第16話
「来週、一週間ほど城を留守にする。砦を見てくる」
冬の近づいたある日、ディートリヒが言った。
「わかりました。何かこちらで用意することはありますか」
「特にない。正確な日取りがわかればまた伝える」
「承知しました」
ディートリヒはそのまま飲み物を口にした。それ以上説明する気はないようだった。
「砦で何か動きがあったのですか」
「いや違う。ただの視察だ」
「それならようございました」
フレデリカがいなくなり、しばらく慌しかった城内もようやく落ち着きを見せている。今の所当主が必要な来客対応もない。
ディートリヒが不在でも奥向きに問題はない。何も懸念はなかった。
視察に行く前日、ディートリヒが男を伴って現れた。
「副官のクラウゼだ。俺がいない間何かあればこいつが指揮を取る。何かあればクラウゼに言え」
「クラウゼです。奥方様。よろしくお願いします」
ディートリヒより幾つか上に見える。軍人らしい、体格のよい男だった。
「イングリッドです。こちらこそよろしく」
イングリッドは笑顔で礼を返す。
そのままディートリヒは手勢を連れて出立した。
砦の視察は特別なことではない。ディートリヒには慣れた勤めの一つだと聞いた。
ディートリヒが一日二日城を空けること自体も、初めてではない。
イングリッドはいつも通りに1日を過ごした。
家政関係の報告を受け、事務仕事をし、使用人から上がった問題を見に行き判断した。
終われば食事を取り、風呂に入って寝室で時間を過ごす。もちろん今日はディートリヒは来ない。
寝台に入り目を閉じる。
いつもと同じ城が、やけに広く感じられた。
翌日、侍女から報告を受けた後、クラウゼがやってきた。
「昨日のご報告に参りました。こちらは問題ありませんでした」
「わざわざありがとう。こちらも問題はありません」
「何かご不便はございませんか」
「ないわ。何かあれば報告します」
「承知しました」
クラウゼの用はそれだけだったようで、そのまま退室した。律儀な方だとイングリッドは思った。
翌日もクラウゼは来た。
前日と同じく問題のないことの報告と、不便はないかの確認だった。
「クラウゼ殿もお忙しいでしょうから、何かあればこちらから連絡いたします」
イングリッドが言うと、クラウゼは困ったように頭をかいた。
「いえ、閣下から申しつけられておりまして。奥方様が何かお困りでないか確認しろと」
「閣下が」
意外だった。
そんな風に気を回しているようには見えなかった。
「というわけですので、奥方様も私のむさ苦しい顔など毎朝見たくもないでしょうが、何かあればおっしゃってください。閣下の愚痴でも結構です」
イングリッドは思わず吹き出しそうになった。ハルトマンや城の警備兵たちがそんなにディートリヒを気安く扱うのを見たことがなかった。
「クラウゼ殿は閣下とは以前からのお知り合いなのですか?」
「はい。軍にいた頃からです。閣下が辺境伯になるなどと、誰も考えていなかった頃ですよ」
以前フェリクスも砦の軍人だった頃の話をしていた。当主になる前、若い頃の話だと。
「お聞きになりたいことがあればどうぞ。私にわかることならお答えしますよ」
クラウゼは少し面白そうに言った。
ディートリヒについて聞きたいこと。
一番に浮かんだのは、なぜディートリヒは子を持ちたくないのか、だった。聞けるわけがない。イングリッドはすぐに頭から打ち消した。
「閣下は、軍ではどういう方でしたの?」
「まあ態度がでかいというか太々しいというか、やたら肝の据わった子供でしたね」
「子供……」
「まだ十六でしたから。ただ妙に素直というか、言われたことは何でもやるみたいな可愛げのあるところはありましたね」
「まあ」
「最初は甘ったれた坊ちゃんの性根を叩き直してやろうと思っていたんですが、肩透かしを食らった気分でした」
イングリッドはクスクスと笑う。
「あれから色々ありましたから、今はすっかり恐れられていますけどね」
色々あったというその中身が気になったが、長く引き止める訳にはいかない。
イングリッドは礼を言ってクラウゼを返した。
翌日、イングリッドはクラウゼに聞いてみた。
「昨日、閣下が色々あったとおっしゃっていましたね」
「ええ。特に当主になってすぐは」
「以前、閣下から侵入者が寝室まで立ち入ったと伺ったことがありました」
クラウゼが苦い表情になる。
「そうですね。あの頃は城の中も落ち着いていなかったですし、処刑が続いて恨みを買ってることはわかっていたのに、侵入を防げませんでした」
ディートリヒの当主就任以降、立て続けに処刑が行われたという話をイングリッドは思い出した。
「そんな状態でも、処刑が必要だったのですね」
「先代の継承争いの尻拭いを押し付けられたんですよ。閣下はなすべきことをなされただけです」
「……閣下の叔母上もその中に入っていると聞きました」
クラウゼの表情がより昏くなる。
「そうですね。……閣下とは親しかったようです。周りにお心を打ち明けるような方ではありませんから、内心は分かりかねますが」
イングリッドは何も言えなかった。
クラウゼには丁重に礼を言い、仕事に戻る。
イングリッドには事情を推し量ることさえできなかった。
ただ、叔母のこともディートリヒのなすべきことのうちの一つだったのだろうと思った。
「予定通りであればそろそろ向こうを発つ頃ですね」
帰着日の朝、やってきたクラウゼが言う。どことなく楽しそうに見える。
「ええ。今更ですけど、砦の視察とは具体的に何をされるのですか」
「平たく言うと、報告書の状況と同じかどうか確認します。兵の数とか備蓄とか、直接兵士から話を聞いたりもします」
「数日のご滞在ですから、様々なところを見て回るのでしょうね」
「砦の中だけじゃなく、現地も見ると思いますよ。特に今回は小競り合いが増えているのもありますし」
「戦場にも出るのですか」
思わず口に出していた。言った後に、馬鹿なことをしたと自分を恥じた。
兵たちは皆、国境を守るために危険を冒している。彼らを率いる辺境伯がずっと安全な場所にいられるわけがない。辺境伯夫人としてあるまじき発言だった。
「いえ、ただの視察ですし、危険な場所には行かないはずですよ」
クラウゼが慌てたように言う。
「ええ、もちろん承知しております」
イングリッドも平静を装って返したが、クラウゼにそう言わせるほど、自分が取り乱して見えたのだろう。顔色が変わったことに、自分でも気づいていた。
クラウゼはそれ以上は何も言わなかった。
そろそろ帰着時間だった。
イングリッドが何をしても何も変わらないことは分かっていた。
率先して待てば周りにも気を使わせる。
帰ってくれば誰かが呼びにくるのだからいつも通りに待てばいい。
そう思っているのに、物音や人の気配が気になって、イングリッドはなかなか集中して仕事ができなかった。
遠くで馬の嘶きが聞こえた気がした。門番の声が上がる。
イングリッドは立ち上がっていた。玄関ホールに向かう。足がもつれそうだった。
玄関ホールに着くと、ちょうどディートリヒが入ってきたところだった。
出かけた時と同じ姿が妙に懐かしく感じられた。
イングリッドに気づいたディートリヒが眉を上げる。
駆け寄らないようにするのに、思ったよりも力が要った。
「出迎えてくれたのか」
「はい。お帰りなさいませ」
イングリッドは礼をした。
そのまましばらく顔をあげられなかった。
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