三時のグミには

@Taki-Kawamo

三時のグミには

 父が庭に出る回数が増えたのは、コロナで在宅勤務になってからだった。


 朝、昼、夕方。仕事の合間にサンダルをつっかけて出ていき、五分もしないうちに戻ってくる。戻ってくるときには、決まって煙の匂いがついていた。ドアの隙間から入り込むその匂いは、換気扇を回しても、なかなか消えなかった。


「また吸ってる」


 私はリビングのテーブルで、その匂いに気づくたび小さく呟いた。父には聞こえていたと思う。でも、何も言わなかった。父も何も言わなかった。


 同じ家に、同じ時間にいるのに、父と私のあいだには会話らしい会話がなかった。父は二階の自室にこもってパソコンに向かい、私はリビングでオンライン授業の合間にスマホを眺めている。顔を合わせるのは、洗面所や階段ですれ違うときくらいで、それも一言二言、挨拶のようなものを交わすだけで終わった。


 大学に入ってからずっとそうだった気がする。反抗期というほどのものでもなく、ただ、話すきっかけを失ったまま、なんとなく距離だけが定着してしまったような感じだった。


 きっかけは、たいしたことではなかった。


 ずっと家にいる息苦しさから、スウィーツでも買って気晴らしをしようとコンビニに寄ったとき、レジ横に見慣れないグミの袋が並んでいるのが目に入った。パッケージの隅に、小さく「禁煙サポート」と書いてある。手に取るつもりもなかったのに、気づいたらかごに入れていた。父の顔が、ふっと、うかんだからだった。


 家に帰って、試しに一粒噛んでみた。柔らかなソフトな味を好む私には合わなかった。想像以上に堅くて、酸っぱい味のグミだった。舌の奥がぴりっとするくらい強い酸味に顔をしかめながら、なぜかこれなら父に渡してもいいかもしれない、という気持ちが湧いてきた。父は昔から、酸っぱい飴が好きだったのを思い出したからかもしれない。


 私は、別に父に本気で禁煙してほしかったわけではない。何十年も吸ってきた人が、グミひとつでやめられるとも思っていなかった。ただ、何も言えない自分の代わりに、何かを渡せたらと思った。それだけだった。


 午後三時、私はグミの袋を持って二階に上がった。父の部屋のドアの前で、一瞬、手が止まった。用があって部屋を訪ねるのも、こうしてノックをするのも、随分久しぶりだった。


 小さくノックをすると、「はい」と抑揚のない声が返ってきた。ドアを開けても、父はパソコンの画面から目を離さなかった。


 私は机の端に、そっとグミの袋を置いた。


「これ、タバコ吸いたくなったときに食べてみたら?」


 父は画面から顔を上げ、袋を見て、それから私を見た。少し驚いたような顔だった。何年ぶりかで、私から父に話しかけたのだと、そのとき初めて気づいた。


 何か聞き返されるかと思ったが、父は黙って袋を開け、一粒口に入れた。


「……これ、うまいな」


「でしょ」


 それだけだった。会話と呼べるかどうかも怪しいくらいの、短いやりとり。


 それだけなのに、私は久しぶりに父とまともに言葉を交わした気がした。画面越しでも、すれ違いざまでもなく、ちゃんと向き合って話した気がしたのだ。


 次の日、三時になると、父が自分から二階を降りてきた。リビングのテーブルに置いてあった同じ袋を見つけて、少し照れたように腰を下ろす。


 二人で一袋を分け合った、と言っても、私はあの強い酸味が苦手で、顔をしかめながら一粒か二粒つまむ程度だった。それでも、父の前で酸っぱそうな顔をしてみせるのが、なんだかおかしくもあった。


 特に約束したわけではない。それでも、それが毎日のことになった。


 三時になると、父は仕事の手を止めて階段を降りてくる。私もオンライン授業の合間にリビングへ来る。庭より先に、グミの袋に手が伸びるようになった。灰皿代わりに置いてあった小皿には、いつのまにか包み紙が積もるようになっていた。


