プロローグ

 社交界において、夜会は権力と思惑が交錯する場だ。貴族たちは笑顔の下に腹を隠し、杯を交わしながら次の一手を読む。

 その夜、王都ロセリアの王宮で盛大な夜会が催されていた。

 きらめくシャンデリアの下、第一王子フレデリックが突如として声を上げる。

「アメリア・グランディール! お前との婚約を破棄する!」

 その瞬間、ざわめきが広間を駆け抜けた。

 人々の視線は、王子の婚約者であるグランディール侯爵令嬢へと注がれる。

 たいするアメリアは、ゆったりとまばたきをした。

 月光を溶かしたような長い銀髪は、緩やかな波を描いて背に流れ落ちている。紅玉を思わせる瞳はりんとしていて、夜会のきらめきの中でもひときわ強い光を宿していた。

 整った面立ちにはおっとりとした微笑ほほえみとあいまって、気品が漂う。

 彼女がまとっているのは瑠璃色のドレスだ。二年前に仕立てたものではあるが、今回は裾や袖に新しいレースを縫い足して着回していた。

 同じドレスを纏うことは避けるべき事項であるが、訳あって現在グランディール侯爵家が没落寸前なのでそんな余裕はない。

 華やかな場に立つにはやや控えめで、隣に並ぶ令嬢と比べれば見劣りするかもしれない。だが、その落ち着いた気品と洗練されたたたずまいは、飾り立てた誰よりも目を引くものだった。

 反応のないアメリアにれたのか、フレデリックはさらに言葉をつむぐ。

「理由は明白だ。没落寸前の侯爵家の娘は、王家にふさわしくない! 私の新たな婚約者は──クラリッサ・ベルモント侯爵令嬢だ」

 フレデリックの隣に立つクラリッサが高慢に笑みを浮かべ、広間の一部から拍手が上がる。けれどアメリアは眉ひとつ動かさず、ただ首をかしげた。

「まあ。そうでございますか」

 その声音は春風のように軽やかで、会場の空気を一瞬にして奪った。

「な、なんだと……?」

 フレデリックの眉がぴくりと動く。

『どうか考え直してくださいませ』という言葉が、いつまで待っても響いてこない。

 沈黙を破ったのは、彼の隣に控えていたクラリッサだった。

「さすがアメリア様は、身の程をわきまえていらっしゃいますわね。やはり没落寸前の家の娘とはいえ、きさき教育もしっかり受けられているのですもの。すばらしいことですわ」

 クラリッサはわざとらしく扇で口元を隠しながら笑った。その視線は完全にアメリアを見下している。

 彼女の声に、周囲から含み笑いがれた。

 クラリッサが着ている鮮やかな緑のドレスは、裾には細工を凝らした宝石が波のようにちりばめられている。首元には大粒のダイヤが連なり、耳にはそれに呼応する耳飾りが揺れていた。

 その豪奢なよそおいと、勝ち誇った笑みには、近年王家に次ぐほどの勢いを誇るベルモント家の権勢が色濃くにじんでいた。

 豊かな鉱山を領有し、財貨と武力を兼ね備えたベルモント侯爵家。王妃の外戚としても力を持つその名は、いまや社交界において逆らう者などほとんどいない。

(グランディール家は用無しということなのでしょうね)

 名家であるはずのグランディール侯爵家は事業に失敗し多額の負債を抱えている。没落待ったなしだ。

 アメリアはフレデリックをまっすぐに見つめた。

 十歳の時に婚約が決まってから、八年がつ。来年に予定された婚礼に向けて、最後の一年となるはずだった。アメリアなりに真摯に向き合ったつもりだったけれど、足りなかったのだろう。

 フレデリックがクラリッサ以外の他の令嬢とも親しげにしていたのをよく見かけた。王妃からは『そんな事で目くじらを立てるな、お前に魅力がないからだ』と言われた。

 それももう終わりだ。

 胸の奥に、何かがすとんと落ちるような感覚があった。悔しいとか、悲しいとか、そういう一言で表すことができるような整った感情ではない。

(ここで崩れるわけにはいかないものね)

