第2章 図書館の片隅で灯るもの

 翌日になっても、昨日歴史書の書架で見せた灯の横顔が、詩織の頭から離れなかった。

 青い刺繍の入った学ランに黒パーカーを羽織った少年が通り過ぎた瞬間の、一切の血の気が失せた肌の白さ。ワゴンの金属パイプを押し潰すほど握りしめていた、あの凄絶な指先。


 そんな重苦しい記憶に身体を苛まれたまま、足早に図書館の通路を歩いていた時のことだ。


「……詩織さん?」


 返却カウンターの脇を通る不意のタイミングで声をかけられ、詩織はびくっと肩を跳ね上げた。

 カウンターの奥で本を降ろしていた灯が、顔を上げている。


 いつもの優しい笑顔を浮かべてはいるものの、昨日の動揺がまだ深層に残っているのは明らかだった。本を棚へ戻そうとする細い指先がかすかに震え、何度も背表紙の狙いを外して空間を泳いでいる。


 詩織が息をのんでその手元を見つめていると、灯は取り繕うようにふっと目を伏せ、手元から少し離れた場所へ視線を逃がした。


 つられるように詩織も視線を落とす。そこには、昨日まではなかった木製の小さな展示台が置かれていた。


『言葉のしおり』


 丁寧な手書き文字の案内文の横に、細長く切り揃えられた無地のクラフト紙や厚紙が几帳面に並べられている。隣のペン立てには色とりどりのペンが挿され、自由に使えるようになっていた。


「それ……新しく始めたんですか?」


「ええ。実験的にだけど」


 灯は手元にある数冊の文庫本を拾い上げ、トントンと机に当てて背を揃えた。何度も同じ動作を繰り返す手つきが、どこかぎこちない。


「本を読んでいるときに、ふと胸に残った言葉を紙片に書き写して、本に挟んで返してもらうの。次に借りた人がページをめくった時、誰かの言葉に出会えたら……少し景色が変わるかなって。……よかったら、詩織さんも書いてみない?」


 差し出された無地のクラフト紙と黒い万年筆を見つめ、詩織は思わず両手を後ろへ引いた。制服の袖口の中で指先が固く縮こまる。


「私……無理です。そんな、誰かに見せるような言葉なんて……」


「綺麗な言葉じゃなくていいのよ。自分が留めておきたいと思った言葉なら」


「でも……っ」


 喉が急激に詰まった。教室で投げかけられた「もっと普通に話せばいいのに」という言葉の感触が、冷たい手のように首筋を撫でる。自分が紙の上に残す文字が、誰かの皮膚を優しく撫でるイメージがどうしても湧かない。


