第14話 ふたりで紡ぐ、穏やかな夜の読書
城の分厚い外壁を伝う雨粒はまるで小さな嵐のようで、静寂に包まれたレオンハルトの私室にまで、低く重たい響きとなって伝わってくる。
暖炉の中では、乾燥した薪がパチパチと心地よい音を立てて燃え盛っていた。赤く揺らめく炎は、広大な部屋の隅々まで温かな橙色の光を投げかけ、冷え込む夜の気配を優しく追い払っている。
私はソファの端にちょこんと腰掛けながら、手元の古い革張りの本からそっと目を上げ、すぐ隣に座るレオンハルトを見つめた。
「……どうかしたか、セシリア」
わずかな気配を感じ取ったのだろう。彼はページから視線を外さぬまま、低く落ち着いた声でそう尋ねてきた。その横顔の美しいことといったら、何度見慣れても胸が締め付けられるほどだ。
呪いが解けた彼の姿は、漆黒の髪と夜空を映したような深い琥珀色の瞳を持つ、息をのむほどの絶世の美男子だった。かつて冷酷な異形の竜王として恐れられていた面影は微塵もなく、今はただ、気品と圧倒的な包容力をまとった一人の男性として、私の隣に静かに存在している。
「いいえ、ただ……雨の音がすごいなと思って」
「そうだな。だが、ここには入れやしないさ」
レオンハルトは小さく笑うと、ふっと視線を私に向けた。その琥珀色の瞳が暖炉の光を柔らかく反射し、底知れない優しさをたたえていることに気づいて、私は慌てて手元の本へと目を戻した。
――また、心臓が変な跳ね方をしている。
出会った頃の彼はいつも棘を逆立てていて、自分の強大な力や呪われた運命を呪うように孤独だった。けれど、こうして城で共に過ごす日々を重ねるうち、彼は私に対して少しずつ、けれど確実に心を許してくれるようになっていた。
今夜は、執務を早めに切り上げたレオンハルトが、「少し話をしないか、いや、静かに本でも読むか」と、気恥ずかしそうに私をこの書斎へ誘ってくれたのだ。外の嵐を避けるようにして、ふたりで並んでソファに腰掛け、こうして穏やかな夜の時間を共有している。
ソファの距離は近い。彼の肩や腕が動くたびに、上質な布の擦れ合う微かな音が聞こえ、彼特木の香りと、どこか懐かしいスパイスの混じった心地よい香りが鼻腔をくすぐる。
意識しないようにしようと思えば思うほど、彼の体温や存在感が肌を伝わって感じられてしまい、文字を目で追うだけの頭にはなかなか内容が入ってこなかった。
「……そこ、さっきから同じページを開いたままだぞ」
くぐもった、からかうような声が降ってきた。
顔を上げると、レオンハルトが片手を頬に添え、面白そうに私を見つめていた。その整った唇には、普段の厳格な統治者としての顔からは想像もつかないような、柔らかく親密な笑みが浮かんでいる。
「うっ……その、文字が少し難しくて」
「植物学の基礎についての記述だったはずだが。君の癒やしの魔力についての資料にも目を通している君にとって、いまさら難解な内容とは思えないな」
「う……」
言い訳もできずに小さくうなだれる私を見て、レオンハルトはくつくつと低い笑い声を漏らした。その声が胸の奥をくすぐるようで、私は恥ずかしさをごまかすように、膝の上で本をぎゅっと握りしめた。
「からかってすまない。だが、そんなに緊張することはないだろう」
「緊張なんて、していませんっ」
「しているさ。耳の先まで真っ赤だぞ」
言われて慌てて両手で耳たぶを覆うと、レオンハルトはさらに楽しげな声を響かせた。
以前の彼なら、こんな風に冗談を言う余裕すらなかったはずだ。常に周囲を警戒し、誰にも心を開かずに生きてきた人だからこそ、こうして私に向けてくれる穏やかな表情や、何気ない戯れが、どれほど貴重なものであるかを私は知っている。
竜王として恐れられた過去の孤独を思うと、今、私の隣でこうして肩を並べて笑ってくれていることが、奇跡のように思えてならなかった。
「レオンハルト様は、子供の頃からよくこういう本を読まれていたんですか?」
少しでもこの甘い緊張を和らげようと、私は手元の本の内容にちなんだ質問を投げかけた。
