第9話 明かされた竜王の過去と呪いの秘密
ここは、竜王の居城である黒曜宮の一室。レオンハルトの執務室にあてがわれたその部屋は、かつて孤独だった王の佇まいをそのまま形にしたかのように、どこか冷たく、そして圧倒的な静寂に満ちていた。
「お茶が冷めてしまうわよ、レオン」
小さめのカップをソーサーに置く乾いた音が、広い室内に静かに響く。
セシリアが声をかけると、窓辺の月明かりを背にして立っていた長身の影が、わずかに揺らめいた。
「……すまない。少し、過去の回廊に囚われていたようだ」
振り返ったレオンハルトの顔には、ふっと自嘲の色が浮かぶ。
琥珀色の瞳はどこか遠くを見つめており、その端正すぎる容貌に似合わない痛切な影を落としていた。
先日までの異形の姿――黒き鱗と禍々しい角に覆われていた彼からは想像もつかないほど、今の彼は人間離れした美しさを誇っている。だが、セシリアには分かっていた。姿形がどれほど変わろうとも、その胸の奥底にある傷は、まだ癒えきっていないのだと。
「よければ、話してくれないかしら。あなたが……あの呪いを受けることになった理由を」
セシリアはそっと椅子から立ち上がり、彼の足元へと歩み寄った。
急かすような声音ではない。ただ、凍りついた彼の心を温めるように、優しく、包み込むような響きを含ませる。
レオンハルトは驚いたように目を丸くし、それから観念したように微苦笑を浮かべた。
「君には、隠し立てはできないな」
彼はそう言って、窓際の小さなソファーに腰を下ろす。セシリアも促されるまま、その隣にそっと座った。
「……百年前の話だ。いや、もっと前かもしれないな。人間と竜族の間に結ばれた盟約は、いつしか互いの不信によって綻びを見せ始めていた」
レオンハルトの視線は、虚空のどこかを見つめている。低い、どこか気だるげでありながらも芯のある声が、静かな部屋に紡がれていく。
「私は当時の王族の血を引いていた。誰よりも国を愛し、人間と竜族の共存を夢見ていたよ。だが、欲深き者たちにとって、私の存在は邪魔でしかなかったのだろうね」
「そんな……」
「信頼していた側近に毒を盛られ、さらに、もっとも近しい者たちの裏切りの呪詛を浴びせられた。――『お前のその傲慢な美しさと誇りを、醜い怪物へと変えてやろう』とな」
呪いの言葉を口にするレオンハルトの声音は淡々としていたが、セシリアはその言葉の裏にある凄絶な痛みを想像し、息を呑んだ。
信じていた者に裏切られ、信頼を踏みにじられた挙句、自分の身体までをも理不尽に奪われたのだ。どれほどの絶望だったことか。どれほど、孤独と憎しみに苛まれたことだろう。
「醜い竜の姿に成り果てた私を、人々は恐れ、忌み嫌った。城を追われ、誰も近づかない湖の底や深い森の奥で、私はただ一人、時間を殺すように生き続けた。いつしか、心までが凍りついていくのを感じながらね」
レオンハルトは自嘲するように唇を歪め、自分の右手を見つめた。
かつてその手は、鋭い爪を持つ絶望の象徴だった。幾度となく血に染まり、誰かを傷つけることを恐れ、あるいは自らも傷つき続けた手だ。
「誰も信用しない。誰も愛さない。そう誓うことでしか、私は自分を保てなかった。――あの舞踏会で、君に出会うまでは」
ふと、レオンハルトが顔を上げた。
琥珀色の瞳が、まっすぐにセシリアを捉える。その視線の熱さに、セシリアの胸が小さく跳ねた。
「あの日、王太子に捨てられ、冷たく冷え切った目で泣いていた君を見つけたとき、奇妙な親近感を覚えたんだ。『ああ、この少女もまた、私と同じだ』と。世界から見放され、居場所を失った者同士の共感かもしれないな」
「レオン……」
「なのに、君は違った。私がどれほど恐ろしい竜の姿をしていても、君は逃げ出さなかった。それどころか、私の頭に触れ、『痛かったね』と泣いてくれた」
レオンハルトの大きな手が、そっとセシリアの頬に添えられる。
その掌は温かく、心地よい体温が伝わってくる。
「君のその小さな手から流れ込んできたのは、世界で一番温かい光だった。凍りついた私の呪いは瞬く間に溶け落ち、気づけば、失ったはずの人間としての姿が戻っていた。……信じられなかったよ。私の百年の苦悩が、たった一人の少女の優しさによって、まるで雪解けのように消え去ってしまったのだから」
彼の声がわずかに震えている。それは恐怖でも怒りでもなく、あふれ出る感情に戸惑うような、あまりにも純粋な愛おしさの色を帯びていた。
「私はね、セシリア。君に救われたんだ。私の命も、心も、すべて君のものだと言ってもいい」
「そんな、大げさよ……私はただ、あなたが痛そうだったから、放っておけなくて……」
照れくささから、セシリアはそっと視線を落とした。
しかし、レオンハルトは許さないとばかりに、彼女の顎を優しくすくい上げ、自分の方へと向かわせる。
逃げ場のないその瞳に映るのは、世界で自分だけを見つめる彼の姿だった。
「大げさなものか。私は、君という奇跡を二度と手放すつもりはない。王国がどうしようと、あの愚かな王太子がどう後悔しようと、関係ない。私はただ、私のすべてを救ってくれた君の隣にいたい」
切なさを孕んでいた彼の声は、今は確固たる決意に満ちていた。
冷たい過去に縛られていた竜王の心は、今やセシリアという絶対的な光によって満たされている。
「……私もよ、レオン」
セシリアは小さく息を吸い込み、しっかりと彼の琥珀色の瞳を見つめ返した。
「私も、行くあてがなくて途方に暮れていたとき、あなたに拾ってもらった。あのとき、あなたの大きな温もりに救われたのは、私の方だもの」
かつて地味で無力だと蔑まれ、実家からも婚約者からも見捨てられたセシリア。あの舞踏会の夜、すべてを失ったと思っていた。
けれど、違ったのだ。
あの場所から追い出されたからこそ、彼女はこの世界で一番あたたかな居場所を見つけることができた。
「私たちは、お互いを救い合ったのね」
セシリアが微笑むと、レオンハルトの表情が雪解けのように柔らかく緩んだ。
彼の美しさは、どこか儚げな憂いを帯びていた先ほどまでとは違い、今は満ち足りた光を放っている。
レオンハルトは愛おしそうに目を細めると、セシリアを引き寄せて、その額にそっと唇を落とした。
触れるだけの、けれどあまりにも大切にするような、優しい口づけだった。
「愛しているよ、セシリア」
耳元で囁かれたその甘い言葉に、セシリアは顔を真っ赤に染めながらも、彼の背中にそっと腕を回した。
冷たい夜風が城の窓を叩く音など、今の二人には聞こえない。
過去の呪いと孤独はすでに遠い彼方へ消え去り、そこにあるのは、温かな絆で結ばれた二人の穏やかな時間だけだった。
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