も同じことを考えてる」

 楊文は夜具の前へしゃがんだ。

「昨日から数えてたんだ。堂に並んでるのは十五、全部俺の知った顔だった。よその者は一人もいない。客人が来てたんなら、その客人は、どこだ」

 巻き込まれて逃げたか、攫われたか。それとも。

 畳まれた夜具と伏せた茶器のあいだに、沈曉は見知らぬ客の居場所を思い描いた。名も顔も分からぬまま、その几帳面な手つきだけが部屋に残っている。

「……茶ぁ出したのは、あいつかもしれん」

 楊文も茶器を見ている。

「決まりなんだ。客の世話は、いちばん下の者がやる。俺もさんざんやらされた」

 茶器は伏せられたまま、二人の前にある。楊文はやがて立ち上がり、

「丹房が焼けてる」

 と、戸の外へ目を向けた。

「うちの山で火事なんて、俺が入門してからは一度もない。うちの丹房は膏薬を練るだけだ。炉なんぞ、ねえ。……あれも、あの晩か」

「……焼け跡を、今朝見ました。周りに燃え移っていません。中から、丁寧に焼かれています」

「丁寧に、って」

「消したいものが、中にあったのでしょう」

 土の下に重なっていた跡と、弧の端の一画が、沈曉の脳裏に浮かんだ。それを伏せているあいだ、楊文は長く焼け跡の方角を見ていた。

「その客人が、やったのか」

「決めるには、早い」

「早いか」

「早いです。ただ――」

 沈曉は茶器から目を離す。

「探す価値は、あります」

 頷く楊文の顔が、朝よりも一つ歳を取って見える。


 日が西へ傾く頃には、支度もあらかた終わった。包まれた骸が堂に並び、壁際では名を記した牌が墨の乾くのを待っている。夕餉の粥を、今日は二人とも半分ほど食べた。椀に向かう沈黙も、昨日よりいくらか軽くなっていた。

 椀を置いた楊文は、その足で納屋へ行き、鋤を担いで戻ってくる。

「明日からじゃ、ないんですか」

「穴だけでも、掘っておく。……夜は、どうせ眠れん」

 沈曉は灯りを提げ、裏山の入り口まで先に立つ。

 一つ目の穴は、思いのほか深かった。浅い墓を獣が掘り返すことを、山で育った楊文はよく知っている。わざわざ拵えた棒を当て、深さを測りながら鋤を入れる。十五人の眠る深さを、どれも等しく揃えるつもりらしかった。

 沈曉は少し離れた石の上に灯りを据えて湯を沸かし、椀を楊文の手が届くところへ置く。そのとき、鋤の音が一度だけ乱れた。

 椀の湯気が夜気へ薄れていく。その向こうで鋤は土を穿ち、ときおり音を乱す。沈曉が顔を上げるたび、楊文は同じ姿勢へ戻り、山の稜線だけが藍を深くしてゆく。

 

 欠け始めの月が稜線を離れると、灯りの落とす影にもう一つが添い、掘る男の足もとで、ともに動く。掘り上げられた土にはまだ昼の温もりが残り、ひと鋤ごとにほのかな湯気が立つ。

 沈曉は湯気の白さを目で追い、ほどけた先から返ってくる新しい土へ視線を戻す。

 山の夜は、鋤の音とともに更けてゆく。

 夜のうちに、穴は九つ掘られていた。

 朝靄の這う斜面には、掘り返された土の匂いが濃い。楊文はもう鋤を握っていて、掌に巻いた晒しにも土が染みている。刃が入るたび、湿った音が靄の中に響く。古い墓標の段は、まだ霧の底にある。

 沈曉は、その霧を背にして隣へ立つ。

「掘るのを、手伝わせてもらえませんか」

「……悪い」

 鋤の刃が、もう一度土へ入る。

「これは、俺の仕事だ」

 沈曉は畚(ふご)を取り、掘り出された土を脇へ運んだ。埋め戻す時に手が届くよう、穴ごとに分けて積み、山になったところを均していく。その横で楊文は次の穴へ向かい、沈曉も畚を提げて後を追った。

 

 日が昇りきる頃、斜面には十五の穴が口を開けていた。深さは、どれも同じである。

 霧の晴れた土の上に、椎の若葉の影が揺れている。二人は穴の列を前にひと息つき、どちらからともなく、堂の方へ歩き出した。

 埋葬は、師匠から始める。

 楊文は夜具に包んだ骸を背負って斜面を上がり、麻縄を使い、一人で穴の底へ下ろした。縄を解いて包みの形を整えると、縁に膝をつき、その名を呼んだ。

「聴瀾(ティンラン)師匠」

 呼んだ声が収まってからも、楊文は膝をついたままでいる。

「……小竹の号、持っていっちまうんですね」

 立ち上がって鋤を取ると、土が少しずつ夜具の白を隠していった。沈曉は積んでおいた土を運び、最後のひと鋤が入るのを待って牌を差し出した。受け取った楊文が、墓の頭へ深く挿す。

 一人が、終わった。

 二人目からは入門の順に、名を呼び、ときおり言葉を添え、土を被せて牌を挿してゆく。

「周敬師兄」

 墨染みの指をした兄弟子の番になると、楊文の声に初めて、笑いに似た響きが混じる。

「あんたに叱られたがってた奴が、こんなにいたんだ。……知ってたか」

 胸元には写経の手本が一枚、夜具とともに納められている。夜のうち、楊文が文机から選んだものだ。土が被さってゆくあいだ、その目は胸のあたりを離れない。

 日は高くなり、やがて西へ傾いてゆく。

 読みかけの書を持つ者、碁敵だった二人、朝いちばんに怒鳴る係の兄弟子。名を呼ぶ声に添えられた日々の話を、沈曉は土を運びながら聞いた。生前には会ったことのない十五人が、今は書を開き、碁盤を挟み、朝の寮に声を響かせる姿で思い浮かぶ。

