『塩対応の婚約者が、実は俺のことが大好きすぎて心の声がダダ漏れな件』

塩塚 和人

不器用すぎる両片想いコメディ


第1話:心の声は突然に


フェルロード王国魔法学園の中庭には、午後の柔らかな日差しがたっぷりと降り注いでいた。


手入れの行き届いた芝生の上を、色とりどりの制服をまとった生徒たちが談笑しながら行き交っている。


その一角にある大樹の木陰で、俺――ラグナス・フェルディオは、冷や汗を拭いながら頭を抱えていた。


「おい、ラグナス。どうしたんだよそんな青白い顔して。昨日の夜更かしでも祟ったか?」


隣で豪快に笑いながら肩を叩いてきたのは、親友のドレイク・ハルバードだ。


鍛え上げられた長身の体躯に、頼りがいのある雰囲気をまとった男である。


その反対側では、もう一人の親友であるローラン・デュ・モンテが、通り過ぎる女子生徒を熱心な目で追いかけながら腕を組んでいた。


「いや、そういうわけじゃないんだ……。なんかこう、頭がくらくらするっていうか……」


俺が言葉を濁すと、ローランがフンと鼻を鳴らして割り込んできた。


「おいおい、ラグナス。

悩み事なんてな、気晴らしに極上のスタイルをした美女でも眺めれば吹き飛ぶぜ! やっぱり世の中、女の子は胸でしょ! あの豊かなふくらみこそが、世界を救う癒やしなのだからな!」


相変わらずの下世話な持論に、ドレイクがやれやれといった顔でため息をつく。


「お前なぁ、ローラン。少しは場の空気を読め。

ラグナスは真剣に悩んでるんだぞ」


「なんだよ、事実だろ? なぁ、ラグナスもそう思うよな!」


親友二人のいつもの軽口を聞きながら、俺は心の中で頭を振った。


――二人とも、頼むから静かにしてくれ。


今の俺の頭の中は、それどころじゃないんだ。


実は、今朝目覚めた時から、俺の体におかしな現象が起きていた。


他人の、いや、正確に言えば周りにいる女性たちの「心の声」が、ダイレクトに頭に響いてくるのだ。


最初は耳鳴りかと思った。だが、すれ違う女子生徒たちが口を閉ざしているにもかかわらず、「あそこのパン屋のタルト、今日も売り切れてませんように……」とか「今日の魔法実習、予習してないどうしよう……」といった声が、脳内に直接流れ込んでくる。


(なんだこれ……俺、いよいよ頭がおかしくなったのか……?)


あまりの異常事態にパニックを起こしかけていたその時だった。


中庭の小道を、凛とした足取りで歩いてくる一人の少女の姿が視界に入った。


艶やかな金髪を風に揺らし、整った顔立ちにプライドの高そうな瞳。


リシェル・ヴァレンティア。この学園に通う、俺の片想い相手だった。


リシェルは名門ヴァレンティア家の令嬢だが、最近は家門の勢いが落ちぶれていると言われており、本人はどこかトゲトゲした雰囲気をまとっている。


学園でも「落ちぶれ悪役令嬢」などと陰口を叩かれることが多いが、俺はそんな彼女のひたむきで真面目なところを知っていたからこそ、密かに恋心を抱いていたのだ。


(あ、リシェルだ……。今日も遠くから見るだけで、胸が高鳴る……)


俺が思わず見とれていると、リシェルはこちらに気づき、ぴたりと足を止めた。


そして、彼女の冷ややかな視線がまっすぐこちらに向けられる。


よし、勇気を出して挨拶だけでもしよう。そう思って俺が口を開こうとした瞬間だった。


――『きゃっ……! な、なんでよ、なんでこんな時にラグナス様がそこにいるのよ!?』


脳内に、聞き覚えのある綺麗な少女の声が響いた。


それは間違いなく、目の前に立っているリシェルの声だった。


しかし、彼女の唇は固く結ばれている。声に出しているわけではない。


これは間違いなく、彼女の「心の声」だ。


俺は目を見開いた。


――『今日も相変わらず少し頼りなそうだけど……そこがまた母性をくすぐるというか、ずるいわよ! あ、でも目が合った! やばい、顔が赤くなってるかもしれない! 見られたくない、どうしよう……!』


リシェルの心の中は、俺の想像を絶するほど激しく波立っていた。


いつも凛としている彼女からは想像もつかないような、照れと熱情が入り交じった叫び声が、頭の中でガンガンと反響する。


驚きのあまり言葉を失っている俺に向かって、リシェルはぐっと唇を噛み締め、両腕を胸の前で組んだ。


そして、ツンとそっぽを向きながら、冷ややかな声でこう言い放った。


「な、何よジロジロ見て……! 別にあんたの顔なんて見たくもないんだけど! 用がないなら、そこをどいてくれる?」


トゲのある、冷たい塩対応。


周囲にいた生徒たちが、ちらりとこちらに視線を寄せる。


だが、今の俺には彼女のその言葉がまったく違って聞こえていた。


表面上の冷たい態度の裏側で、彼女の心はこう叫んでいたのだ。


――『あぁぁぁまた冷たいこと言っちゃった! 馬鹿! 私の馬鹿! こんなこと言ったら嫌われちゃう、お願いだからどっか行かないでラグナス様……!』


その圧倒的なギャップに、俺は心の中で盛大にずっこけそうになった。


――あんなに冷たくされて、毛嫌いされているとばかり思っていたのに……。


彼女は、本当は俺のことが好きで、好きすぎて緊張して、つい逆の態度をとってしまっていただけだったのか?


「お、おい、ラグナス? リシェル様にまた冷たくあしらわれて固まっちまったか?」


ドレイクが心配そうに俺の顔を覗き込む。


「だから言っただろ、女なんてな……って、おいラグナス、どこに行くんだよ!」


俺はドレイクの制止を振り切り、驚きと動揺と、そして胸の奥からこみ上げてくる熱い感情を抱えながら、その場に立ち尽くすリシェルを見つめた。


これが、俺の平穏だった学園生活を根底からひっくり返す、すれ違いラブコメの始まりだった。













第2話:塩対応の裏側


チャイムの音が響き渡り、午後の授業を告げる予鈴が王国魔法学園の校舎にこだました。


生徒たちが慌ただしく教室へと移動する喧騒の中、俺――ラグナスは、先ほど中庭で起きた出来事の衝撃を引きずったまま、二階の廊下を歩いていた。


(嘘だろ……リシェルが、俺を……?)


頭の中で繰り返されるのは、あの冷たいセリフと、それとは裏腹だった甘い心の声のギャップだ。


『あぁぁぁまた冷たいこと言っちゃった! 馬鹿! 私の馬鹿!』というリシェルの絶叫が、まるで目の前で叫ばれているかのように生々しく脳裏によみがえる。


「おい、ラグナス。さっきから上の空だぞ。一体どうしたんだよ」


隣を歩く親友のドレイクが、怪訝そうな顔で俺の肩を叩いた。


鍛え上げられた長身の彼に見下ろされると、自分の動揺がいかに際立っているかと思い知らされる。


反対側では、ローランが腕を組みながらやれやれといった顔で口を開いた。


「決まってるだろ、ドレイク。さっきリシェル様に冷たくあしらわれて、ショックで魂が抜けかけてるのさ。なぁ、ラグナス。あんなツンツンしたお高くとまった女より、もっと素直で分かりやすい巨乳の――」


「ローラン、今はそういう話じゃないって」


ドレイクが呆れたようにローランを制止するが、そのドレイクの瞳の奥も、どこか落ち着かない色を帯びていた。


――まさか、ドレイクもリシェルのことが……?


いや、そんなはずはない。


ドレイクは俺の親友だ。


それに、彼自身はいつも「ラグナスは他の子に目を向けたらどうだ」とアドバイスをくれるのだから。


俺は首を振って、自分の余計な勘ぐりを頭から追い出した。


曲がり角を曲がったその時だった。


前方から、数人の女生徒を引き連れた一人の少女が歩いてくるのが見えた。


金髪を揺らし、背筋をピンと伸ばして歩く姿は絵画のように美しい。


リシェル・ヴァレンティアだった。


(あ……!)


心臓が大きく跳ね上がる。


さっきの中庭での一件があってから、まともに彼女の顔を見るのはこれが初めてだ。


周りの女生徒たちと楽しげに話していたリシェルは、俺の姿を認めた瞬間、ぴたりと足をとめた。


周囲の空気が一瞬で凍りつくような緊張感が走る。


一緒にいたソフィア・レーヴェンというリシェルの親友が、意味ありげな笑みを浮かべてリシェルの肩を軽く小突いた。


(来る……!)