彼は少しだけ視線を天井に向け、記憶を辿るように目を細めた。
「いや……子供の頃は、こうした穏やかな学術書よりも、歴代の竜王たちの戦記や、魔法陣の構築に関する古文書ばかり読まれていたな。自由などほとんどなかった。すべては、この呪われた血と領地を守るためだけに義務付けられた知識だ」
その声には、過去の苦難に対する恨みや嘆きは含まれていなかった。ただ、事実を淡々と語る響きがあったからこそ、かえって私の胸を締め付けた。
誰も彼を護ってくれなかった。誰も彼の痛みに寄り添わず、冷たい王城の中で、彼はたった一人で呪いと戦い続けてきたのだ。
「……でも、今は違いますよね」
無意識のうちに、私の声は震えていた。
レオンハルトは驚いたように目を瞬かせ、それからじっと私を見つめた。
「ああ。いまは……こうして、君がいる」
彼はゆっくりと右手を伸ばし、私の膝の上に置かれた本の上に、そっと自分の手を重ねてきた。
ひんやりとした夜の空気の中にあって、彼の掌は驚くほど温かかった。その大きな手は、かつて私が何気なく触れて呪いを解いたときと同じ、力強く、そしてどこか切なさを帯びた温度をまとっている。
「君がこの城に来てから、世界の色彩が変わったように感じる。ただの退屈な夜だったものが、君とこうして静かに過ごすだけで、かけがえのない時間に変貌するんだ。……不思議だな、昔の自分に教えてやりたいくらいだ」
「レオンハルト様……」
「セシリア。私はね、君をここに連れてきたことを、一度たりとも後悔したことはない。むしろ、もっと早く君に出会っていればよかったと、そればかりを考えてしまう」
真摯な琥珀色の瞳が、まっすぐに私を捉えて離さない。
彼の言葉の端々からあふれ出る深い愛情と、それを不器用ながらも伝えようとしてくれる姿勢に、胸がいっぱいになって言葉が出てこなかった。
あのとき、婚約破棄を告げられ、泥をかぶるようにして追い出された舞踏会の夜。あの絶望の淵に沈んでいた私が、まさかこんなにも温かな場所で、世界で一番優しい人の隣に座っているなんて、当時の誰が想像できたきだろう。
「私もです」
震える声を絞り出すようにして、私は彼の大きな手に自分の手をそっと重ね返した。
「私も、レオンハルト様と出会えて本当によかった。最初は驚きましたけど、この城で過ごす毎日は、私にとって何よりも大切で、温かい時間です」
私の小さな手が彼の大きな手にすっぽりと包み込まれる。
窓の外では相変わらず雨が激しく叩きつけているけれど、この部屋の中だけは、世界で一番安全で、守られた空間のように感じられた。
レオンハルトは愛おしげに目を細めると、私の手を優しく握り返し、そしてゆっくりと身を乗り出してきた。
暖炉の火の粉がパチリと音を立てる。
彼の顔が近づいてくるにつれ、鼓動の音が自分でも聞こえるほど大きくなった。逃げ出すわけでもなく、ただ息を止め、彼の瞳に映る自分を見つめる。
彼の唇が、私の額にそっと触れた。
それは雷に打たれたような衝撃ではなく、春の日のそよ風のように優しく、けれど永遠を誓うかのように深い口づけだった。
「……ずっと、こうしていられたらいいのにね」
レオンハルトは名残惜しそうに唇を離すと、私を包み込むようにして再びソファの背もたれに体を預けた。彼の腕が自然と私の肩に回り、私はその温もりに導かれるように、彼の胸元へそっと頭を預けた。
聞こえてくるのは、規則正しく刻まれる彼の心音だ。
どくん、と力強く、確かな命の音がする。この心音がいつまでも止まらないように、彼がこれからも穏やかな日々を過ごせるように、私は心の中で静かに祈った。
嵐の夜の静けさの中、二人は再び本を開くことはなく、ただ互いの体温を確かめ合うようにして、穏やかな時間の流れに身を任せていた。
この平穏が永遠に続けばいい。
そう願わずにはいられないほど、彼の腕の中は心地よく、優しさに満ちあふれていた。
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