ことばの灯り
都桜ゆう
第1章 言葉が痛む季節
壁掛け時計の秒針が、カチ、カチと無機質な金属音を削り出している。
午後4時。終礼のチャイムが校舎の天井を揺らして鳴り響いた瞬間、それまで抑え込まれていた教室の沈黙が一気に破裂した。
パイプ椅子の脚が重く床を擦る音。教科書を乱暴に鞄へ押し込む音。カバンのジッパーが鋭く金属音を立てて滑る音。いくつもの生活音が混ざり合い、湿った熱気となって空気を満たしていく。
紺色の制服の袖口を、爪が布地を突き破るほどの力で握りしめる。指先にいくら力を込めても、胸の奥で早打つ心臓の不快な脈動は収まってくれない。
「詩織ちゃん、今日このあとカラオケ行かない?」
頭上から、ふわりと甘い香水の匂いが漂ってきた。
詩織は視線を床のささくれた木目に落としたまま、固く結んだ唇をわずかに開いた。喉の奥が乾ききっていて、うまく息が通らない。
「あ……ごめん、ね。今日は、ちょっと……」
「えー、また? もっと普通に話してくれればいいのに」
誘ってきたクラスメイトの顔に、悪意はないのだと分かっている。彼女はただ首をかしげ、少し困ったように眉を下げているだけだ。
けれど、もっと普通にというその語尾が鼓膜を打つたび、詩織の横隔膜がひくっと跳ね上がった。まるで目に見えない細い針で、内臓の柔らかい場所を突かれたような痛みが走る。
「……ごめん」
詩織は絞り出すようにそれだけ言うと、足元に置いていたリュックのストラップを強く掴み、逃げるように教室の引き戸を抜けた。
背後から、低く湿ったひそひそ声が追うようにかさついて聞こえたが、振り返る勇気はなかった。
薄暗い渡り廊下を抜け、階段を駆け下りる詩織の耳底には、午前の国語の授業で老教師が黒板を背にして放った声が、重く残り続けていた。
『言葉というのはな、目に見えないからこそ始末が悪い。言葉の刃は見えないが、時に人を深く抉り……時に、命を繋ぎ止める』
「言葉で人が死ぬとか、ポエマーかよ」
誰かが吐き捨てた乾いた笑い声が、廊下の窓ガラスに反射して滑っていく。
その中で、詩織だけが机の上のノートを見つめて動けなくなっていたのだった。
あのとき、詩織はシャーペンの芯をミリ単位で不器用に繰り出し、ノートの端、余白の狭いスペースへ強く押し当てた。爪の先が白くなるほどの筆圧で、ガリガリと紙の繊維を傷つけるように刻みつけた文字。
『言葉は怖い』
鋭く歪んだ黒鉛の文字。書き終えたあとも芯の硬い手触りと振動が指に残ったまま、手首は固く強張って動かなくなっていた。
校門を抜け出し、夕日の差し込まないブロック塀の影をなぞるように歩く。
詩織は制服のポケット越しに、リュックの奥にある革カバーのノートの感触を手探りで確かめた。そこには、これまで街で見つけた好きな文字たちが、ひっそりと並んでいる。
首筋に吹きつける風の冷たさに、細かな粟が立つ。
その冷気と引き換えに、記憶の底から、ひとつの古い光景がゆらりと浮かび上がってきた。
中学2年生の冬。風が吹きすさぶ校舎の裏手。冷たいコンクリートの上で蹲り、動けなくなっていた頭上から、そっと落とされた柔らかい声があった。
『大丈夫だよ』
泣きじゃくる詩織の頭上で、その声は風の音に混ざるようにして遠ざかっていった。顔を上げることができず、声の主の姿を見ることはついに叶わなかったけれど、そのぬくもりだけがずっと胸の底に残っている。
そのまま足を進めると、やがていつものツタの絡まる古い煉瓦造りの市立図書館が見えてきた。
自動ドアがウィーンと静かな駆動音を立てて開く。古い紙と乾燥した木材、そして微かなインクの甘い匂いが、冷えた詩織の全身をそっと包み込んだ。
