夏の手

戸田労働

夏の手

「田沢さん」

「? はい」

「今日は、晴れてて暑いから、玄関からは出ないほうがいいよ」

 玄関への廊下を歩く私に、永瀬さんはそう声をかけてきた。

「…ぇ、なんでですか?」

 妙に間抜けな声が出てしまった。誤魔化すように口に手をやって、「んっん」と喉を鳴らしてから永瀬さんを見直した。

「あー、えと」

 しかし永瀬さんはどういうわけか、視線を斜め下に落とし、バツの悪そうな顔をした。

 どんな顔で応じれば良いか、分からなくなった。あんな風に声をかけられたら、そりゃあ「なんで」と聞くだろうに。私が「ああ、そうですね」となると思っていたのだろうか。

 怪訝に思う私と、言い淀む永瀬さん。互いが沈黙する謎の時間が流れる。なんだこれは。

 仕方なく沈黙を破る為、口を開こうとしたタイミングで、永瀬さんが少し窄めた声を出した。

「田沢さん、今急ぎ?」

「いえ、特には」

「じゃあちょっと、こっち」

 そう言うと永瀬さんは、壁際に身体を寄せ、こちらに手招きしてきた。

「はあ」

 よく分からないが、話しづらいことらしい。とりあえず彼女の方へと近づいて少し背中を丸めると、ひそひそ話の形をとった。

「あのね、その」

「はい」

「あーあの、変な話なんだけど」

「はあ」

「幽霊が出るのよ、暑いと」

 …想定していない回答が出てきた。

「…幽霊?」

「うん、幽霊」

「幽霊」

「まあその、嘘みたいな話なんだけど」

 異論は無かった。永瀬さんの言っていることは嘘だとしか思えなかった。

 ただ、永瀬さんはわざわざ呼び止めてまで、妙な事を言いにくる人では無いとも思っていた。

「…えっと」

「理由は私も知らないんだけど、暑いと、手を触ってくるんだって」

「手を、ですか」

「うん、ひやっとするよ」

 彼女の言い回しに引っ掛かった。

「…永瀬さんは、触られたんですか?」

 尋ねると、永瀬さんの表情がぴたと止まった。けれど、それはすぐに綻いで、見慣れた薄い笑顔になった。

「…あー、まあ、あるよ」

 一瞬だけ廊下の先の、玄関の方を向いて、すぐに視線を戻して、また笑った。

「言われたほど、冷たくはなかったかな」

 

 




◆◆◆◆◆◆






「あ」

 手首に冷たい感触を覚えた瞬間、抜け落ちていたものが逆再生のように、頭の中へと揺り戻ってきた。

 永瀬さんと会話したのは、ほんの数日前のことだったのに。彼女から聞いた話をすっかり忘れて、玄関のハンドルを押し込んでいた。

 日差しと、それを反射したアスファルトによって温められた生温い風が、扉の隙間から私の身体に当たる。

 そして、その暖かさとは対照的な、冷たい何か。

 何かが、私の左手首を掴んでいた。

 目には何も見えない。しかし確実に、手の甲の少し上を掴まれている感覚がある。それは、人の手のひらに握られる感覚に似ていた。

 信じられない。信じられない事が起こっている。

 そう思ってはいる。事実、私の身体は冷や汗を流しながら硬直し、欠片も動かす事が出来ない。金縛りに遭ったなら、こういう感じなのかもしれない。

 だが、こんなことを考えられるくらいには、落ち着いてもいる。寧ろ、こんな呑気な思考を巡らせている自分自身に驚いていた。

「…っ」

 楽観さがばれたのだろうか。まるで咎めるみたいに、掴まれた左腕へかかる力が強くなった。痛みを感じるほどではないが、より明確に掴まれる感覚が伝わる。心なしか、引っ張られているようにも感じた。

 が、それでもなお、不思議と強い恐怖心は湧いてこなかった。

 怖くないというわけではない。警戒する気持ちがないわけでもない。しかし精々、病院で看護師の人に肌に触れられる時に感じる程度の警戒だった。

 掴んでくる透明な手のひらが、ずっと人肌に触れているのに冷たいままな事を羨ましく思ったりしていた。

 ここまで軽薄な事を考えていても、体は変わらず動かない。ハンドルから手を離すことすら叶わない。腐っても人ならざるものと言ったところか。

 とはいえ、このままずっと固まっている訳にもいかない。貴重な昼休みだ。別に何かやらなければならない事があるわけでは無いが、かと言ってこのまま立ち尽くして動けないなんてのはごめんだった。

