正直に申すのならば、批評の言葉が見当たらぬ。
短歌の(此処では詩とも換言しても差し支えはあるまい)、
音楽表象としての必然性も、意味表象としての必然性も察知、読解し得なかった為である。
最前衛の言語表現(それは現代詩的語彙であってもコピーライティング的語彙であっても良い)の構築法とは明らかに様相を異としていらっしゃる。
換喩を多用をされているのかと問うならばそうでもなさそうである。
言語表現とは、私的領域言語と公的領域言語の折衷に於いて遂行され得るものと考える。
公的領域言語の最たるものは、標準語的慣用表現である。
私的領域言語の最たるものは、喃語、造語、造字表現である。
斯様に見渡して見れば、当該批評作品は完全に公的領域言語に拠って成立していると分類出来よう。
問題は、構文文脈が全きに於いて慣用的言語を使用しているにも関わらず、文脈を結像しないと謂う一点のみである。
之が、略日常的公用言語のみを使用しているが、意味、表象が全く把握出来ぬ要因の原因であると考えられる。
此処で、評者は「カット・アップ」と謂う表現様式を説明したいと考える。
それは、此の批評対象作品を説明する上に於いて有用であると考えるからである。
「カットアップ」が詩壇の表舞台に登場するのは、トリスタン・ツァラに拠る「チューリッヒ・ダダ宣言」を契機と考えるのが宜しいだろう。
之は「新聞紙の活字の切り抜き」を袋の中でランダムに混ぜ合わせ、それによって詩文を構成するという技法であった。
もっとも、かなり意識的に詩文になりそうな「取り合わせ」を取捨選択していた、とは伝聞されてはいるが。
何が申したいのかと謂えば、
当該批評対象作品には、この技法と近い意識的言語操作が行われているのではないのか、と直感が働いた由縁である。
成程、「ランダムな取り合わせが詩文となる」と謂う創作論が背景にあれば、斯様な意味の取れぬ詩的言語が発生する可能性はある。
其処でもう一つのアポリアが成立するとするのであれば、
「其れが奇抜で、詩的可能性を拡げ、完成度の高い作品となるのか」という一点である。
残念乍ら、評者はその可能性を批評対象作品からは感受し得なかった。
唯一つ謂える事があるとするならば、
「詩文の偶然性をより能く統御するものは、詩文の必然性にも熟達をしていなけばならぬ」と謂う一点のみである。
以上、長々と「評価できぬ理由」を陳べさせて頂いた次第である。
態々最後まで斯様な駄‐批評文に目を通して頂いた方方には、允、感謝も頻りである。