「今日のグミある?」


「ないよ。ていうか、それしか言うことないの?」


 呆れながらも、私は買い物のついでに、少しずつ違う味を選ぶようになった。ぶどう、コーラ、ソーダ。棚の前でどれにするか迷う時間が、いつのまにか私自身の日課にもなっていた。


 台所から母が顔を出して、


「そんなの毎日食べてたら太るわよ」


 と言うこともあった。


 二人は「はいはい」と返すだけで、手を止めなかった。母はそう言いながらも、どこか嬉しそうな顔をしていたのを、私は見逃さなかった。


 三時のグミの時間だけは、父と私のものだと、なんとなく家族の中で決まっているようだった。


 やがてコロナが収束し、父は再び出社するようになった。


 それでも、三時の習慣はなくならなかった。


 毎日というわけにはいかなくなったけれど、父が帰ってくると、玄関を開けるより先に声が飛んでくる。


「今日、新しいグミ見つけたんだけど」


「え、どこの?」


 休みの日に私がコンビニで見つけた新商品を報告すると、父は次の日、会社帰りに同じものを買ってくることもあった。スーツのポケットから、少し潰れた袋を照れくさそうに取り出すのが、父らしいと思った。


 逆に、父が出張先で見つけた地方限定のグミを持ち帰ることもあった。


「これ、そっちじゃ売ってないだろ」


「ほんとだ。よく見つけたね」


 新しい味を見つけると、どちらからともなく「食べる?」と声をかける。それはもう、習慣というより、ちょっとした約束のようになっていた。


 ある晩、私が買ってきたばかりの大袋を、珍しく二人でリビングのソファに並んでテレビを見ながらつまんでいた。次の朝、気づくと袋はもう空になっていた。


「お父さん、全部食べたの?」


「……いや、昨日、二人で見てるあいだに、結構減ってただろ」


「お母さんの言う通り、食べ過ぎ」


「お前も一緒に食べただろ」


 言われてみれば、そうだった。私も父の隣に座ってテレビを見ながら、いつのまにか手を伸ばしていた。


 二人で顔を見合わせ、少し笑った。


 笑ったついでのように、私は前から聞きたかったことを口にした。


「なんでそんなにタバコ吸ってたの、あの頃」


 父はグミの袋を弄びながら、しばらく黙っていた。テレビの音だけが、間を埋めていた。


「仕事のせいだけじゃないんだよな」


「じゃあ、何?」


「家にいても、誰とも喋らない日があっただろ」


 私は黙って父を見た。


「会議はあっても、雑談なんかしないし。気づいたら、一服してた」


 私は何も言わなかった。


 ただ、「誰とも喋らない」という父の言葉が、少し引っかかった。


 あの頃、この家には私がいた。同じ屋根の下で、同じ時間を過ごしていた。それでも父にとっては、二階の自室にひとりでいることと変わらなかったのかもしれない。それは「誰かと話す」ことにはならなかったのだ。


 そう思うと、少しだけ寂しかった。同じ空間にいることと、誰かと一緒にいることは、違うのかもしれない。


 けれど、と私は思う。


 あの頃、自分は三時になると父のところへ行っていた。グミを口実にして。


 父が本当に欲しかったのがグミだったのか、それとも誰かと過ごす時間だったのか、私には分からない。私自身、グミが食べたかったのか、父と話したかったのか、はっきりとは分からないまま、三時になるたびリビングでのオンラインやスマホを止めていた。


 ただ、いま二人でリビングに座り、母に「太る」と言われながら同じ袋に手を伸ばしている。それは、あの頃の続きなのだと思う。


 父のタバコの本数が何本減ったのか、私は数えていない。数える気もなかった。


 ただ、皿を挟んで座る時間が、コロナが終わったあともなくならずに残っていた。それだけで、じゅうぶんだった。


 グミを食べたいから娘と話すのか。


 娘と話したいからグミを食べるのか。


 父自身にも、たぶんもう分からなくなっている。


 それでいいと、美咲は思っていた。

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