俺はごくりと唾を飲み込んだ。彼女の口からどんな冷たい言葉が飛び出すのか、そしてその裏でどんな心の声が響くのか。


リシェルは気まずそうに顔を赤らめ、それをごまかすようにぐっと顎を引いた。


そして、ツンと冷え切った声音で言い放つ。


「ちょっと、そこ。道を開けてくれないかしら? あなたみたいな平々凡々な男子生徒が突っ立っていると、邪魔で仕方がないんだけど」


冷酷なまでの塩対応。


周囲を歩いていた生徒たちが「またか」と言いたげな視線をこちらに向ける。


だが、今の俺には、その言葉が彼女の防衛本能にすぎないことが痛いほどよく分かっていた。


――響いてきたのは、彼女の本当の叫びだ。


『きゃっ、また近くで目が合っちゃった……! どうしよう、さっきの失礼な態度を引きずってるかも……! お願い、何か気の利いたこと言ってよ私! でも恥ずかしくて無理! あーーもう死にたい!!』


脳内に響く悶絶の嵐に、俺は思わず吹き出しそうになるのを必死でこらえた。


あんなにトゲのある言葉を吐きながら、心の中では赤面して転げ回っている。


あまりのギャップの激しさに、愛おしさがこみ上げてきて仕方がなかった。


「あ、ああ、すまない、リシェル」


俺が慌てて道を譲ると、リシェルはぎょっとしたように目を丸くした。


いつもなら怯えたように縮み上がるか、シュンと落ち込むはずの俺が、なぜか穏やかな笑みを浮かべていたからだろう。


リシェルは動揺を隠すように、さらに声のトーンを上げて言い返す。


「な、何よその気味の悪い笑みは……! 気持ち悪いんだから、二度と私に話しかけないでよね!」


吐き捨てるようにそう言うと、リシェルはバッと背筋を伸ばし、早足でその場を去っていった。


その後を、呆れたような、しかし温かい眼差しを向けたソフィアが苦笑いしながらついていく。


――『い、言っちゃった……! あんなひどいこと言って、嫌われた、絶対嫌われたわよ私……!』


遠ざかる背中から、そんな泣きそうな心の声がかすかに聞こえてくる。


「……おい、ラグナス」


呆然と立ち尽くす俺の肩を、ドレイクが重たく掴んだ。


その顔には、先ほどまでの余裕が消え、かすかな険しさが宿っていた。


「お前、さっきから何でにやけてるんだ? リシェルにあんな冷たいこと言われて、頭でも打ったのか?」


「いや……なんでもない、ちょっとこう、色々とな」


俺はニヤけそうになる口元を必死に手で押さえながら、去っていくリシェルの後ろ姿を見つめた。


冷たい塩対応の裏に隠された、あまりにも可愛すぎる本音。


この秘密の能力のおかげで、俺たちの関係は、今日から確実に変わり始めていた。












第3話:親友たちの密談


放課後の喧騒が少しずつ静まり始めた学園カフェテリア。


窓際の席には、夕暮れのオレンジ色の光が差し込み、木製のテーブルの上に置かれたハーブティーのカップから、細く白い湯気がゆらゆらと立ち上っていた。


俺――ラグナスは、カップの温もりを手で感じながら、さっきからずっと頭の中でリシェルの声色を反芻していた。


『お願い、何か気の利いたこと言ってよ私! でも恥ずかしくて無理! あーーもう死にたい!!』


思い出すだけで、自然と頬が緩んでしまう。

冷たい塩対応の下に隠された、あんなにも悶絶するような本音を知ってしまった今、彼女の態度に傷つくどころか、愛おしさが募るばかりだった。


「……で、さっきから何ニヤついてんだよ、ラグナス」


目の前の席から、低い声が飛んできた。

顔を上げると、ドレイクが腕を組んでじっとこちらを見据えていた。その整った顔立ちは微かに険しく、普段の余裕が少しだけ影を潜めている。


隣の席では、ローランがケーキのフォークをカチャカチャと鳴らしながら、窓の外をぼんやりと眺めていた。


「いや、別に……その、何でもないさ」


「何でもなくないだろ。さっきの廊下でもそうだった。リシェル様に冷たくあしらわれて、普通なら落ち込むか萎縮するかのはずだ。それなのに、お前……なんか余裕と言うか、嬉しそうですらあったぞ」


ドレイクの鋭い指摘に、俺はビクッと肩を揺らした。


(やばい、顔がにやけすぎていたか……? でも、リシェルの心の声が聞こえるなんて言えるわけがない)


「そ、そうか? 落ち込んでないわけじゃないけどさ……何ていうか、こう、あいつも一生懸命なんだなって思ってさ」


適当にごまかそうと笑ってみせたが、ドレイクの瞳の奥にある光は、いっそう鋭さを増したようだった。


「……お前、本気でリシェル様のことが好きなんだな」


ドレイクは低く呟くと、手元のティーカップに視線を落とした。


その指先が、わずかにカップの縁を強く握りしめているように見えたのは、気のせいだっただろうか。


「そりゃあ、ずっと前から……」


俺が照れくさそうに答えると、横からローランが大きなフォークを突き出しながら割って入ってきた。


「まあ待てよ、ラグナス! 確かにリシェル様は容姿端麗でお高くて魅力的かもしれんがね、あのツンツンした態度を見ただろ? 毎日あんな塩対応を食らっていたら、精神が持たないって! それに比べてみろ、ミレーユさんなんて――」


「お前、またその話か」

ドレイクがため息をつきながらローランを遮る。

「ミレーユはミレーユでいい子だが、ラグナスの気持ちはそう簡単に割り切れるもんじゃないだろ。……ただ、な」


ドレイクは一度言葉を切ると、じっと俺の目を見た。その表情には、親友としての心配と、どこか別の複雑な感情が入り交じっているように見えた。


「リシェル様は最近、家門のゴタゴタでピリピリしている。噂じゃ、どこかの貴族との政略結婚の話も持ち上がっているって話だ。お前があまり深追いして、これ以上傷つかないか……俺はそれが心配なんだよ」


――政略結婚。

その言葉が、ドレイクの口からふいに飛び出した。


心臓が、冷たい水に浸されたようにキュッと縮み上がる。

(リシェルに、政略結婚の話が……?)


もちろん、貴族社会において家門が落ちぶれれば、娘を別の有力者に嫁がせて立て直そうとするのはよくあることだ。だが、もしそれが本当なら、リシェルは望まない相手と結婚させられてしまうかもしれない。


(あの、不器用で、本当は俺のことが好きでたまらないリシェルが……他の男のところに……?)


想像しただけで、胸の奥が激しく逆立った。

「ドレイク……お前、その話、どこで聞いたんだ?」

俺が身を乗り出すと、ドレイクはわずかに目を泳がせ、視線を窓の外に逸らした。


「あ、あぁ……学園の掲示板や、生徒たちの間で少し噂になってるだけさ。確証があるわけじゃない。だから、あまり気負うなよ、ラグナス。……むしろ、お前はもっと別の、例えばお互いに笑顔でいられるような相手を探した方が、お互いのためなんじゃないのか?」


その言葉は、一見すると俺を気遣う親友の忠告のようだった。


だが、なぜだろう。


ドレイクの声音の微かな震えと、どこか焦っているような眼差しが、妙に俺の胸に引っかかった。


――『お前があまり深追いするな……』


まるで、リシェルを俺から遠ざけようとしているかのように聞こえるのは、気のせいか?


いや、まさか。


ドレイクは俺の親友だ。


そんな下心があるはずがない。


きっと、俺が傷つくのを本気で心配してくれているからこその言葉だ。


「……ありがとう、ドレイク。でも、俺は諦めないさ」


俺がしっかりと前を向いてそう告げると、ドレイクは一瞬、息を呑んだような顔をした。


そして、複雑な笑みを浮かべながら、小さく「……そうかよ」と呟き、カップに残っていた冷めたハーブティーを飲み干した。


窓の外では、夕焼けの赤みが徐々に夜の帳(とばり)へと変わり始めていた。


リシェルを巡る影が、思ったよりも早く、そして静かに動き出そうとしていることを、この時の俺はまだ予感していなかった。













第4話:巨乳とコンプレックス


放課後の冷たい風が、王国魔法学園の中庭の木立を揺らしていた。


オレンジ色の夕陽が長く伸びる中、俺――ラグナスは、先ほどカフェテリアでドレイクから聞いた「政略結婚の噂」の重みを引きずりながら、寮へと続く小道を一人歩いていた。


(リシェルに政略結婚の話が……本当なのか? いや、もしそれが事実なら、あいつは今、どれほど不安で、一人で耐えているんだ……)


頭の中で、リシェルのあのツンとした顔と、裏腹の『どうしよう……!』という怯えた心の声が交錯する。何か力になりたい。そう焦る気持ちを抑えきれずにいると、前方の噴水広場あたりから、聞き覚えのある威勢のいい声が聞こえてきた。


「だからよ、ミレーユさん! 世の中の美の基準というものはだな、やはり豊満で圧倒的な――」


「もう、ローラン君! またそんな下品な話ばかりして……!」


足を止めると、そこにはローランと、女生徒のミレーユ・カスタニエが立っていた。

ローランは相変わらず大きな身振り手振りで自説を展開しているが、その向かい側に立つミレーユは、どこか切なげな表情で両手を自分の制服の胸元あたりでギュッと握りしめていた。


ミレーユは優しくおしとやかで、誰に対しても丁寧な素晴らしい少女だ。しかし、彼女には誰にも打ち明けられない深いコンプレックスがあった。ローランの「巨乳好き」を公言する無神経な言葉が、彼女の心を密かに傷つけていることを、今の俺なら少しだけ想像がついた。


(あぁ、ローランのやつ……相変わらず空気読めない発言を……)


俺が声をかけようと一歩踏み出したその時、ミレーユが耐えきれなくなったように小さな声で呟いた。


「……私だって、好きでこんな……」


その声は震えていた。ミレーユは潤んだ瞳をぐっと伏せ、悔しそうに下唇を噛み締める。


ローランは突然の彼女の様子に気づき、「え? ミレーユさん、どうしたんだよ急に……俺、何か変なこと言ったか?」と、さすがに焦ったように間の抜けた声を漏らした。


「変なことばかりよ! ローラン君は、いつも……いつも、大きい人ばかり……!」


ミレーユはそれ以上言葉を続けることができず、ポロリと一粒の涙をこぼすと、そのままくるりと背中を向け、早足でその場から駆け出して行ってしまった。


「えっ……ちょ、ちょっと待ってくれよミレーユさん!」


ローランは頭をかきむしりながら、その場に突っ立って途方に暮れていた。


(やれやれ、あいつもあいつで不器用だな……)


俺はローランの横を通り過ぎようと足を向けたが、走り去っていくミレーユの背中を見送りながら、ふと胸の奥がチクリと痛んだ。


誰もがそれぞれの悩みを抱えている。


リシェルはツンデレの性格と政略結婚の噂に怯え、ミレーユは自分の身体のコンプレックスに悩み、そしてローランは自分の言葉が誰かを傷つけていることに気づけない。


(俺も、リシェルの本当の気持ちを知っている気でいるけれど……本当に彼女を救えるのか?)