 ひとつ名が呼ばれ、ひとつ牌が立つ。その声を聞くたび、十年呼ばれずにきた自分の名が、懐の銭よりも深いところで重みを増した。

 風に運ばれた椎の葉が、開いた穴の底へ舞い込んだ。楊文はひとつずつ拾い上げてから、また土を入れる。

 泣くのだろう、と沈曉は思っていた。

 楊文は泣かなかった。昼過ぎから嗄れた声は、夕方には低く割れながらも、一人ずつ名を呼び続ける。掌の晒しを二度替え、二度目には下の豆がほとんど潰れ、その手が晒しを巻き終えるより早く、楊文の体は次の包みへ向いていた。

 最後の一人が、小竹である。

 いちばん小さな包みを、いちばん時間をかけて下ろす。縄を解いて形を整えた拍子に、胸の上の落ち葉が幾枚か、夜具の白へ散った。楊文はそれを指で集めて元へ戻し、穴の縁に膝をついた。

「小竹」

 続く言葉を待つあいだが、その日でいちばん長い。

「……箒はもう、俺が代わる」

 声は割れたまま、揺れない。楊文は土を被せ、幼名を書いた牌を挿すと、名の横の小さな書き添えを、指の背でひと撫でした。

 立ち上がった時、どこかで鳥が一声鳴いた。

 この山へ入って、三日ぶりに聞く、生きたものの声である。


 夕暮れの墓地に十五の牌が並んだ。

 楊文が手を合わせ、頭を下げて斜面を下りていく。沈曉は最後にもう一度、列を振り返った。新しい木肌は夕日を受けて同じ色に染まり、号のない一本だけが、端で少し小さかった。

 山門まで来ると、楊文は足を止める。

 三日前の形で敷石に倒れている竹箒を拾うと、大人の背丈には柄が少し短かった。竹の色が変わるほど使い込まれた握りも、楊文の手より低いところにある。彼は持ち直し、門前の石畳を掃き始めた。

 朝夕二度の決まりの、夕の分だった。箒の先が石を擦り、重なった葉をほどき、端へ寄せていく。教えたのは俺だ、と言った通り、箒目は一筋ずつ揃っていた。小竹が覚えきる前に残していった門を、今はその手が掃いている。

 椎は春に古い葉を落とす。掃き清めた先へまた一枚降り、楊文は歩みを合わせるようにそれを寄せる。明日には人の通らなくなる石畳が、門の端から端まで、夕日の中へ現れてゆく。

 沈曉は堂の前で火を熾しながら、その音を聞いていた。夕暮れの境内に箒の音が続くと、どこの山の弟子も、似たような影で思い浮かぶ。細い火が薪へ移り、育ってゆくあいだ、背後の足音も少しずつ門の方へ遠ざかった。

 掃き終えた楊文は、門の脇の、もとから決められていたらしい場所へ箒をまっすぐ立てかけ、それから火の向かいに来て腰を下ろす。

 粥を炊き、干し肉を炙る。今日は二人とも椀を空にし、あれだけ土を運んだ体が、湯気も肉の脂も余さず受け入れた。楊文は器を置いて火へ薪を足すと、長くその燃えるところを見つめる。

「……俺がいたら、どうにかなったのかって、今日一日ずっと考えてた」

 楊文の声は、火の方を向いたまま沈曉へ届く。

「考えても始まらんことくらい、分かってるんだけどな」

 沈曉は黙っている。薪がひとつ爆ぜ、上がった火の粉が二人のあいだで消えた。

「仇は、討つ」

 静かな声である。

「誰がやったのか。何のためか。なんで、うちだったのか。全部調べて、見つけて、討つ。江湖の仇は、江湖で取る。それが掟だ」

 火の向こうで楊文の頬が赤く照らされ、その熱は沈曉の頬にも届く。いつもなら背を向けて座る火を、今夜は正面に置き、薪の崩れるところまで見ている。

「それから――門派は、建て直す」

 楊文の目が裏山の方角へ動く。

「いつになるかは分からん。だが必ずだ。師匠の白澗観を、このまま終わらせない。……十五の墓の前で、もう言っちまったからな」

 言い終えた楊文は火へ目を戻した。山を渡る風に炎が傾き、また起き上がる。

「……私も、その者を知りたい」

 沈曉の声に、楊文は短く応じる。

「そうか」

 それから、少しだけ調子を上げる。

「なら、しばらく道連れだな。言っとくが、俺は鼾がでかいぞ」

「存じています。三晩、隣で聞きました」

「……先に言えよ、そういうことは」

 火が細ると薪を足し、燃え上がった枝がまた細るまで、二人はそこに座っていた。焼けた丹房も、伏せた茶器も、裏山の十五の牌も、夜の深まるにつれて闇に馴染んでいく。夜が明ければ、この山を下りる。

 

 夜半、山の上に月が出た。

 裏山の斜面が淡い光に浮かび上がる。ここから見えない新しい牌の列にも、同じ月が当たっているはずだった。

 二つの影が、朝までそこにあった。

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