第19話
19話
「では、婚姻の中身について、改めてお話ししていきましょうか」
ディートリヒとイングリッドが着座するのを待ち構えていたように、伯爵は笑顔で言う。
「閣下は、子供を作らないとおっしゃった。これは婚姻の前提に関わる話で、本来であれば婚姻の前に共有されるべき情報です」
「ああ」
「もし事前に分かっていれば、イングリッドを嫁がせませんでした。ですが、嫁いでもう一年になろうとしています。イングリッドは世間的には傷物だ。今後まともな縁談は望めないでしょう」
伯爵は澱みなく続ける。ディートリヒの眉が一度だけ動いたが、口を挟むことはなかった。
「ですが、そんなことは問題ではありません。閣下は一度結ばれた契約を後から覆した。今後、我々の間で交わされる契約の信用性が失われました」
ディートリヒは頭を下げた。
「そのことに関しては、申し訳ないとしか言えない。償えるのなら償いたいと思っている」
伯爵は何も答えなかった。
ディートリヒは頭を下げたまま待っていた。
「では、先ほどの話をもう一度お考えください。先ほどはご不快だったようですが」
「その必要はない。イングリッドとの間に子をもうける」
ディートリヒは間髪入れずに返した。
伯爵は目を細める。
「無断で契約の内容を変更しておきながら、露見したら履行すれば問題ないとでも?」
それに関してはイングリッドにも明確に非がある。子供のことを夫婦の問題として矮小化し、報告を遅らせた。
「とは言え、私も事を荒立てる気はありません。親として、娘がこの地で平穏に暮らしてくれるのであれば、それに越したことはありません」
しゃあしゃあと伯爵は言ってのける。
「ただし、婚姻の埋め合わせとして、交易上の譲歩をいただきたい」
「具体的には」
ディートリヒが顔を上げる。
「辺境伯城で必要になる白亜麻と薬草について、ローゼンハイム産を優先して買い付けていただきたい」
「必要量に対してどの程度ですか」
イングリッドはこれは自分の仕事だと判断して口を挟んだ。
「全てです」
「期間は」
「五年間」
「長すぎます。二年で七割」
「三年です」
「三年なら量は半分。これ以上は無理です。既存の取引先がすべてなくなります」
「飲みましょう。代わりに砦と施療院への薬草の納入も優先権をもらいます」
「それではそちらの納入量は変わりません。二年で」
イングリッドは引く気はなかった。辺境伯夫人が実家に利益誘導したように見える。
イングリッドの内心を読んでか、伯爵は苦笑いを返す。
「このように強引なことをなされば、逆に反発され、長期的にはマイナスになり得ます。私は品質の良さを伝えられるようすでに手はうっておりました」
「お言葉ですが奥方、すでに出来上がった取引先に割って入るほど商いは簡単ではございません」
伯爵は薄い笑みを浮かべたまま、表情ひとつ変えずに言う。
「それは承知しております。だからこそ無理に押し込むと反発を招きます。一度持たれた悪感情を覆すのは容易ではありません」
「ですから時間を買うのですよ。数年も取引が続けばそれが当たり前になる」
これ以上続けても意味はない。平行線をたどるに違いなかった。
イングリッドはため息をつきそうになって堪える。
「そちらが飲めなければリリアーナを連れてくるだけです。私はどちらでも構いませんよ」
伯爵は一瞬だけディートリヒに視線を向けた。
「リリアーナが?」
イングリッドは伯爵を見る。そもそも最初に泣いて嫌がったのはリリアーナの方だ。
伯爵は少しだけ肩をすくめた。
「ああ。本人も承知の上でこの話をしている」
イングリッドは言葉に詰まった。
伯爵は取引の場で嘘はつかない。もちろん真実を全て話す事もないが。少なくともリリアーナが承知しているというのは事実だろう。
「それに、ローゼンハイムに戻るのはお前にとっても悪い話じゃないはずだ。家の者も頼りにしているし、勝手もわかっているだろう」
イングリッドが何も言えないでいると、黙っていたディートリヒが口を開いた。
「今日はここまでにしよう。明日の予定がある」
明日は城下町の市場や近隣の施設を案内する予定になっていた。
「では、また明日」
伯爵は立ち上がって軽く頭を下げた。
こんな日でも共同寝室に行けばディートリヒがいた。
いつものように机を挟んで向こう側に座っている。
少しだけ悩んでからイングリッドも向かい合って座った。
いつもなら何か書類を読んでいたり、飲み物を飲んだりしているのに今日は何もせずにただ座っている。
イングリッドもなにもする気が起きず、今日は何も持って来ていなかった。
先ほどのことを思い出す。
ディートリヒが、リリアーナと交換する案を持ちかけられて、必要ないと言った。子をもうけるとも言った。思い出すと胸がざわついた。
特別な意味はないのだろう。イングリッドはすでに一年近く女主人として務めてきている。既にかなりの来客を迎えて顔を合わせているし、使用人たちもイングリッドに慣れてきている。今更変更されれば一時的とは言え混乱するだろう。
泣いて嫌がったリリアーナを迎えることだって抵抗があるに違いない。
子ができなかったから一年も経たずに妹に替えたと言われる風評被害もあるだろう。
特別な理由など一つも必要ない。イングリッドでいいと判断する理由があまりにも多すぎる。
ただし、それはあくまであの段階のことだ。
イングリッドは拳を握りしめた。
父親が出してきた条件を考える。ローゼンハイム伯爵がこういう形で出してきたのでなければ、ディートリヒは絶対に飲まない条件だろう。
イングリッドを残す不利益の方が上だと判断されてもおかしくない。むしろそう判断する方が合理的だ。
問題はない。
元々望まれて嫁いだわけではない。
ディートリヒがどういう判断を下したとしてもーー。
「すまなかった」
突然、ディートリヒが口を開いた。
「……何がでしょうか」
「お前の意思を聞かずに、勝手に事を進めてしまって」
自分の意思が必要だった場面がイングリッドには思い当たらなかった。
「それは……構いませんが」
ディートリヒはイングリッドの目をじっと見た。
「俺は最初に、お前が妹の身代わりで来たのなら、妻としての役割や情を求めるのは酷だろうと思った。お前に聞く前に決めた」
澱みなく話してから、ディートリヒは一拍置いた。
「だから今度はお前の好きにして欲しい」
好きにして欲しい。
イングリッドは答えられなかった。
ディートリヒが答えを出すのだと、ずっと思っていた。
「私はーー」
アイゼンヘルトとディートリヒにとって最も利益が大きく損害が少ない方が良い。
イングリッドが残留する場合と伯爵の要求を飲んだ場合の利益と損害はどちらが大きいのか、並べようとして止まる。
ディートリヒはそういうことを言っているのではない。それは分かる。
だがイングリッドはそれ以外が出てこなかった。
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