第110話 ホワイトデー前夜と、男子二人の台所革命

 バレンタインから1ヶ月近くが過ぎ、校庭の桜の蕾がかすかに膨らみ始めた3月上旬。部活終わりの放課後、俺と駿は誰もいなくなった教室の机に並んで腰掛け、頭を抱えていた。


「……なあ蓮。お前、ホワイトデーのお返しってどうする?」


 駿が疲れたように前髪をかき上げ、深いため息をついた。


「どうするもこうするも、普通にクッキーかキャンディを買って返すくらいしか考えてなかったけどな」


「だよな? 俺も最初はそう思ってたんだよ。でもさ……もらったやつ、半分以上が手作りだったじゃん? 適当に既製品をポンと返すの、なんか申し訳ない気がしてきてさ」


「まあ、気持ちがこもってたのは確かだけど……じゃあどうすんだよ。量も量だしな」


 俺が肩をすくめると、駿はしばらく腕を組んでうーんと唸っていたが、ポンと手を叩いて顔を上げた。


「そうだ! もらったやつが手作りなら、俺たちも作ろうぜ!」


「……え、手作り? 男子二人がか?」


「おう。うちの母さんの料理本に載ってるレシピでも見ながらやれば何とかなるだろ! その方が絶対喜ばれるって!」


「うーん……まあ、それはそれで喜んでもらえるのか……?」


 男手作りの菓子が本当に正解なのか一瞬首をひねったが、駿の無駄にまっすぐな瞳に押し切られる形で、俺たちは我が家——神楽家の台所に立つことになった。



      *



 放課後の買い出しを終え、エプロンを身につけた俺と駿が台所に並ぶと、居間から様子を見に来た女子たちが三者三様の反応を見せていた。


「わぁ、すごい! 蓮ちゃんと清水くんの手作り!? 楽しみ〜!」


 美咲はパッと表情を輝かせ、能天気に手をたたいて喜んでいる。


「……蓮お兄ちゃん、包丁とかオーブンとか大丈夫……? 怪我しないでね……?」


 対照的に、葉月はどこかハラハラとした様子で、心配そうにこちらを見守っていた。


 そんな二人の後ろから、ため息交じりの凛が、手を腰にあてて呆れたようにつぶやく。


「この二人、どっかズレてんだよね……男子の手作りって重くない? それにしても、見た目だけは無駄に良いから、なんか絵になってるのが腹立つ……」


「聞こえてるぞ、凛」


 妹の辛辣な視線を背中に受けつつも、俺と駿は真剣そのものだった。


 秤で小麦粉やバターの分量をきっちり取り、ボウルの中で泡立て器を滑らせる。駿は持ち前の手先の器用さを発揮し、俺も俺で持ち前の几帳面さが出て、思いのほか作業はスムーズに進んでいった。


 型抜きで綺麗な丸やハート型を象り、天板に整然と並べてオーブンへ放り込む。タイマーを十五分にセットしてスイッチを入れると、庫内が橙色の明かりで照らし出された。



      *



 熱気が広がる台所で汗を拭い、ガラス越しに少しずつ膨らんでいく生地を覗き込みながら、俺と駿は明日渡すときの手順や味の仕上がりについて軽く言葉を交わした。


 やがて、甘く香ばしい小麦とバターの香りが台所いっぱいに広がり始めた。タイマーの電子音がピピッと鳴り響き、オーブンの扉を開けると、そこには狐色に焼き上がった完璧なクッキーが並んでいた。


「……お」


「……すげぇ、完璧じゃん!」


 熱々の天板を見つめ、俺と駿は顔を見合わせると、思わず勢いよくガッツポーズを交わしていた。


 出来立ての芳しい匂いに誘われるように、居間からぞろぞろと三人が台所へ吸い寄せられてくる。


「きゃーっ! すごーい、美味しそう! ねえ、蓮ちゃん一つ味見させて!」


「私にもちょうだい。毒味してあげるから」


 美咲と凛が当然のような顔で素早く手を伸ばしてきた。


「おい待て待て! 焼きたてでまだ熱いし、これは明日渡すやつなんだから勝手につまむな!」


 俺が速攻で二人の手を叩いて制すと、横から小さな影が猛然と割り込んできた。


「ダメだよ!! 蓮お兄ちゃんの手作りクッキーを最初にもらうのは、私なんだから!!」


 葉月が両手を広げて美咲たちをとおせんぼし、頬をぷっくりと膨らませてプンスコと抗議している。


「えーっ、葉月ちゃんずるい! お姉ちゃん特権で私だよ!」


「お姉ちゃんでもダメ! 明日のホワイトデーまで全員お預け!」


「……あはは、分かった分かった。冗談だって。葉月ちゃんは相変わらずだなあ」


 必死に両手を広げて威嚇する葉月を、凛はおかしそうに目を細めて見つめると、小さな生き物の頭をなでるような優しい手つきで、葉月の頭をぽんぽんと撫でた。


 譲らない葉月と、駄々をこねる美咲、そして微笑ましく首を横に振る凛。


 わちゃわちゃと賑やかに揉め始める彼女たちの姿を、俺と駿は冷まし中のクッキー越しに苦笑いを浮かべて見守った。


 窓の外には春を待つ夜の静寂が広がっていたが、甘い香ばしさに包まれた神楽家の台所には、どこまでも温かく、賑やかな微笑ましさが満ちていた。

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