館内の最も奥、人通りの途絶えた歴史書の通路にある木製ベンチに、吸い寄せられるように腰を下ろした。リュックから革カバーのノートを取り出し、ページを開く。
視線の先にあるのは、午前中に学校で書きつけた『言葉は怖い』という冷たい5文字だ。
ポケットから万年筆を取り出してみたものの、紙の上の尖った文字を目にした瞬間、手首が再び固く強張り、ペン先は紙の上で途立たされたままそれ以上動かなくなった。
「ここ、静かでいいよね」
突然、頭上から掠れた静かな声が降りてきた。
詩織はびくっと肩を激しく跳ね上げ、反射的にノートを胸元へ強く抱え込んだ。心臓がドクンと嫌な音を立てて肋骨を叩く。
おそるおそる視線を上げると、そこにいたのはネイビーのエプロンを着た女性司書――
「ごめなさい、驚かせちゃったわね。本棚の背表紙、ちょうど面がキレイに揃うところだったの」
恐縮したように言いながらも、灯は本棚に並ぶ文庫の小さな出っ張りを指先で捉え、1ミリ単位の狂いもなく慎重に押し込み、無駄に熱っぽい手つきで面のズレを整えている。本のことになると途端に早口になり、周りが見えなくなる彼女の不思議な癖だ。
その妙に真剣で丁寧な手つきに気おされ、詩織が固く強張らせていた腕の力を少しだけ緩めた、その時だった。
胸元に抱え込んだノートの隙間から、さっき書きつけた『言葉は怖い』の5文字が、灯の視界に覗いてしまう。
灯はその歪んだ文字を目に留めると、一瞬だけ指先の動きを止め、まるで壊れやすい愛おしいものでも見つめるように、優しく目元を細めた。
その時だった。
遠くのエントランス付近で、スニーカーのゴム底が濡れた床を擦るカサッという乾いた音が響いた。
立ち尽くしていたのは、1人の少年だった。
黒いパーカーのフードを深ぶかと被り、その首元からは青い刺繍の入った詰襟の学ランが覗いている。
肩を小さくすぼめるようにして歩く彼は、通路の棚にわずかに前に飛び出した背表紙を見つけると、険しい顔で眉間に深い皺を寄せた。そして歯を強く食いしばり、指先が白くなるほど力を込めて、文庫本をサッと奥へ押し込んだ。
まるでミリ単位の並びの乱れすら、自分への不当な攻撃であるかのように激しく拒絶する、冷たく強迫観念めいた手つきだった。
その姿が視界に入った瞬間――灯の動きが完全に停止した。
灯の手から、貼り付けようとしていた図書ラベルがポロリと床へ落ちる。
みるみるうちに顔から血の気が引き、細い指先が返却カートのパイプを白くなるほどの力で握りしめた。
「……っ」
全身が小刻みに震え、呼吸すら忘れてしまったかのようにその場で固まっている。
少年は一度も振り返ることなく、奥の暗い棚へと消えていった。
「灯……さん……?」
詩織がおそるおそる声をかけると、灯はハッと弾かれたように肩を跳ねさせた。
アンドロイドのように張りついた笑顔を無理やり口元に浮かべるが、丸眼鏡の奥の目元は凍りついたままだ。
「ごめんなさい……ちょっと、目眩がしただけ」
エプロンの袖口から覗く細い手首。そこが、まるで氷水に浸けられていたかのように白く強張り、目に見えて震えていた。
いつも優しく穏やかな司書の、見たこともない激しい拒絶反応。
灯は逃げるようにしてカートを押し、ガタゴトと音を立てて去っていった。
静けさが戻ってきた書架で、詩織は1人取り残されていた。
膝の上のノートに視線を落とす。『言葉は怖い』という不器用にへこんだ文字。
遠くの棚から、先ほどの少年が本をめくるカサリという微かな音が、冷たく響いて聞こえた。
詩織は制服の布地を固く握りしめ、万年筆のペン先を白紙の隅にそっと下ろした。
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