 アメリアはそっと背筋を伸ばした。

 もう王妃に嫌みを言われたり、王子の尻拭いをしたりする必要がなくなったと考えれば、かえってすがすがしい気もしてきた。

 気持ちを切り替えたアメリアは、口を開く。

「それでは殿下。わたくしは退出させていただきます。クラリッサ様とどうぞお幸せに」

 澄んだ声が大広間に落ちる。

 アメリアはドレスをつまんでふわりと微笑みながら礼をした。そのままきびすを返すと、銀の髪が真珠の糸のようにきらめいた。

 弟のエドマンドと早急に侯爵家の今後について話し合わなければ。

 重苦しい空気の広間を出て、ホールを抜ける。

 渡り廊下に出て、アメリアはようやく足を止めた。

(終わってしまいましたわね)

 思ったよりもあつないものだ。

 笑顔を保ち続けた頬が、少しだけしびれた。手を見ると、ドレスをずっと握りしめていたらしく、薄い布地に細かなしわが寄っている。

 一度大きく息を吐き、それからまたゆっくりと歩き始める。

 人々の視線にさらされるより、こうして月明かりの下を歩く方が余程心地いい。針のむしろのような状態で夜会に取り残されるより、先にこうして飛び出してきて正解だろう。

 そう思っていたら、背後から急ぎ足で追いかける音がした。

「待て、アメリア!」

 振り返ると、そこには先ほど自ら婚約破棄を宣言したはずのフレデリックがいる。

「フレデリック殿下。夜会の主役でいらっしゃるのに、どうされたのですか?」

 アメリアは眉をわずかに上げる。一体これ以上、何の用があるというのだろう。

 彼は気にする様子もなく、苦々しい息を吐きながら言葉を投げた。

「お前がどうしてもというなら、没落後もあいしようとしてならそばに置いてやってもいい」

 なんとも尊大な申し出だ。月明かりに照らされたその顔は、ひどくゆがんで見える。

「クラリッサは実務が苦手のようだから、そこをアメリアが補ってくれればいい。どうせ嫁ぎ先もないのだし、お前にとっても悪い話ではないだろう?」

 その言葉に、アメリアは紅の目を静かに細めた。

 正妻として公に並び立つ王子妃と、都合よく囲われるだけの存在。そこには大きな隔たりがある。

 それに、これまで『可愛かわいげがない』『でしゃばるな』とアメリアをさんざん抑えつけてきた男が、こんな言葉を投げかけてくるなんて。

 正論を口にすればとがめられ、黙っていればあいがないと責められた日々が脳裏を過ぎり、アメリアは小さく息をつく。

 没落しかけているとはいえ、こちらにだって侯爵家の令嬢としてのきようはあるのだ。

「フレデリック殿下、お気遣いありがとうございます。ですが大丈夫ですわ、わたくしが愛妾だなんて過分ですもの」

 クラリッサの尻拭いをしながら、愛妾として暮らすなどあり得ない。

 そんな気持ちも込めて、アメリアは変わらぬ穏やかな笑みを浮かべた。

「主役がいらっしゃらないと皆様が困ってしまいますわ。まだ夜会は続いていますから、クラリッサ様の所へお戻りくださいませ」

 すっと優雅に裾を揺らし、微笑を崩さぬまま踵を返す。

「アメリア……!」

 フレデリックの手が宙を泳ぐ。つかもうと伸ばされたその指先を、アメリアは見るはずもない。

 未練と後悔をにじませた王子の声は、彼女の背に届くことなく、夜気に溶けていった。



 そしてその一部始終を、陰から見つめている者がいた。

 月光を受け、艶やかな黒髪の下で金色の瞳が鋭く光る。冷徹とささやかれる第二王子ユリシス。その視線は、未練にすがる兄ではなく、ぜんとした背を見せて去っていくアメリアに向けられていた。

 かすかに見えるアメリアの凛とした横顔に、彼はほんの僅か、目を細めたのだった。

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