第二章 リュストアへの旅路①
静かな部屋に、ペン先が紙を滑る音だけが響く。聞こえたノックの音に、アメリアは声掛けをして手を止めた。
「失礼いたします。アメリア様、リュストアからのお便りです」
入ってきたロザリーが、慎重な手つきで封書を差し出す。
「ありがとう、ロザリー」
アメリアはロザリーから封書を受け取り、
(これは確か、グラディアの花だったかしら)
リュストア高原でしか咲かない、
「これが……リュストア公爵家の紋なのね」
アメリアはそっと指先で封蝋をなぞる。新たな公爵家の紋として、この花を選んだのだろうか。厳しい土地にも咲くというその花の姿が、どこか彼らしいと思えた。
(この花の
そんなことを考えながら、ナイフを手に取り、封蝋をそっと割った。
便箋を広げると、整った筆致の手紙には装飾の言葉もなくただ一文だけが記されていた。
──二十日に迎えに参る。準備しておかれよ。
ユリシスからの揺るぎのない文字にアメリアはしばし視線を止める。
「二十日に公爵領からお迎えが来てくださるのですって」
封書を伏せながらアメリアが言うと、
「もうそんなに近いのですね。準備を始めますか?」
「いえ、明日は王宮へ行くから、その後にしましょう。荷造りは落ち着いてからで十分よ」
明日は何があるかわからないし、二十日まではあと三週間程ある。
ドレス類は随分と換金してしまったから、持っていくものも多くはない。最低限の荷物しかないから荷造りにはさほど時間はかからないだろう。
弟の成長を見届けた──あとは、己の責務を果たすだけだ。
「ロザリー。王宮では、何があるかわからないから、落ち着いて行動しましょう」
「はい、承知しました」
ロザリーは静かに一礼する。
(明日が最後のようなものだし、気負わずにがんばりましょう)
アメリアは手紙をそっと箱に仕舞いながら、気持ちを引き締めた。
翌朝、王都は淡い霧に包まれていた。
湿り気を含んだ風が吹き抜け、王宮へと続く石畳の道を静かに
馬車が止まり、アメリアは裾を整えて外へ降り立つ。その瞬間、門の前を一匹の黒猫がするりと横切っていった。
「猫だわ。かわいらしいわね」
小さくつぶやいたアメリアの背後で、控えていた門番の一人が顔色を変えた。
「黒猫とは、縁起でもない……」
声を潜めたつもりだったのだろう。けれど、その
この国では、黒猫は不吉の使いと呼ばれている。それもこの国に伝わる古い迷信のひとつだ。例の愚王の魂が黒猫に転生したのだと信じられており、王都では黒猫が道を横切ると災いの前触れとされ、
ロザリーがすっと、門番に冷ややかな視線を向ける。何も言わないが、その鋭さに気付いた門番は慌てて背筋を伸ばし、視線を
「偶然でしょう。黒猫だって、朝の散歩くらいはするものよ」
「はい。その通りです」
アメリアの言葉に、澄まし顔のロザリーが同調してくれる。
あんなに
(初めて見たわ。次も来るなら触ってみたかったのだけれど……残念ね)
あいにくアメリアにはもう登城する予定がない。本当に残念だ、心から。
気を取り直して王城に足を踏み入れると、貼り付けたような笑みを浮かべる王妃付きの侍女長が
「アメリア様、お待ちしておりました。衣装室へご案内いたします」
案内の侍女に続き、アメリアは静かに回廊を歩く。
「婚礼衣装はこちらにございます」
衣装室の扉が開くと、窓から差し込む柔らかな光の中に白色のドレスが一着、飾られていた。
「こちらが、ユリシス殿下とのご婚礼に向けての衣装でございます。殿下のお母様である第二妃様のもので──」
侍女の説明が続く中、アメリアは一歩近づいてその光景を見つめた。
(なんだかおかしいわ)
たしかに、形は美しい。銀糸の刺繍が光を受け、花弁のようにきらめいている。けれど近づくにつれて、裾のあたりに違和感が浮かび上がってきた。糸が不自然にたるみ、縫い目もわずかに
アメリアはドレスに手を伸ばし、指先でそっと裾をつまむ。次の瞬間、糸がぷつりと音を立てて切れ、薄布が裂け落ちた。
「これは……」
ロザリーが裾を持ち上げると、銀糸の刺繍は途中で断ち切られ、裏地は裂かれ、縫い目の糸は引きちぎられていた。
「なんということでしょう。私が昨日確認した時は美品でしたのに! 厳重に保管しておりましたし、どういうことなのか……! やはり、呪い……!」
間髪を
アメリアは静かに膝を折り、崩れかけた裾の端を指先でつまむ。
(勢いのまま引き裂いたような荒い切り口だわ。裁縫用ではない刃物かしら)
布の繊維のほつれ方から、明らかに故意だとわかる。
胸の奥で、静かな怒りが
「呪いですって?」
アメリアの
「呪いで布が裂けるというのなら、わたくしの
そう言って、アメリアは刃のような冷たい笑みを浮かべる。
「こんな
アメリアは淡い困り顔を作りながら言った。相手の表情の機微を見落とさないように。
「アメリア様。侯爵家に持ち帰って、至急お直しをいたしましょう」
ロザリーがすぐさま前に出て、裂けた布をそっと抱えるように受け取った。声には怒りと
「そうね。こちらでは、満足な保管も難しいようですもの。取り扱いは慎重にね」
アメリアは布地の裂け目を指でなぞりつつ、低く告げる。
「この時代の絹製品には、微量の毒素が含まれていることがあるの。古い繊維にそうした物質が混じっていると、乱暴に扱うと皮膚から吸収されて体調を崩すことがあるわ」
「ええっ、そんなことがあるのですね……!」
ロザリーは目を見開き、
「ええ、そうなの。切り刻んだときに繊維が皮膚や粘膜に入るのですって。だから、その方が健康を害していないか、心配でならないわ。
「っ!」
息を
彼女の表情の変化を確認した後、アメリアは何事もなかったかのようにロザリーへと向き直った。
「承知いたしました。気をつけて補修いたします」
ロザリーが裂けたドレスを丁重に抱えている。
「ロザリーは大丈夫よ。何かあってもわたくしはその毒への対処法を知っているから。文献で読んだの」
アメリアは声を低くしてささやくように付け加えた。横目に見える侍女長の顔には明らかな
「では……ドレスもこの有様ですし、わたくしたちはこれで失礼しますわ。この部屋の責任者は
その言葉に、侍女長の顔からみるみる血の気が引いていく。
「こ、これは呪いでございます! 私には関係ありません!」
侍女長の声が甲高く響いた。
アメリアは一歩だけ前へ進み、その顔を静かに見つめる。
「確かに、貴重な婚礼衣装を切り裂いた方がいらっしゃるのですものね。その方が責任を負うべきだわ」
「で、ですから、このドレスがこの有様なのも、呪いのせいで……」
「なにもかも呪いで押し切るのは不可能だわ」
ある意味頭が痛い。この調子であれば、何か起きる度に呪いだ不幸だと責任逃れをすることが常態化していたのだろう。彼に──ユリシスに全てを押し付けて。
「そんなに呪いが好きというならばちょうど良かったわね。この衣装を切り刻んだ者は絹の呪いを受けるのだから」
にこりと
「さ、ロザリー。用件も済んだから、侯爵家に戻りましょうか」
「はい、かしこまりました」
種は
管理の件についてはきちんと国王に伝える。彼は自尊心が高く
(本当に、骨が折れますわ)
誰の差し金かはわかりきっているからこそ、
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