不安が再び頭をもたげる。


だが、立ち止まっている暇はない。


あの涙を流したリシェルの心の声を思い出せ。


彼女は今、俺に助けを求めているのだ。


俺は拳をぐっと握りしめると、夕闇に染まり始める学園の敷地を、再び強い足取りで歩き出した。













第5話:親友の企み


夜の帳が下り、王国魔法学園の男子寮は深い静寂に包まれていた。


石造りの廊下を歩く足音が遠くで反響し、窓の外からは冷たい夜風が木々を揺らす音がかすかに聞こえてくる。


男子寮の一室。


机の上に置かれた魔導ランプの橙色の光が、壁に伸びたドレイクの影を大きく歪ませて揺らしていた。


(……くそっ、なんでこうなるんだ……!)


ドレイク・ハルバードは椅子に深く腰掛け、両手で顔を覆ったまま、荒い息を吐き出していた。


先ほどの食堂での失態。


普段は冷静沈着な自分が、あんな見苦しく感情を爆発させてしまったことに、ドレイク自身が一番動揺していた。


だが、焦りを抑えきれなかったのだ。


ラグナスとリシェルの間に「政略結婚」の噂が立ち、さらにラグナス自身がリシェルに対する見方を変え、前向きにアプローチを始めている気配を肌で感じ取っていたからだ。


(ラグナスは、あいつは親友だ……。あいつの頼みなら、どんなことでも相談に乗ってやった。だのに……なぜ、リシェル様だけは譲れないんだ……!)


ドレイクの胸の奥底で渦巻いていたのは、長年隠し続けてきたドす黒い感情だった。


誰も知らない。


完璧な優等生として振る舞う彼の裏で、リシェル・ヴァレンティアという気高い少女にどれほど狂おしいほどの恋心を抱いていたかを。


かつて、名門としての誇りを失いかけ、周囲から陰口を叩かれてもなお、気高く凛と振る舞うリシェルの姿に、ドレイクは心を奪われていた。


本当であれば、落ちぶれた彼女を救い出し、自分の隣に立たせるのはこの俺であるべきだったのだ。


それなのに、なぜ、よりによってラグナスなどが――。


「……いや、まだ諦めたわけじゃない」


ドレイクはガタリと音を立てて立ち上がると、机の上に広げられた一冊のノートに視線を落とした。


そのページには、幾重もの文字で緻密な計画が書き殴られている。


ラグナスをリシェルから遠ざけるため、そして二人の間に決定的なすれ違いを生み出すための、巧妙な作戦の数々が。


「ラグナス、お前は良い奴だ。だからこそ、これ以上深入りさせたくない……というのは本心だが、同時に、これ以上あいつらを近づけるわけにはいかないんだよ」


ドレイクは冷たく歪んだ笑みを浮かべ、ペンを強く握りしめた。


友情と、抑えきれない独占欲の境界線が音を立てて崩れ去っていく。


夜の静寂の中、親友の裏切りとも言える密かな企みが、静かに、そして確実に動き出そうとしていた。












第6話:ソフィアの忠告


放課後の図書室は、外の喧騒が嘘のように静まり返っていた。


高い天井までそびえ立つ重厚な本棚の間には、何百年も前に書かれた古い魔導書のインクと、乾いた羊皮紙が混ざり合った独特の匂いが漂っている。


窓から差し込む夕方の斜光が、舞い散る微細な埃を黄金色に照らし出していた。


その最奥にある学習スペースの片隅で、リシェル・ヴァレンティアは一人、机に突っ伏して頭を抱えていた。


(あぁ、またやっちゃった……! どうして私は、あの人の前になるとあんな冷たいことしか言えないのよ……!)


両手で顔を覆い、心の中で盛大に自分を罵倒する。


中庭でも、廊下でも、ラグナスと顔を合わせるたびに心臓が飛び出しそうになり、その過剰な動揺を隠そうとするあまり、反射的にトゲのある塩対応をぶつけてしまう。


本当は「もっと話したい」「名前を呼んでほしい」と願っているというのに、口から出るのは「邪魔だからどいて」という冷酷な言葉ばかりだ。


「そんなに頭を抱えていたら、脳みそが沸騰しちゃうわよ、リシェル」


ふっと気怠げで、しかしどこか温かい声が頭上から降ってきた。


顔を上げると、親友のソフィア・レーヴェンが、一冊の分厚い歴史書を脇に抱えながら、呆れたような微笑みを浮かべてそこに立っていた。


ソフィアはそのままリシェルの向かい側の席に腰を下ろし、慣れた手つきで眼鏡の位置を直す。


「ソフィア……。私、もうダメかもしれないわ……」


リシェルは潤んだ瞳を向け、消え入りそうな声で呟いた。


「ダメって、何がよ。またラグナス君に冷たくしちゃったわけ?」


「……うっ。だって、仕方が……」


「仕方がなくないわよ」


ソフィアは小さくため息をつき、真剣な眼差しを親友に向けた。


「あなたねぇ、いくらツンデレがあなたのトレードマークだとしても、限度ってものがあるわ。


あんなに露骨に冷たくされたら、普通は『自分は嫌われているんだな』って諦めちゃうわよ。


実際、最近のラグナス君、少しずつあなたに対して距離を取ろうとしてるみたいじゃない」


「なっ……!? う、嘘……! そんなのやだ……!」


ソフィアの言葉に、リシェルはガバッと勢いよく顔を上げた。


顔面がみるみるうちに真っ赤に染まり、目にはうっすらと涙の膜が張る。


その必死すぎる反応に、ソフィアはクスッと小さく笑った。


「冗談よ、冗談。あそこまで鈍感……じゃなくて、あなたを真っ直ぐ見てくれている男の子が、そう簡単に諦めるとは思わないけれどね。でも、油断してると危ないわよ」


「あぶない……って、なにが?」


ソフィアは窓の外の夕空へと視線を投げ、少しだけ声のトーンを落とした。


「知ってるでしょう? あなたの家門とフェルディオ家の間で持ち上がっている、あの政略結婚の噂よ。それに、学園の中には他にも目を光らせている連中がいる。例えば、いつもあなたのことを遠くから気にかけてる風の……まあ、誰とは言わないけれど」


「政略結婚なんて、私だってお父様に反発してるわよ! でも、もし本当に話が進んじゃったら……私、ラグナス様以外の人のところになんて絶対お嫁に行きたくない!」


リシェルが声を詰まらせながら本を強く握りしめると、紙の端がクシャリと音を立てて折れ曲がった。


その指先は小刻みに震えている。


普段の勝ち気なお嬢様の面影はなく、ただ恋に恋する一人の不器用な少女の姿がそこにあった。


ソフィアはそんな親友の頭を、まるで妹をあやすかのように優しくポンと撫でた。


「だったら、いつまでもそんな態度をとっていてダメよ。

素直にならなきゃ、本当に彼は他の子に取られちゃうわ。

例えば……そうね、ミレーユさんみたいな、誰からも愛されるおっとりした優しい子にね」


「み、ミレーユさん……っ!?」


想像しただけでも胸が締め付けられるような恐怖に、リシェルはガタガタと震え出した。


「わ、私だって……本当は、あんなこと言いたくないのよ……。だけど、いざ目の前にすると、恥ずかしさが勝って勝手に口が……」


「知ってるわよ、あなたのそういう不器用すぎるトントン拍子にいかないところ、嫌うほどにね」

ソフィアはやれやれといった風に肩をすくめながらも、その瞳には深い愛情と友情の色が宿っていた。


「さあ、愚痴はこれくらいにして、今日の課題を片付けましょう。ラグナス君を振り向かせるためにも、まずはそのトゲトゲしい心を少しでも丸くすることね」


「うぅ……善処するわ……」


リシェルは真っ赤になった顔を再び本の中にうずめながら、心の中で何度も「次は絶対に優しくする」と誓うのだった。


だが、その彼女の決意が、学園の裏でうごめくドレイクの陰謀によって、さらに過酷な試練に晒されることを、彼女たちはまだ知る由もなかった。













第7話:すれ違う廊下


二階の長い廊下は、授業終わりの喧騒に包まれていた。授業の終わりを告げる鐘の音が響き渡り、生徒たちは思い思いの荷物を抱えて教室から溢れ出している。色とりどの制服が交錯し、楽しげな話し声や笑い声が石造りの壁に反響していた。


その喧騒の中を、俺――ラグナスは一人、複雑な思いを抱えながら歩いていた。


(ドレイクのあの時の必死すぎる制止……そして、リシェルに持ち上がっているという政略結婚の噂……。何かが裏で動き始めているのは間違いない。だけど、俺がやるべきことは一つだ。リシェルの本当の気持ちを無視して諦めるなんて、絶対にできない)


頭の中で、あの日のリシェルの震える声と、脳内に直接響いた甘い心の声が蘇る。

『お前があまり深追いするな……』というドレイクの言葉が胸のつかえのように残っていたが、それを振り払うように俺は前を向いた。


その時だった。

前方から、数人の女生徒とお喋りをしながら歩いてくる一人の少女の姿が視界に飛び込んできた。


風になびく美しい金髪、整った顔立ち。

リシェル・ヴァレンティアだった。


(あ……!)


