第4章 閉館間際の灯り
季節は巡り、7月も半ばを過ぎた頃。日が落ちかけた薄青い光が、図書館の吹き抜け空間へ沈み込んでいた。
『本日の開館時間は、残り30分となりました――』
アナウンスが柔らかく静寂を揺らす。
あの日以来、詩織の胸から消えない疑問があった。
なぜ灯は晴をそこまで恐れ、傷つけてしまったと悔やむのか。そして、なぜ自分を救った『大丈夫だよ』という言葉の記憶が、この図書館の空気に重ね合わさるのか。
放課後の時間をすべて費やし、詩織は連日、館内を調べ歩いていた。灯の目が届かない地下書庫の検索端末に押し入り、旧型のカード目録を1枚ずつ繰る。
膝を直に床へつき、冷たいリノリウムの硬さに耐えながら、指先を黒く汚して過去ログを追った。
晴が好んで立ち寄る書棚の分類番号。
灯がこの市立図書館へ着任した3年前の記録。
寄贈図書台帳。
誰に頼まれたわけでもない。己の不器用な情熱だけを支えに、詩織は過去の記憶の束へと手を入れていた。
指先が、擦り切れた寄贈台帳の最下欄で止まる。
そこに記されていた寄贈者の欄と、保管場所の記号。
示されていたのは、館内最奥――郷土史料・未整理分類のガラスケースだった。
痺れた膝を押して立ち上がり、詩織は薄暗い棚の奥へ進んだ。ケースの引き戸をスライドさせると、キーという甲高い金属音が響く。
一番奥、背表紙の金文字が擦れ落ちた革装の古書。
棚から引き抜くと、ズシリとした湿り気のある重みが手に残る。
古いページを繰る。硬い紙が指を弾く音が続く。
巻末に近いページの狭間で、指先の腹が不揃いな厚みの凹凸を捉えた。
挟まれていたのは、1枚のクラフト紙だった。
全体が深い飴色に変色し、4つの角は押し擦られたように丸く破れかけている。
紙片を裏返すと、薄青い残光の中に黒いインクの文字が浮き上がった。
『大丈夫だよ』
丸みを帯びた筆跡。
心臓が大きく跳ねた。指先が震え、耳の奥で血の巡る音が響く。
中学2年生の冬。風の吹きすさぶ校舎の裏手で、動けなくなっていたあの日。頭上から降りてきた声の記憶。
万年筆の留め、はねの丸み。
カウンターで図書カードを受け取る際、灯がサインを走らせる手首の角度と一致していた。
手の中の飴色の紙片を抱え、詩織は棚の陰で立ち尽くした。
「……詩織さん?」
背後から足音が近づいてきた。
振り返ると、返却カートを押した灯が立っていた。
灯の視線が、詩織の開いた台帳と、指先の飴色の紙片へと落ちる。
灯の顔から血の気が引いた。
眼鏡の奥の瞳が揺れ、エプロンの胸元を握りしめる指先が、激しく震え始める。
「あなた……それを……」
声が喉の奥でつかえていた。
「探していたんです」
詩織はかすれた声で言った。紙片を抱え、灯を見つめ返す。
「灯さんが晴くんに渡してしまった言葉のこと……そして、この活動を始めた理由のこと。偶然落ちてきたんじゃないです。私が、ここから見つけ出しました」
灯は呼吸を乱し、壁に背中を預けた。
「中学のとき」
詩織は一歩踏み出した。
「冷たい冬の日に、この言葉をかけてくれた人がいました。……このしおりを書いたのは、灯さんですか? あの日、私に声をかけたのは……」
静寂が2人の間に降り積もる。灯の浅い呼吸音だけが響いていた。
灯はゆっくりと首を横に振った。
「……わからないわ」
声は掠れていた。眼鏡の位置を直そうとする指先が、フレームを滑る。
「そのしおりは……私が一番最初に書いたものよ。晴くんを傷つけてしまったあと……何を書けばいいのか分からなくて、紙に置き去りにした言葉……。それがどうしてその本に挟まれていたのか……私には分からないの」
灯は涙の溜まった目で、飴色の紙片を見つめた。
「あの日……あなたが校舎の裏で聞いた声が、私のものだったのか……見知らぬ誰かの声だったのか……私には証明できない。……ううん、突き止めてはいけないのよ」
「どうして……っ」
灯は答えなかった。
ただ、窓の外から差し込む薄青い残光の中で、万年筆を握る手がわずかに疼くように震えていた。
声の主が誰であったのかという確証は、結局どこにもない。あの凍てつく冬の日の校舎裏で、自分の頭上から降ってきたあの救いの音が灯のものだったのか、それとも過去の誰かが置き忘れた別の温もりだったのか。
真実は闇の中のままであり、名指された答えなど存在しない。
けれど。
(――違う)
胸の奥で、確かな熱が波打った。
誰が書いたか、誰の声だったかではない。その言葉が自分を救い、今日のここまで運んできてくれたという現実だけが、紛れもない事実として胸の底に根を下ろしている。
声の主の正体を暴くことではなく、その言葉に自らの意志で命を吹き込み、抱きしめ続けてきたことこそが答えなのだと、詩織の肺腑を熱い息が満たしていった。
「言葉はね」
灯は絞り出すように、静かに口を開いた。
「言葉は……誰のものでもなく、あなたの中で灯ったものだからよ」
灯の頬を、一筋の涙が伝い落ちる。
「誰がどんな意図で口にした言葉であっても……それがあなたを救ったのだとしたら……温度を与えたのは、発した誰かじゃない。それを抱きしめて生きてきた……詩織さん、あなた自身なのよ」
言葉が、胸の奥へ深く、重く沈み込んでいく。
「だから……声の主を追いかけなくていい。その言葉はもう、あなただけのものなんだから」
詩織は唇を強く噛みしめた。
目から溢れ出た涙が顎を伝い、古びたしおりの上にポロリと落ちて小さな染みを作る。
すべての謎の輪郭が鮮やかに繋がり、胸のつかえが綺麗な音を立ててほどけていった。
最終アナウンスが終わり、館内の照明が完全に落ちた。
周囲は深い群青色に包まれ、窓の外の街灯だけが本棚の列を浮かび上がらせている。
詩織はリュックから革カバーのノートを取り出した。
飴色の紙片――大丈夫だよ。
それを、新しいページの間にそっと挟み込んだ。
カサリ、と紙の音が響く。
ノートを胸に強く抱きしめると、革のカバーを通じて、重みが手元に伝わってきた。
詩織はそっと息を吐き、ノートを大事にリュックの中へ収めた。
「詩織さん、行きましょう」
カートを片付け終えた灯が呼びかけてくる。目元に涙の痕があったが、表情は静かだった。
詩織は涙を袖口で拭い、前を向いた。
「はい、灯さん!」
返した声は、震えていなかった。
重い扉の向こう側へ、詩織はまっすぐ一歩を踏み出していった。
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