第二十一話 前夜
第二十一話 前夜
「十月三日まで、あと二週間ね」
画面には、人事部から届いた復職面談の案内が表示されている。
場所は、嶺北本社。
真紀は腕を組み、背もたれに身体を預けた。
「まず、分かってることを確認しましょう」
「そうね」
綾香が頷く。
「会社は、あなたが東京にいることを知ってる」
「はい。月二回の定期連絡でも、東京の知人宅で休養していると伝えています」
「で、復職面談は嶺北本社」
「東京支店でもできるはずなのに」
「わざわざ戻って来い、ってことね」
真紀はモバイルの画面を指先で軽く叩いた。
「それだけじゃありません」
「何?」
「私が嶺北に戻るなら、移動手段は限られます」
綾香は少し考える。
「新幹線」
「まず、それを考えるでしょうね」
「飛行機でも行けるけど、普通なら鉄道を使う」
「それに――」
真紀は視線を落とした。
「嶺北駅に着けば、そこから会社までどう移動するかも予測できます」
綾香の表情が少し険しくなる。
「見られてると思う?」
真紀はすぐには答えなかった。
やがて、口元だけで笑った。
「見え透いた誘い球ね」
「……真紀」
「はい?」
綾香は真紀の顔をじっと見る。
「怒ってるの?」
「え?」
「その顔。何かする気でしょ?」
真紀は一瞬だけ目を丸くしたあと、小さく笑った。
「綾香さん」
「何?」
真紀は身体を少し前へ乗り出した。
「ちょっと、いいですか」
「うん」
二人の声が小さくなる。
真紀が何かを話す。
綾香が途中で目を見開いた。
「……それ、本気?」
真紀は頷く。
さらに何かを続ける。
綾香はしばらく黙って聞いたあと、深く息を吐いた。
「分かった」
「お願いします」
「でも、無茶はしないで」
真紀は笑った。
「それは、やってみないと分かりません」
「そういうところよ」
綾香は呆れたように言った。
◇
十月二日
PCコータローの店内に、本多真紀の姿があった。
カウンターには、無糖の紅茶とコーヒーが置かれている。
真紀はペットボトルの蓋を開け、一口飲んだ。
向かいでは、
「明日だろ?」
公太郎が画面を見たまま言った。
「はい」
「じゃあさ」
公太郎は椅子を回し、真紀を見る。
「俺が、うちの軽バンで東京駅まで送るよ」
真紀が顔を上げた。
「ホントに?」
「ああ」
「ありがとうございます」
「これぐらいどうってことないよ」
公太郎はコーヒーを一口飲んだ。
真紀も無糖紅茶を飲む。
しばらく、二人の間に静かな時間が流れた。
やがて真紀が口を開いた。
「公太郎さん」
「ん?」
「軽く、南十字星行きません?」
公太郎が笑う。
「いいねぇ」
少し考えてから、スマートフォンへ手を伸ばした。
「あいつも呼ぶか?」
真紀は少しだけ笑った。
「そうですね」
◇
翌朝。
東京駅近くの道路脇に、一台の軽バンが停まった。
助手席のドアが開き、本多真紀が降りる。
肩には小さなバッグ。
真紀はドアを閉めると、運転席の公太郎へ頭を下げた。
「ありがとうございます」
「いいよ、これぐらい」
公太郎は笑った。
「俺も気分転換になったし」
「じゃあ、行ってきます」
真紀が歩き出そうとした時だった。
「あ、そうだ」
公太郎が声を掛けた。
「真紀ちゃん、ちょっと待って」
「はい?」
公太郎は助手席側へ身を伸ばし、小さな箱を取り出した。
「これ、着けて行って」
真紀が箱を受け取る。
中に入っていたのは、一本のスマートウォッチだった。
「え?」
「昨日渡そうと思ったんだけど、忘れてた」
真紀は慌てて箱を返そうとする。
「こんなの受け取れません!」
「いいから」
「でも――」
「真紀ちゃん」
公太郎の声が少しだけ真面目になる。
「一人で行くの、心細いだろ?」
真紀は黙った。
公太郎はスマートウォッチを指した。
「この中に、アイラを入れてある」
「アイラを?」
「ああ」
真紀がもう一度、箱の中を見る。
「何かあったら、アイラに相談すればいい。雑談だってできる」
公太郎は笑った。
「だから持って行って」
「でも……」
「それに」
公太郎は少しだけ視線を逸らした。
「あいつからも言われてるんだ」
真紀が顔を上げる。
それだけで十分だった。
真紀はスマートウォッチを取り出した。
小さな画面が点灯する。
《おはようございます、真紀さん》
一瞬。
真紀の表情が崩れた。
「アイラ……」
《はい》
真紀はそのままスマートウォッチを腕に付けた。
そして、公太郎を見る。
先ほどまでとは違う、とびきりの笑顔だった。
「公太郎さん」
「ん?」
「ありがとうございます」
真紀は深く頭を下げる。
そして、顔を上げた。
「行ってきます」
「おう。行ってらっしゃい」
真紀は笑顔のまま、公太郎へ手を振った。
そのまま東京駅へ向かって歩き出す。
数歩。
公太郎に背を向けた、その瞬間。
真紀の顔から、笑顔が消えた。
まっすぐ前を見る。
その目には、勝負を前にした打者のような鋭さが宿っていた
東京駅の待合室。
真紀は空いている席に腰を下ろし、腕のスマートウォッチへ目を落とした。
「アイラ」
《はい》
「ちゃんと聞こえてる?」
《問題ありません》
真紀は少しだけ笑った。
「なんか変な感じ」
《何がでしょうか》
「いつもは画面の向こうにいるのに、今日は腕にいる」
《携帯性は向上しています》
「そういう答えするところは、いつも通りね」
《ありがとうございます》
「褒めてない」
真紀は小さく笑った。
周囲を行き交う人々を眺める。
しばらくして、真紀が小さな声で言った。
「……ちょっと緊張してるかも」
《緊張は、これから重要な行動を起こす際に生じる自然な反応です》
「そう、一打逆転の場面で打席に入る打者の気分よ」
真紀は背もたれに身体を預けた。
「じゃあ、付き合ってね」
《もちろんです》
真紀は腕時計の画面を一度だけ撫でた。
「よろしく、アイラ」
《よろしくお願いします、真紀さん》
◇
その頃。
東京駅近くの漏水現場では、
「佐々木ちゃん!」
「はい!」
「そこじゃない! コンクリートとサッシの取り合いシールを狙うんだ!」
「あ、はい!」
佐々木がホースの向きを少し変える。
水がシール部分へ集中して当たり始めた。
敬之は室内側へ回り、漏水の有無を確認する。
しばらくして、別の箇所へ移動した。
「次、そこ」
「はい!」
敬之は並んだ開口を見渡した。
まだ調べる箇所はいくつも残っている。
どうやら、まだ終わりそうもない。
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