心臓が跳ね上がる。先ほどのソフィアとの会話があったかどうかは知る由もないが、リシェルは俺の姿を認めた瞬間、ぴたりと足を止めた。


一緒に歩いていた女生徒たちが「あれ、リシェル? どうしたの?」と振り返るが、リシェルは顔を真っ赤に染めながら「な、なんでもないわよ!」と慌ててごまかした。


周囲の生徒たちが行き交う中、二人の間に少しだけ距離のある空間が生まれる。


(来る……!)


俺は足を止め、真っ直ぐに彼女を見つめた。


今度こそ、トゲのある言葉を言われても、その裏にある本当の気持ちを受け止めてみせる。


そう心に決めて、一歩踏み出そうとした瞬間だった。


リシェルは気まずそうに目を泳がせ、それをごまかすようにぐっと顎を引いた。


そして、いつものようにツンと冷え切った声音で言い放つ。


「ちょっと、そこ。また邪魔なところに突っ立って……。本当に、どんくさい男ね。用がないならさっさと視界から消えてくれる?」


冷酷なまでの塩対応。


周囲を歩いていた生徒たちが「またあの二人がやり合ってるよ」とばかりに、ちらりと好奇の目を向ける。


だが、今の俺には、その言葉の裏にある彼女の本当の叫びが痛いほどクリアに聞こえていた。


――『きゃっ、また真正面から見つめられた……! ダメよ、ここで優しくされたら絶対泣いちゃう! お願いだから、そんなまっすぐな目で私を見ないで……!』


脳内に響く悶絶の叫びと、目に涙を浮かべまいと必死に耐えている彼女の震える瞳。


あまりのギャップの可愛さに、俺は胸を撃ち抜かれたような感覚に陥った。


トゲのある言葉なんて、もはやただの照れ隠しにしか聞こえない。


「あ、ああ、すまない、リシェル。その……体調は大丈夫か?」


俺が心配して優しく声をかけると、リシェルはぎょっとしたように目を丸くした。


いつもなら怯えるか気まずそうに目を逸らすはずの俺が、なぜか真っ直ぐに、しかも心配そうに微笑んでいるからだろう。


リシェルは動揺を隠すように、さらに声のトーンを上げて言い返す。


「な、なにを勝手に心配して気味の悪い……! あんたに心配される筋合いなんてないわよ! バカじゃないの!」


吐き捨てるようにそう言うと、リシェルはバッと顔を背け、顔を真っ赤にしたまま早足でその場を去っていった。


その後を、呆れたような、しかしどこか温かい眼差しを向けたソフィアが苦笑いしながら小走りでついていく。


――『い、言っちゃった……! あんなひどいこと言って、また嫌われたかも……最低よ私、本当に馬鹿……!』


遠ざかる背中から、そんな泣きそうな心の声がかすかに聞こえてくる。


そのやり取りを、少し離れた廊下の曲がり角から、冷たい目でじっと見つめている男の影があった。


ドレイク・ハルバードだ。


彼は誰にも気づかれないように拳を固く握りしめ、その唇を硬く結んだまま、二人の背中から静かに視線を外したのだった。













第8話:胸の小さな悩みと優しさ


放課後の陽光が、王国魔法学園の中庭の噴水をキラキラと輝かせていた。


水飛沫が微細な虹を描き出し、周囲に植えられた色とりどりの花々が甘い香りを漂わせている。


そんな穏やかな風景の中で、ミレーユ・カスタニエは一人、花壇の雑草を抜いていた。


丁寧に手入れされた花壇には、彼女の優しさがそのまま表れているようだった。


(……あぁ、またローラン君のあんな言葉を聞いちゃった……)


先日の食堂での騒動が、まだミレーユの心に影を落としていた。


ローランの「巨乳至上主義」は今更な話だが、彼が自分の名前を出したこと、そしてそれを親友のドレイクが激しい剣幕で否定したこと。


その複雑なやり取りが、彼女の胸を締め付けていた。


ミレーユは無意識に、自分の制服の胸元をそっと押さえた。


膨らみ始めたばかりの、ささやかな胸のライン。


誰かと比べるようなことではないと分かっていても、どうしてもローランの言葉が頭をよぎり、深いコンプレックスを刺激してしまう。


(私だって、好きでこんな……。もっと、もっと女性らしい身体だったら、ローラン君も少しは見てくれたのかな……)


ポロリと、一筋の涙がミレーユの頬を伝い落ちた。


彼女は慌てて手の甲で涙を拭い、俯きながら土をいじり続けた。


その時だった。


「おい、カスタニエ。こんなところで一人で何をしているんだ?」


聞き覚えのある、少し気怠げで、しかしどこか間の抜けた声が頭上から降ってきた。


ミレーユがビクッと肩を震わせて顔を上げると、そこにはローラン・デュ・モンテが立っていた。


相変わらず整った顔立ちだが、なぜか今日はいつもより心なしかバツが悪そうな表情を浮かべていた。


「ろ、ローラン君……? どうしてここに……」


ミレーユは慌てて立ち上がり、涙で濡れた顔を隠すように俯いた。


「いや、通りがかったらお前が一人でいたからな。……で、何で泣いてるんだよ? まさか、俺がこの前言ったことでまだ傷ついてるのか?」


ローランは頭をガシガシとかきむしりながら、困ったような、しかし隠しきれない罪悪感を滲ませた顔で問いかけた。


彼なりに、食堂でのドレイクの怒号と、ミレーユの走り去る姿が心に引っかかっていたらしかった。


「そ、そんなこと……! ローラン君の言葉なんて、もう気にしてませんから……!」


ミレーユは必死に笑顔を作ろうとしたが、その声は震え、瞳には再び涙が溢れそうになっていた。


「嘘つけ、めっちゃ泣いてるじゃねえか……!」


ローランは狼狽したように両手を宙に浮かせ、どうしていいか分からない様子でその場に突っ立っていた。


彼が女性を泣かせるなんて、今までほとんどなかった経験だった。それも、いつもニコニコしている温和なミレーユを。


「お、おい……! その、なんだ……。俺が悪かったよ! お前を傷つけるつもりなんて、これっぽっちもなかったんだ! ただ、俺の理想を語りたかっただけで……!」


ローランはしどろもどろになりながらも、精一杯の謝罪の言葉を口にした。その顔は赤く染まり、普段の軽薄な態度は微塵も感じられない。


「ローラン君……」


ミレーユは、彼がそこまで焦って謝ってくれるとは思っていなかった。


ローランなりの不器用な優しさが伝わってきて、さっきまでのコンプレックスが少しだけ、溶けていくような気がした。


「だから、泣くなよ……! その、なんだ。俺は……俺は、お前のその、真面目なところとか……、いつも優しいところとか、好きだぞ! ……って、何を言ってるんだ俺はぁぁぁ!!」


ローランは我に返ると、自分の口走った言葉に顔を真っ赤にして絶叫した。


その言葉は、彼自身が今まで公言してきた「巨乳好き」というポリシーを根底から覆すようなものだったからだ。


「えっ……?」


ミレーユは目を見開いた。


今、彼は確かに「好き」と言った。


それがどういう意味の「好き」であれ、自分のコンプレックスを全て受け入れてくれたような、そんな温かい言葉に聞こえた。


ミレーユの心臓が激しく波打つ。


彼女は顔を真っ赤に染めながら、潤んだ瞳をローランに向けた。


「ローラン君……。今の言葉、本当ですか……?」


「えっ? あ、あぁ……いや、その、あはは……」


ローランは気まずそうに目を逸らしながら、誤魔化すように苦笑いを浮かべた。


しかし、その耳まで赤く染まっているのは隠せなかった。


その時だった。


中庭の木陰から、その様子をじっと見つめるラグナスとリシェルの姿があった。


ドレイクとの一件をきっかけに、二人は少しずつ、お互いの本当の気持ちを通わせ始めている最中だった。


――『わぁ、ローランがミレーユさんに告白してる!? なんて無自覚なタラシなのよ! でも……ミレーユさん、嬉しそう……』


脳内に響くリシェルの興奮した心の声と、それを温かい目で見守るラグナス。


誰もがそれぞれの悩みを抱え、時には傷つき、時にはすれ違いながらも、それぞれの恋模様が静かに、しかし確実に動き出そうとしていた。


噴水の水飛沫が夕日にきらめき、二人の距離を優しく包み込んでいた。
















第9話:政略結婚の影


放課後の静まり返った廊下を、俺――ラグナス・フェルディオは重い足取りで歩いていた。


先ほど、担任の教師から急な呼び出しを受け、学園長の執務室へと向かう途中だった。


心臓がいつもより速いリズムを刻んでいる。


呼び出しの理由など、薄々勘付いていた。


(とうとう、この時が来たか……)


ドレイクから聞かされていた「政略結婚の噂」。


それが、単なる噂話ではないことを、実家からの手紙や、ここ最近の父の慌ただしい様子から感じ取っていた。


相手はヴァレンティア家。つまり、リシェルだ。


執務室の重厚な木製の扉の前に立つ。深呼吸を一つして、ノックをした。


「入れ」


中から聞こえた学園長の威厳ある声に促され、ドアを開ける。


部屋の中は薄暗く、窓から差し込む夕日が埃を黄金色に輝かせていた。


執務机の奥には、学園長が厳格な面持ちで座っていた。


「ラグナス・フェルディオだな。よく来た」


学園長は机の上に置かれた一枚の書類に視線を落とし、ゆっくりと口を開いた。


「フェルディオ家とヴァレンティア家の間で、かねてより進められていた縁談が、正式に合意に至ったとの連絡を受けた。両家にとって、この度の提携は王国にとっても大きな利益をもたらすことになるだろう。貴殿にとっても、名門ヴァレンティア家の令嬢を妻に迎えることは、将来的に大きな飛躍の機会となるはずだ」


事務的な口調で淡々と告げられる言葉が、まるで冷水を浴びせられたかのように心臓に突き刺さった。


頭では分かっていた。


貴族の家に生まれた以上、政略結婚は避けられない宿命だと。


だが、実際にこうして宣告されると、足元が崩れ落ちるような衝撃を受けた。


「……承知いたしました」


俺は震える声を絞り出し、深く頭を下げた。


声には出さなかったが、心の中で叫んだ。


(リシェルは……リシェルはどう思っているんだ!? 俺との結婚を……望んでいるのか?)