 なんとかしてみようと、試しにハンドルから手を離そうとする。指を開くように力を込めた。しかし、動かせない。まるで抑え込まれているようだ。

 それならばと、腕全体を動かす。体重を使い、無理矢理揺らす。すると少しだけ、前に身体を傾ける事が出来た。

 これか。希望が見えた。

 今の前傾姿勢から反動をつけるように、上体を後ろへ反らす。身体全体を抑え込める訳では無いらしい。

 反らした身体を、先のように前に倒す。先ほどよりも、大きく動かせた。いい感じだ。

 そのままもう一度、後ろに倒してさらに勢いをつける。勢いのまま、前へ。倒せるまで倒しきったら、後ろへ。

 前へ。後ろへ。前へ。後ろへ。

 まるでブランコが推進力を得る時のように。規則的な動きで、少し動きを大きくする。

 このまま行けれ

「うあ」

 声が漏れた。痛みがあった。冷たかった。

 掴む力が増えた。さっきまでとは別の力が、けれど同じような何かが、掴まれた手首の少し上を同じように掴んできた。

 加えて、掴む力もさっきまでよりも強い。それに連動したように、今まで動かせた身体は、まるで筋が張ったみたいに硬直した。掴まれている腕だけでなく、全身を握られているように感じた。

 力を込めても、ちっとも動かすことが出来ない。もう先ほどまでの振り子運動はできなかった。

 体のあらゆる場所に意識を向け、どこか動かせないかと試みる。が、そのどれもが強張っていて、全く言う事を聞かない。

 ………。

 …不味いのかもしれない。

 不味いのか? 不味いのか。

「っづ」

 無意識のうちに声が滲んだ。掴まれた左手を見れば血が溜まり、腕の途中から不自然に色が変わっていた。よく見れば、掴まれている箇所が圧迫されて、透明人間に握られているみたいに少し凹んでいた。

 …まずい。かなり、まずい。出来ることがない。

 どうしよう。どうすればいい。何が出来る?

 思っている間にも、それぞれの手のひらはきりきりと、こちらの腕を締め上げてくる。掴んできている二つの手のひらの間が、ぐねぐねした鬱血の線を作っていた。

 どうしてこんなことになったんだろう。さっきまで呑気なことを考えていたのに。

 ちょっと玄関を通っただけなのに。理不尽じゃないか?

 というか、昼に来るなよ。せめて夜に来るべきだ。残業で最後に帰る時とかに来いよ。

「あいっづ」

 いたい。私の苛立ちが見透かされているのか、さらに掴む力は強くなる。向こうがその気なら、このまま私の手を握り潰せるのかもしれない。握り潰せないにしても、このまま腕の肉を、べりべりと抓り剥がせてもおかしくはない。

 もしかして、そうするつもりなのか。

 そういえばこの幽霊は、私の腕を両手で引っこ抜くように掴むのではなく、手の甲から肘にかけてを沿うように握ってきている。

 このまま腕の肉をパカッと部品のみたいに引っぺがして、骨がむき出しになって……。

 ………?

 掴んできている、二つの手。両方とも右手だ。

「…二人いるの?」

 素朴な疑問だった。体に走っていた硬直も無視して、無意識のうちに声が漏れていた。

 その瞬間、手にかかる圧力が一気に弱まった。そして、手首近くを掴む手から順に離された。

「ぅおっ」

 途端に身体の拘束はなくなり、強張りが解ける。体重のバランスを突然返され、よろけて数歩足踏みをした。

 先ほどまで感じていた焦燥とのギャップで、酷く、酷く辺りが静まり返っていた。拘束が解けたことを確かめるように、体を恐る恐る動かすと、足元から靴底の擦れる音が小さく響いた。

 ハンドルから手を離そうとして、やめる。離してまた握り直したら、彼らに掴まれる気がした。代わりにグッと握り込み、そのまま引き開いて外へと飛び出した。

 真上から直射日光が、じりじりと照りつける。自分の表面温度がどんどん上がっていくのを感じる。さっきまで幽霊に掴まれて、冷や汗を流していたことなど、嘘のようだった。

「何なんだ…」

 絞り出すように、声を零した。

 さっきまで掴まれていた、左腕を見る。

 手首の付近にうっすらと赤みが残っている。それは先ほどまでの出来事が、夢やうつつでは無いことを証明していた。

 今すぐ誰かに見せれば、さっきの出来事を信じてもらえるのだろうか。

 そう思うと、玄関のことを教えてくれた永瀬さんのことを思い浮かべた。彼女も、同じように彼ら、あるいは彼女らに掴まれたのだろうか。

 もしそうなら、怪訝な顔をされる事を厭わずに声をかけてくれた彼女の優しさには感謝しなければならない。最も、その優しさは今の今まで、すっかり忘れてしまっていたわけだが。

 後ろを振り返る。

 扉は飛び出た反動でゆっくりと動き、ちょうど閉じきるところだった。隙間に見えた、昼休みで天井照明が切られた事務所の中が、酷く真っ暗に見えた。

 

 




◆◆◆◆◆◆






「あ、武村さん」

「? はい! なんですか?」

 元気良く返事をしてくれた後輩に、言葉が詰まった。

 しまった。何も考えずに、声をかけてしまった。

「…あ〜」

「…? えっとぉ…」

 気まずい空気が流れる。何でこんなことになったんだ。あの玄関にいた時と、同じ冷や汗が流れた。

 武村さんの困った顔と視線がつらい。何か、何とか。何か、言わないと。

 何か、何か、なにか…。

「そこ、ね、今日は熱いから、玄関からは出ない方がいいよ」

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夏の手 戸田労働 @KiyositaRoretu

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