「私には……書く資格なんて、ない気がして」


 俯いた呟きは、天井のエアコンが吐き出す微かな駆動音に消された。


 灯は無理に勧めることも、甘い言葉で慰めることもしなかった。

 ただ持っていた万年筆を木製のカウンターの上に静かに置いた。カトン、と乾いた木霊が2人の間に落ちる。


「資格……か」


 灯は自分の両手を見つめた。その指先が、かすかに、小刻みに震えている。


「……詩織さん」


 灯の声は、いつもの滑らかなトーンではなかった。途中で言葉を探すように途切れがちだった。


「向こうから勝手に飛んでくるものばかり受けていると……どうしても、怖くなるわよね。突き刺さるのを耐えるしかない、刃物みたいに見えて」


 灯は一度目を閉じ、眼鏡のフレームを指の背でそっと押さえた。エプロンの胸元をぎゅっと掴む指先。紺色の生地に細かなシワが寄っていく。


「でもね……どんな言葉を自分の中に残すか。それは……他人に決められることじゃなくて、自分で選んでいいはずなの。……私だって、今でも紙に向かうのは怖いのよ」


 灯の目元が、耐えるようにわずかに歪んだ。声が最後の方でかすかに掠れる。


「自分が渡したものが……誰かを突き刺す瞬間を知っているから」


 丸眼鏡の奥の瞳が湿り気を帯びて揺れていた。あの日、詰襟の少年を見たときと同じ目元。


「上手くなくていいの。自分が救われた文字を……ひとつ置いてみるだけで」


 灯は静かな動作で万年筆のキャップを外し、軸の先端を詩織の方へと向けた。

 詩織は息を呑み、差し出された冷たい金属の軸へとそっと手を伸ばした。指先が金属の感触に触れる。


「……書いてみます」


 万年筆と1枚のクラフト紙をぎこちなく受け取り、詩織は深く頭を下げた。


 誰にも邪魔されない場所で紙と向き合いたい一心で、逃げるように足を進める。

 行き着いたのは、館内の最も奥にある歴史書の書架の陰――いつもの木製ベンチだった。

 詩織は深々と腰を下ろし、膝の上のざらついたクラフト紙をじっと見つめた。


 遠くで時折聴こえる、誰かがページをめくる音。

 左手でクラフト紙の端をしっかりと押さえ、右手で万年筆を握りしめる。手のひらには湿った汗がにじんでいた。


 万年筆の先を紙の表面へと静かに下ろす。

 カリ、カリカリ、とペン先が粗い紙の繊維を削る手触りと音が、手首から肘へと伝わってきた。


『ゆっくりでいいよ』


 緊張で指先が震え、紙の上には少しいびつな文字が浮かび上がった。けれど黒いインクが紙の繊維へじんわりと染み込んでいくのを見つめていると、胸の奥を締め付けていた重圧がほんの少しだけ軽くなる気がした。


 詩織はそっと息を吹きかけてインクを乾かすと、紙片を持ち上げる。指先に伝わる小さな重みが、どこか心地よかった。


 ふと視線を感じて顔を上げると、本棚の陰からそっと様子を見守っていた灯と目が合った。

 灯は安心したように静かに目元を緩めると、足音を立てずにベンチのそばへ歩み寄ってきた。


「……かけました」


 詩織が立ち上がり、借りていた万年筆と書き終えた紙片を差し出すと、灯は「ありがとう」と優しく微笑んだ。

 詩織の手から愛おしそうに紙片を受け取ると、持っていた文庫本のページへそっと挟み込んだ。


 それから、詩織は館内の棚を巡るようになった。

 読み込まれた文庫本、厚手の美術全集。ページの間に差し込まれた紙片を引き抜く。


 角張った筆圧の高い文字。


『また明日』


 古い植物図鑑のページの間からは、掠れたボールペンの文字が現れた。


『ここにいていい』


 詩織は革カバーのノートを開き、それらを丁寧に書き写していった。

 万年筆のインクが、白い余白を少しずつ埋めていく。

そうやって見つけ出した誰かの言葉を、一つひとつノートへ集めていくうちに、季節はあっという間に巡っていった。


 6月の初旬。閉館間際のことだった。

 詩織は本を選び終え、カウンターへと歩いていた。西日が斜めに差し込み、本棚の長い影が床に幾重にも伸びている。


 カウンターの中では、灯が図書のバーコードをスキャナーで読み取っていた。ピッ、ピッという電子音が規則正しく静かな空間に響く。


「詩織さん、その本借りるの?」


 灯がスキャナーをかざした、その時だった。


 自動ドアが開き、誰かが入ってきた。

 何気なくそちらへ視線の向きを変えた灯の顔から、一瞬で一切の表情が削ぎ落とされた。


 スキャナーを持つ手がぴたりと空中で停止する。

 先端から伸びる赤いレーザー光線が、机の上でゆらゆらと明滅していた。


 入り口に立っていたのは、あの青い刺繍の施された詰襟を着た少年だった。


 彼は入り口近くの返却棚のわずかな本のズレを目にすると、不機嫌そうに顎を硬くこわばらせる。舌打ちこそ飲み込んだものの、ぶっきらぼうな手つきで本を押し込み、ミリ単位の並びを正してから、トゲだらけの気配を纏って奥へと歩き去った。


 灯の目から光が完全に消える。

 ネイビーのエプロンの胸元を握りしめる指先が、激しく震えていた。喉がひくっと小さく動く。


「灯……さん?」


 声をかけると、灯は弾かれたように肩を揺らした。

 スキャナーを机の上に落とすような音を立てて置くと、慌てた手つきで眼鏡の位置を直す。


「あ……ごめんなさい。はい、図書カードお返ししますね」


 その微笑みは引きつり、声は消え入りそうに細かった。


「顔色が……」


「平気よ。ちょっと……昔の知り合いを、思い出していただけだから」


 灯は一度も目を合わせないまま、逃げるように司書室へ引っ込んでしまった。直後、重い扉がバタンと大きな音を立てて閉まる。


 残されたカウンターの上で、詩織は貸出本と図書カードを見つめていた。


 昔の知り合いという掠れた声。

 青い刺繍の制服を見た瞬間の、固まった瞳。

 ガラス瓶の横に並べられた、あのクラフト紙。


 詩織は鞄の中のノートにそっと手を触れた。閉まった司書室の扉を見つめたまま、静かに息を吐き出した。

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