あの日、中庭で彼女の涙ながらの心の声を聞いて以来、俺は彼女に対する想いを確信に変えていた。


冷たい塩対応の裏側に隠された、あまりにも愛おしい本音を。


彼女が本当は俺のことを好きで、好きすぎてツンツンしてしまう不器用な令嬢であることを。


もし、この政略結婚が彼女の望まぬものだったら……?


想像しただけで、胸の奥が激しく逆立った。


「詳しい詳細については、後日両家から通達があるだろう。それまでの間、貴殿は学業に専念し、フェルディオ家の次期当主としての自覚を持つよう努めなさい。以上だ」


学園長の言葉に、俺はもう一度深く頭を下げ、執務室を後にした。


重い扉が閉まると、廊下の静寂が再び俺を包み込んだ。


冷たい石畳に足が沈み込むような感覚。心臓の鼓動が耳の奥でうるさく響き、目の前が少し歪んで見えた。


(リシェル……)


彼女は今、どこで何をしているだろう。


この婚約のことを知っているのだろうか。


もし知っていたら、彼女は今、どれほど不安で、一人で耐えているんだ……。


俺は拳をぐっと握りしめると、夕闇に染まり始める学園の敷地を、寮へと向かって再び歩き出した。


運命の歯車が、思ったよりも早く、そして静かに、二人を飲み込もうとしていた。


















第10話:知らされた真実


夕焼けが空を赤く染め、王国魔法学園の赤煉瓦の女子寮を長く照らしていた。


一日を終えた生徒たちが談笑しながら寮へと入っていく喧騒の中、リシェル・ヴァレンティアは一人、立ち尽くしていた。


彼女の手には、つい先ほど寮の管理人から受け取ったばかりの、実家からの封蝋が押された手紙が握られていた。


名門ヴァレンティア家の家紋が刻印されたその手紙を開く前から、リシェルは嫌な予感に心臓を締め付けられていた。


ここ最近の父の態度は、明らかに何かを隠している様子だったからだ。


震える指先で封を切り、中の羊皮紙を取り出す。


そこに書かれていたのは、リシェルの人生を決定づけるあまりにも短い、しかし重い通告だった。


『……フェルディオ家との縁談が正式に合意に至った。

相手はラグナス・フェルディオ。

来月の学園の休業期間中に結納を執り行う。心して準備するように』


「嘘……でしょ……?」


リシェルの口から、掠れた声が漏れた。

頭の中が真っ白になった。


足の力が抜け、その場にへたり込みそうになるのを、必死で壁に手をついてこらえる。


政略結婚。


貴族の娘として生まれた以上、いつかは通らなければならない道だとは理解していた。


だが、よりによって、相手が……ラグナスが?


(どうして……お父様、私に一言の相談もなく……!)


頭の中で、ラグナスの優しげな顔と、ここ最近の彼に向けた自分の冷たい塩対応が走馬灯のように蘇った。


『きゃっ……! な、なんでよ、なんでこんな時にラグナス様がそこにいるのよ!?』


『な、何よジロジロ見て……! 別にあんたの顔なんて見たくもないんだけど!』


(あぁぁぁまた冷たいこと言っちゃった! 馬鹿! 私の馬鹿! こんなこと言ったら嫌われちゃう、お願いだからどっか行かないでラグナス様……!)


あの日、中庭で彼に冷たく言い放った直後の、あの心の叫び。


本当は、彼が大好きで、一日中目で追ってしまって、話しかけられると嬉しくて心臓が飛び出しそうになるのに。


素直になれなくて、いつも逆のことばかり言ってしまう、どうしようもないツンデレ悪役令嬢。


それが、今や学園公認の(?)冷たい婚約者同士になってしまうなんて。


もし、ラグナスがこの婚約を望んでいたら?


もし、彼が「あんなツンケンした女なんて、絶対に嫌だ」と思っていたら?


想像しただけで、胸が張り裂けそうな恐怖に襲われた。


彼に嫌われるどころか、これ以上ないほど冷酷な婚約者として、彼を苦しめることになるかもしれない。


「どうしよう……! また冷たい顔されちゃう……!」


リシェルは手紙を胸に抱きしめ、涙をこらえるようにぐっと唇を噛み締めた。


その瞳からは、とめどなく涙が溢れ出ていた。


夕焼けの赤みが薄れ、夜の帳が降りようとしていた。


運命の歯車が、二人の意に反して、冷酷なほど急速に回り始めていた。













第11話:ドレイクの焦り


夜の帳が完全に下り、王国魔法学園は静寂に包まれていた。


松明の明かりが石畳の廊下をぼんやりと照らし、遠くから警備の教員たちの足音が聞こえる。


そんな中、人影のないグラウンドの隅っこで、ドレイク・ハルバードは一人、荒い息を吐きながら立ち尽くしていた。


冷たい夜風が彼の汗ばんだ頬を撫でるが、熱くなった彼の心を冷やすことはできなかった。


(くそっ、くそっ、くそっ……!)


ドレイクは誰にも見られないように、固く握りしめた拳で硬い土のグラウンドを何度も殴りつけた。


痛みなど感じなかった。


胸の中で渦巻く嫉妬と焦燥感に比べれば、肉体的な痛みなどちっぽけなものだった。


先ほど、寮の食堂で耳にした噂が、彼の心を掻き乱していた。


「ラグナスとリシェル様が、親の決めた政略結婚で婚約するらしいぞ」


「えぇっ!? あの二人が? お似合いじゃない!」


そんな生徒たちの無邪気な会話が、まるで毒のように彼の耳に突き刺さった。


(ありえない……! リシェル様は、この俺が……この俺が、誰よりも深く愛しているんだ! なのに、なぜよりによってラグナスなんかが……!)


ドレイクは誰にも言えない秘密を抱えていた。


完璧な優等生として振る舞う彼の裏で、落ちぶれた名門ヴァレンティア家の令嬢、リシェル・ヴァレンティアに対して、入学当初から狂おしいほどの恋心を抱いていたのだ。


彼女が誇りを失いかけ、周囲から陰口を叩かれてもなお、気高く凛と振る舞う姿に、ドレイクは心を奪われていた。


本当であれば、落ちぶれた彼女を救い出し、自分の愛と力で再び輝かせ、その隣に立つのはこの俺であるべきだったのだ。


それなのに、なぜ。


彼が彼女を遠くから見守り、適切なタイミングでアプローチしようと計画を練っている間に、ただの鈍感な男であるラグナスが、彼女の心を(特殊能力のおかげで偶然にも)射止めようとしているのか。


――『お前があまり深追いするな……』


かつてカフェテリアで彼が口にした言葉。それは、親友としての心配などではなく、自分自身の醜い独占欲から出た言葉だったのだ。


「まだだ……まだ、結納が執り行われたわけじゃない。この俺が……この俺が、あんな鈍感男にリシェル様を奪われるなんて、絶対に許してたまるか!」


ドレイクは冷たく歪んだ笑みを浮かべ、夜空に輝く月を見上げた。


その瞳には、親友への友情など微塵も感じられない、ドス黒い決意が宿っていた。


友情と、抑えきれない独占欲の境界線が音を立てて崩れ去っていく。


夜の静寂の中、親友の裏切りとも言える密かな企みが、静かに、そして確実に動き出そうとしていた。















第12話:二人の距離


王国魔法学園の魔術実習室。


床には複雑な魔法陣が描かれ、壁際には無数の実験器具が並んでいる。


午後の実習の時間、生徒たちが二人一組になって課題に取り組んでいた。


運命のいたずらか、あるいは誰かの意図か。


ラグナスとリシェルは、その実習で同じ班に組み込まれていた。


(どうしよう……! まさか、ラグナス様と同じ班になるなんて!)


リシェルは顔を真っ赤に染め、心臓が口から飛び出しそうになるのを必死で抑えていた。


手元では、課題である小さな光の球を生成する魔術を練習しているはずが、緊張のあまり指先が震え、光の球が明滅を繰り返している。


一方、ラグナスも内心では激しく動揺していた。


先ほど学園長から婚約の通告を受けて以来、初めてリシェルと顔を合わせるのだ。


彼女がこの婚約のことを知っているのか、知っていたらどう思っているのか。


それを確かめたくて、彼女を見る視線がどうしても熱を帯びてしまう。


――『あぁぁぁどうしよう! さっきからラグナス様の熱い視線を感じるわ! なに? 私の顔に何かついてる!? それとも、やっぱり婚約のことで怒ってるの!? あーーもう、死にたい!!』


脳内に響くリシェルの悶絶の叫び。


それを聞いたラグナスは、少しだけ安堵の息をついた。


少なくとも、彼女がこの婚約を喜んでいないわけではないらしい。


「あ、あの……リシェル」


ラグナスが勇気を出して声をかけると、リシェルはびくっと肩を震わせた。


彼女は顔を真っ赤にしたまま、それをごまかすようにぐっと顎を引いた。


そして、いつものようにツンと冷え切った声音で言い放つ。


「な、なによ……! 実習中なんだから、私に話しかけないでくれる? あんたの顔を見ていると、魔法の集中力が乱れるんだけど!」


冷酷なまでの塩対応。


周囲の生徒たちが、ちらりとこちらに視線を寄せる。


だが、今のラグナスには、その言葉が彼女の照れ隠しにすぎないことが痛いほどよく分かっていた。


――『言っちゃった……! また冷たいこと言っちゃったわよ私……! 本当は、本当は「ラグナス様」なんて呼んで、二人で仲良く魔法の練習なんて夢みたいだったのに! あぁぁぁ馬鹿馬鹿私の馬鹿!』


脳内に響く悶絶の嵐。


あまりのギャップの激しさに、ラグナスは心の中で盛大にずっこけそうになるのを必死でこらえた。


「あ、ああ、すまない。でも……その、体調は大丈夫か?」


ラグナスが心配して優しく微笑むと、リシェルはぎょっとしたように目を丸くした。


いつもなら怯えるか気まずそうに目を逸らすはずのラグナスが、なぜか穏やかな笑みを浮かべていたからだろう。


リシェルは動揺を隠すように、さらに声のトーンを上げて言い返す。


「な、なにを勝手に心配して気味の悪い……! 私の体調なんてどうでもいいでしょ! 早く自分の課題を終わらせなさいよ、この鈍感男!」


吐き捨てるようにそう言うと、リシェルはバッと顔を背け、顔を真っ赤にしたまま手元の魔導書に顔をうずめた。


――『い、言っちゃった……! あんなひどいこと言って、嫌われた、絶対嫌われたわよ私……! でも、でもラグナス様、全然怒ってない……? もしかして、私のこと……愛してるの!?』


遠ざかる背中から、そんな混乱と期待が入り交じった心の声がかすかに聞こえてくる。


その様子を、少し離れた実験台から、冷たい目でじっと見つめている男の影があった。


ドレイク・ハルバードだ。


彼は誰にも気づかれないように拳を固く握りしめ、その唇を硬く結んだまま、二人の背中から静かに視線を外したのだった。















第13話:ツンデレの限界


放課後の旧校舎の廊下には、夕暮れの斜光が長く伸び、静寂が漂っていた。


普段は生徒が多く行き交うこの場所も、この時間になると人気がほとんどなくなる。


その静かな空間で、ラグナスは一歩、また一歩とリシェルに歩み寄っていた。


「ちょっと、どこまでついてくる気よ……! ここはもう誰もいないんだからね!」


リシェルは背中を旧校舎の古い木製の壁にぴたりと預け、これ以上下がれないところまで追い詰められていた。顔は熟れたトマトのように真っ赤で、潤んだ瞳を大きく見開きながら、精一杯の強がりを声に乗せている。


その手には、震える教科書がしっかりと握りしめられていた。


(逃げ場はもうない……!)


ラグナスは彼女の目の前でぴたっと足を止め、まっすぐにその瞳を見据えた。


政略結婚の噂を聞いてから、ずっと胸の中に溜まっていた想いが、もう抑えきれなくなっていた。


彼女のトゲのある言葉の裏に隠された本音を、自分はすでに知っている。


「リシェル。お前の本当の気持ちを、もう隠さなくてもいいんだよ」


ラグナスのその穏やかで、しかし確信に満ちた声に、リシェルは息を呑んだ。


胸の奥で、カチリと何かが音を立てて崩れ去る。


――『嘘……! なんで? なんでそんな優しい目で私を見るの……? 私の本当の気持ちって……もしかして、全部……?』


脳内に響いてきたのは、恐怖ではなく、言い知れぬ動揺と切なさが入り交じった叫びだった。


リシェルの防衛本能が、最後の力を振り絞って彼女の口を開かせる。


「な、何言ってるのかしら……! 私の本当の気持ちなんて、あんたなんかには絶対分からないわよ! 私が考えてることなんて、ただ『あんたみたいな鈍感男が早く目の前から消えてくれればいいのに』ってことだけよ!」


吐き捨てるような、いつもの冷たい塩対応。

だが、その声音は微かに、そして激しく震えていた。


そして、彼女の心の声は、完全に泣き叫んでいた。


――『あぁぁぁぁもう無理! 耐えられない! 私の馬鹿! 口を開けば嘘しか出てこない呪いにでもかかってるの!? 本当は、本当は行かないでって縋りたいのに! ラグナス様が好きすぎて、胸が張り裂けそうなのよ!!』


そのあまりにも切なく、愛おしい心の声を聞いた瞬間、ラグナスの胸が熱く締め付けられた。


もう、これ以上すれ違わせるわけにはいかない。


「リシェル」


ラグナスは一歩踏み込み、彼女の細い両肩をそっと包み込むように掴んだ。


壁とラグナスの体に挟まれたリシェルは、あまりの急な出来事に思考が停止したかのように、全身を硬直させた。


「っ……!? な、なにをする気よ、急に……!」


「お前のその言葉が全部嘘だって、俺には分かってる」


ラグナスの真剣な瞳が、リシェルの目をしっかりと捉えた。


「冷たくされるたびに傷ついたし、お前が俺を嫌っているんだって何度も諦めかけた。だけど……お前の本当の声が、俺には聞こえるんだ」


「本当の……声……?」


リシェルは目を見開き、掠れた声で繰り返した。


その瞳に、大きな涙の粒が溜まり始める。


「そうだ。お前がどれだけ俺のことを想ってくれていて、どれだけ恥ずかしがり屋で、どれだけ不器用なのか……俺には、全部痛いほど伝わっている」


ラグナスのその言葉を聞いた瞬間、リシェルのなかの「ツン」の壁は、音を立てて完全に崩れ落ちた。


「っ……ばか……!」


リシェルはもう、顔を隠すことも、強がることもできなかった。


彼女は両手で顔を覆い、あふれ出る涙をそのままに、その場に崩れ落ちるようにしゃがみ込んだ。


「うっ……うぅ……! ばか、大馬鹿野郎よ、私は……!」


ぽろぽろと零れ落ちる涙を拭うこともせず、リシェルは震える声で、ついに自分の本当の言葉を紡ぎ出した。


「大嫌いなんかじゃない……! 本当は、誰よりも大好きで……! あなたの隣にずっといたくて……政略結婚の話を聞いたときも、怖くて怖くてたまらなかったのよ……! もしあなたが私のことを嫌いだったらどうしようって、怖くて震えてたのよ……!」


長年閉じ込めていた本音が、夜の静まり返った旧校舎に溶けていく。


それは、彼女が生涯で初めて見せた、偽りのない素顔だった。


ラグナスはしゃがみ込み、震えるリシェルの背中を優しく、そして力強く抱き寄せた。


「知ってるよ。……俺も、ずっとお前が好きだ、リシェル」


温かい体温と、優しい声に包まれた瞬間、リシェルはもう我慢できなくなり、ラグナスの胸に顔をうずめて声を上げて泣いた。


すれ違い続けていた二人の心が、ようやく真っ直ぐに重なり合った瞬間だった。

















第14話:ソフィアの忠告


放課後のカフェテリアは、甘いお菓子と紅茶の香りが漂い、生徒たちの楽しげな話し声で賑わっていた。


窓際の席に座るリシェル・ヴァレンティアは、目の前に置かれたカップの中の紅茶が冷め切っていることにも気づかず、ぼんやりと外を眺めていた。


(あぁ、昨日の旧校舎でのこと……夢じゃなかったわよね……)


昨日の夜、ラグナスに本当の気持ちをぶつけ、そして彼からも同じだけの想いを聞かされた瞬間を思い出し、リシェルの顔が再び熱を帯びた。


あんなに素直に、あんなに熱く抱きしめられたのは、生まれて初めての経験だった。


「ニヤケすぎよ、リシェル」


ふっと気怠げで、しかし温かい声が頭上から降ってきた。


顔を上げると、親友のソフィア・レーヴェンが、一冊の分厚い歴史書を脇に抱えながら、呆れたような微笑みを浮かべてそこに立っていた。


ソフィアはそのままリシェルの向かい側の席に腰を下ろし、慣れた手つきで眼鏡の位置を直す。


「べ、別にニヤケてなんてないわよ!」


リシェルは慌てて顔を手で覆ったが、隠しきれない喜びが声に滲み出ていた。


「嘘おっしゃい。昨日の夕暮れ時、旧校舎の方から真っ赤な顔をして寮に駆け込んできた挙句、夜通し枕に顔を埋めて悶絶していた令嬢がどこの誰だか、私は知ってるわよ」


「なっ……!? そ、それは……!」


リシェルはバッと顔を上げ、顔面を真っ赤に染めた。


まさか自分の行動が、すべてソフィアに見透かされていたなんて。


「まあいいわ。あなたがあの鈍感……じゃなくて、ラグナス君とようやくマトモな関係になれたのなら、親友としてこれほど喜ばしいことはないわ」


ソフィアは小さく笑うと、手元のティーカップに視線を落とした。


その表情には、親友の幸せを心から祝福する色が宿っていた。


「でもね、リシェル。忠告しておかないといけないことがあるわ」


「忠告……?」


リシェルの喜びが、微かな不安へと変わった。


「ええ。あなたたちの関係が公になった今、学園中が注目しているわ。特に……面白くないと思っている連中もね」


「面白くないって……誰が?」


リシェルが小首を傾げると、ソフィアは窓の外の夕空へと視線を投げ、少しだけ声のトーンを落とした。


「例えば、あなたの家門とフェルディオ家の政略結婚を快く思わない貴族派閥の連中とか……。あるいは、個人的な感情であなたたちの仲を邪魔しようとする……誰かさんとか、ね」


「誰かさん……?」


リシェルには心当たりがなかった。だが、ソフィアの鋭い眼差しは、何か確信めいたものを捉えているようだった。


「まあ、今は深く考えなくていいわ。ただ、油断だけはしないで、ということよ。あなた、恋をすると周りが見えなくなるタイプだから」


「そ、そんなことないわよ! 私はいつだって冷静沈着で、気高いヴァレンティア家の令嬢――」


「はいはい、分かったわ。昨日の夜、ラグナス君の胸で『大好き~!』って泣きじゃくっていた令嬢がどの口で言うのかしら」


「うぅ……っ!」


リシェルは真っ赤になった顔を再びテーブルの上に突っ伏した。


そんな彼女の頭を、ソフィアはまるで妹をあやすかのように優しくポンと撫でた。


「さあ、愚痴はこれくらいにして、今日の課題を片付けましょう。これからの波乱を乗り越えるためにも、ヴァレンティア家の誇りにかけて、赤点は回避すること!」


「うぅ……善処するわ……」


リシェルは真っ赤になった顔を再び教科書の中にうずめながら、心の中で何度も「次は絶対に負けないわ!」と誓うのだった。


だが、その彼女の決意が、学園の裏でうごめくドレイクの陰謀によって、さらに過酷な試練に晒されることを、彼女たちはまだ知る由もなかった。















第15話:食堂の凍てつく空気


王国魔法学園のランチタイム。


巨大なステンドグラスから柔らかな陽光が差し込む食堂は、午後からの授業に向けたエネルギーを補給する生徒たちの活気で満ちあふれていた。


色とりどりの制服が揺れ、ナイフやフォークが皿と擦れ合う賑やかな音が心地よく響いている。


だが、その一角にある特定のテーブルだけは、まるで別の季節が訪れたかのように凍てついた空気が漂っていた。


「なあ、みんな聞いてくれよ! さっき中庭で見かけたんだけどさ、やっぱりミレーユさんはいつ見ても素晴らしい優しさで溢れているよな!」


ローランが満面の笑みを浮かべ、フォークを大きく振って熱弁を振るう。その声は周囲の喧騒にかき消されず、妙にクリアにテーブルの上に響き渡った。


ラグナスは目の前のスープに視線を落としたまま、げんなりとした顔で頭を抱えた。


(おいローラン、頼むから少しは空気を読んでくれ……。ミレーユがあんなに自分のコンプレックスで悩んで泣いたばかりだっていうのに、なんでそんな斜め上の応援の仕方をするんだ……)


先日の件があってから、ローランなりの不器用な励ましのつもりなのかもしれないが、当のミレーユの名前をそんなデリカシーのない文脈で出すのは逆効果でしかなかった。


案の定、少し離れた席に座っていたミレーユが、びくっと肩を震わせて顔を真っ赤にし、居心地悪そうにうつむいているのが視界の端に見える。


しかし、そのローランの的外れすぎる発言に、最も激しく反応したのはラグナスではなく、隣に座っていたドレイクだった。


ガチャン、と。

ドレイクが手に持っていたシルバーのナイフを、皿の上へ乱暴に置いた。静かな食堂の中では異様に大きく響くその音に、周囲の生徒たちの視線が数人、ちらりとこちらに向けられた。


ドレイクの顔から、いつもの余裕のある笑みが綺麗さっぱり消え失せていた。その整った顔立ちは険しく歪み、瞳の奥には抑えきれない焦燥と苛立ちが渦巻いている。


「……おい、ローラン」


低く、押し殺すようなドレイクの声が落ちた。


「んだよ、ドレイク。そんな怖い顔してさ。俺,何かおかしなこと言ったか?」


ローランは首を傾げ、能天気な笑みを崩さない。その無神経さが、今のドレイクの逆鱗に触れたらしかった。


「お前は、少し……いや、いい加減に黙ってろ」


「は? なんだよ急に。俺はただ、ミレーユさんの素晴らしさを――」


「黙れと言っているんだ!」


ドレイクがテーブルを鋭く睨みつけながら声を荒げた。普段、誰に対しても温和で頼れる相談役として振る舞っているドレイクがこれほど露骨に感情を爆発させるのは、入学以来誰も見たことがない珍事だった。


瞬間、彼らの周囲一帯の空気がピタリと凍りついた。


近隣の席に座っていた生徒たちが会話を止め、何事かとこちらをじっと見つめている。


(どうしたんだ,ドレイク……? いつもならローランのバカ発言なんて笑って流すか,軽く突っ込んで終わりなのに……)


ラグナスは驚きを隠せず,親友の顔を見つめた。


ドレイクの額にはうっすらと脂汗がにじみ,拳を固く握りしめているその手がわずかに震えている。


(……待てよ)


脳裏に,これまでのことがフラッシュバックする。


リシェルとの政略結婚の噂が流れたとき,やけに必死に「深追いするな」と止めてきたドレイクの姿。

そして,自分自身の恋の悩みだけでなく,周囲の人間関係や状況の歯車が狂っていくことに対する,言い知れぬ焦り。


ドレイクもまた,何かを必死に隠し,耐え忍んでいるのではないか――そんな嫌な予感が,ラグナスの胸をかすめた。


「……すまない。少し,頭に血が上った」


周囲の視線に気づいたのか,ドレイクは深く息を吐き出し,強ばった表情を何とか元に戻そうと顔を引きつらせた。だが,その声のトーンは最後まで震えたままだった。


ローランもさすがに気まずくなったのか,気まずそうに鼻をこすりながら「……あ,ああ,悪かったよ」と小さく呟き,自分のスープに目を戻す。


気まずい沈黙がテーブルを支配する中,ラグナスは冷めたスープの表面に映る自分の顔を見つめながら,心の中で重いため息をついた。

それぞれの想いが複雑に絡み合い,もう誰も,元の平穏な日常には戻れないところまで来てしまっている――そう確信するのに,十分すぎる出来事だった。















第16話:ミレーユの決意


放課後の静寂が戻りつつある中庭で、新緑の若葉が風にそよぎ、木漏れ日が地面にまだら模様を描いていた。


ラグナスとリシェルの婚約が公になり、学園中が祝福ムード(一部を除いて)に包まれる中、ミレーユ・カスタニエは一人、ベンチに腰掛けて遠くの空を眺めていた。


(……やっぱり、ローラン君は、あんなにも無自覚に……)


先日の食堂での出来事が、まだ彼女の心に重くのしかかっていた。ローランの「巨乳至上主義」は今更な話だが、彼が自分の名前をあんな公衆の面前で、しかも頓珍漢な文脈で出したこと。


それを親友のドレイクが激しい剣幕で否定したこと。


その複雑なやり取りが、彼女の胸を締め付けていた。


ミレーユは無意識に、自分の制服の胸元をそっと押さえた。


膨らみ始めたばかりの、ささやかな胸のライン。


誰かと比べるようなことではないと分かっていても、どうしてもローランの言葉が頭をよぎり、深いコンプレックスを刺激してしまう。


(私だって、好きでこんな……。もっと、もっと女性らしい身体だったら、ローラン君も少しは見てくれたのかな……)


ポロリと、一筋の涙がミレーユの頬を伝い落ちた。


彼女は慌てて手の甲で涙を拭い、俯きながら土をいじり続けた。


その時だった。


「おい、カスタニエ。こんなところで一人で何をしているんだ?」


聞き覚えのある、少し気怠げで、しかしどこか間の抜けた声が頭上から降ってきた。

ミレーユがビクッと肩を震わせて顔を上げると、そこにはローラン・デュ・モンテが立っていた。相変わらず整った顔立ちだが、なぜか今日はいつもより心なしかバツが悪そうな表情を浮かべていた。


「ろ、ローラン君……? どうしてここに……」


ミレーユは慌てて立ち上がり、涙で濡れた顔を隠すように俯いた。


「いや、通りがかったらお前が一人でいたからな。……で、何で泣いてるんだよ? まさか、俺がこの前言ったことでまだ傷ついてるのか?」


ローランは頭をガシガシとかきむしりながら、困ったような、しかし隠しきれない罪悪感を滲ませた顔で問いかけた。彼なりに、食堂でのドレイクの怒号と、ミレーユの走り去る姿が心に引っかかっていたらしかった。


「そ、そんなこと……! ローラン君の言葉なんて、もう気にしてませんから……!」


ミレーユは必死に笑顔を作ろうとしたが、その声は震え、瞳には再び涙が溢れそうになっていた。


「嘘つけ,めっちゃ泣いてるじゃねえか……!」


ローランは狼狽したように両手を宙に浮かせ、どうしていいか分からない様子でその場に突っ立っていた。彼が女性を泣かせるなんて,今までほとんどなかった経験だった。それも,いつもニコニコしている温和なミレーユを。


「お,おい……! その,なんだ……。俺が悪かったよ! お前を傷つけるつもりなんて,これっぽっちもなかったんだ! ただ,俺の理想を語りたかっただけで……!」


ローランはしどろもどろになりながらも,精一杯の謝罪の言葉を口にした。その顔は赤く染まり,普段の軽薄な態度は微塵も感じられない。


「ローラン君……」


ミレーユは,彼がそこまで焦って謝ってくれるとは思っていなかった。ローランなりの不器用な優しさが伝わってきて,さっきまでのコンプレックスが少しだけ,溶けていくような気がした。


「だから,泣くなよ……! その,なんだ。俺は……俺は,お前のその,真面目なところとか……,いつも優しいところとか,好きだぞ! ……って,何を言ってるんだ俺はぁぁぁ!!」


ローランは我に返ると,自分の口走った言葉に顔を真っ赤にして絶叫した。

その言葉は,彼自身が今まで公言してきた「巨乳好き」というポリシーを根底から覆すようなものだったからだ。


「えっ……?」


ミレーユは目を見開いた。今,彼は確かに「好き」と言った。それがどういう意味の「好き」であれ,自分のコンプレックスを全て受け入れてくれたような,そんな温かい言葉に聞こえた。


ミレーユの心臓が激しく波打つ。彼女は顔を真っ赤に染めながら,潤んだ瞳をローランに向けた。


「ローラン君……。今の言葉,本当ですか……?」


「えっ? あ,ああ……いや,その,あはは……」


ローランは気まずそうに目を逸らしながら,誤魔化すように苦笑いを浮かべた。しかし,その耳まで赤く染まっているのは隠せなかった。


その時だった。


木陰から,その様子をじっと見つめるラグナスとリシェルの姿があった。

ドレイクとの一件をきっかけに,二人は少しずつ,お互いの本当の気持ちを通わせ始めている最中だった。


――『わぁ,ローランがミレーユさんに告白してる!? なんて無自覚なタラシなのよ! でも……ミレーユさん,嬉しそう……』


脳内に響くリシェルの興奮した心の声と,それを温かい目で見守るラグナス。


誰もがそれぞれの悩みを抱え,時には傷つき,時にはすれ違いながらも,それぞれの恋模様が静かに,しかし確実に動き出そうとしていた。


噴水の水飛沫が夕日にきらめき,二人の距離を優しく包み込んでいた。















第17話:暴かれる本音


放課後の旧校舎の廊下には、埃っぽい空気と、西日による長い影が落ちていた。普段は人気のないこの場所も、今日は違った。


荒い足音が二つ、石畳の床を叩く。

ラグナスがリシェルの手首を掴み、半ば強引に人気のない奥へと引っ張っていた。


「ちょ、ちょっと、ラグナス様!? どこに行くのよ、急に! 人に見られたらどうするの!?」


リシェルは顔を真っ赤に染め、心臓が口から飛び出しそうになるのを必死で抑えながら、それでも彼の手を振りほどこうとはせずに小走りでついていった。手首から伝わる彼の体温が、普段の冷静な令嬢の仮面を溶かしてしまいそうだった。


ラグナスは足を止めると、振り返ってリシェルの細い両肩をガシリと掴んだ。


旧校舎の薄暗い一角。


二人の距離は、これまでになく近かった。


「リシェル。お前の態度の裏にある本音、もう全部知っているんだ」


ラグナスの真剣な瞳が、リシェルの潤んだアメジスト色の瞳をまっすぐに見つめた。


「えっ……?」


リシェルは息を呑んだ。鼓動が早鐘を打つ。


(まさか……私の、このどうしようもないツンデレの性格まで、全部……?)


「俺には聞こえるんだ。お前がいつも心の中で叫んでいる、本当の心の声がな」


ラグナスが静かにそう告げた瞬間、リシェルの時が止まった。


頭の中が真っ白になる。この世の終わりのような恥ずかしさが、全身を駆け巡った。


――『嘘でしょ……? 嘘だと言ってよ神様! 私の、あの悶絶するほどの恥ずかしい本音を……全部、この人に聞かれてたの!? あぁぁぁぁもう死にたい! 今すぐこの場で穴を掘って埋めてほしい!』


脳内に響くリシェルの絶叫。

それを聞いたラグナスは、少しだけ困ったような、しかし愛おしそうな笑みを浮かべた。


「あんなに冷たくされて、毛嫌いされているとばかり思っていたのに……本当は、俺のことが好きで好きでたまらなくて、でも素直になれなくて、いつも逆のことばかり言ってしまう不器用な令嬢……それがお前の本当の姿なんだろ?」


「っ……!」


リシェルはもう、顔を隠すことも、強がることもできなかった。


彼女は両手で顔を覆い、あふれ出る涙をそのままに、その場に崩れ落ちるようにしゃがみ込んだ。


「うっ……うぅ……! ばか、大馬鹿野郎よ、私は……!」


ぽろぽろと零れ落ちる涙を拭うこともせず、リシェルは震える声で、ついに自分の本当の言葉を紡ぎ出した。


「大嫌いなんかじゃない……! 本当は、誰よりも大好きで……! あなたの隣にずっといたくて……政略結婚の話を聞いたときも、怖くて怖くてたまらなかったのよ……! もしあなたが、あんなツンケンした女なんて絶対に嫌だって、私のことを拒絶したらどうしようって、怖くて震えてたのよ……!」


長年閉じ込めていた本音が、旧校舎の薄暗い廊下に溶けていく。

それは、彼女が生涯で初めて見せた、偽りのない素顔だった。


ラグナスはしゃがみ込み、震えるリシェルの背中を優しく、そして力強く抱き寄せた。


「知ってるよ。……俺も、ずっとお前が好きだ、リシェル」


温かい体温と、優しい声に包まれた瞬間、リシェルはもう我慢できなくなり、ラグナスの胸に顔をうずめて声を上げて泣いた。

すれ違い続けていた二人の心が、ようやく真っ直ぐに重なり合った瞬間だった。


西日が二人を優しく包み込み、長い影を一つに重ねていた。
















第18話:歪んだ笑顔


放課後の王国魔法学園。生徒たちのざわめきが徐々に遠ざかり、夕暮れの茜色が中庭の木々や石造りの校舎を染め上げていく。


多くの生徒たちが寮へと引き上げていく中、人のまばらになった東棟の回廊に、一人の男子生徒が立ち尽くしていた。


ドレイク・ハルバード。


彼の視線の先、少し離れた廊下の窓際で、ラグナスとリシェルが並んで歩く姿があった。


二人の間に交わされる言葉こそ聞こえないものの、ラグナスがふと見せた穏やかな笑みと、それに少し顔を赤らめながらもどこか安心したように微笑むリシェルの横顔は、誰の目から見ても親密な恋人同士そのものだった。


――結納の準備が進み、二人の婚約が公式なものとして学園中に浸透しつつある現実。


その光景を目の当たりにした瞬間、ドレイクの胸の奥底で、煮え滾るようなドス黒い感情が激しく逆巻いた。


(……笑っていられるのも、今のうちだけだ)


ドレイクは、白く美しい歯を見せながら、しかしその瞳の奥には一切の光がない冷徹な笑みを浮かべた。

普段、誰からも頼られ、温厚で非の打ちどころのない優等生として振る舞っている彼の仮面は、今や音を立てて剥がれ落ちていた。


(ラグナス。お前はいい奴だよ。困っていれば助け、悩んでいれば相談に乗ってやった。だが……よりによって、リシェル様だけは別だ。あの方を救い出し、真にふさわしい男として隣に立てるのは、この俺以外にありえない)


長年、胸の奥底に封じ込めていた執着と独占欲。


それが嫉妬という猛毒によって変質し、もはや引き返せないところまで来ていた。


ラグナスが持っている「女性の心の声が聞こえる」という特殊な能力など、ドレイクは知る由もない。


ただ、自分が長年積み上げてきたはずの計画が、あの鈍感な親友の無自覚な優しさによって狂わされていくことが許せなかった。


「……もう、猶予はないな」


ドレイクはポケットに手を突っ込み、冷たく冷え切った声で呟いた。


夕日が彼の整った顔立ちの半分を闇に沈め、残された半分の顔には歪んだ野心が不気味に張り付いている。


――二人の幸せな未来を根底から覆し、リシェルを自分の手元に引きずり出すための「最後の一手」。


その冷酷な企みが、静かに、そして確実に実行に移されようとしていた。















第19話:動き出す歯車


夜の帳が完全に下り、王国魔法学園の静まり返った敷地内を、一人の人影が音もなく歩いていた。


月明かりに照らされたその顔は、いつもの温和で親しみやすい優等生・ドレイクのものではない。


冷酷なまでの決意と、歪んだ独占欲に満ちた別人のような表情だった。


ドレイクが向かったのは、生徒たちが立ち入ることを禁じられている旧魔導研究棟の裏手だった。


そこに放置された古びた物置小屋の扉を、周囲を警戒しながらそっと押し開く。


(……これでいい。いや、これしか方法はないんだ)


小屋の中には、かつて闇市場や禁忌の魔術を好む者たちが使っていたとされる、古い魔道具や資料が埃をかぶって転がっていた。ドレイクはその中から、目的の品――相手の精神や記憶に微細な干渉を与え、誤認や混乱を引き起こすという危険な古文書と、小さな黒い魔石を取り出した。


もちろん、ドレイク自身は本格的な黒魔術の使い手ではない。


だが、家柄の伝手を頼って手に入れたこの禁忌の道具を使えば、ラグナスとリシェルの間に決定的な亀裂を入れることは十分に可能だった。


「ラグナス、お前が悪いわけじゃない。だが、リシェル様は……俺のものだ」


ドレイクは冷たく呟くと、黒い魔石をぎゅっと手のひらに握りしめた。


魔石が微弱な黒い光を放ち、彼の冷徹な野心を肯定するかのように鈍く明滅した。


翌日。

学園はいつもの穏やかな朝を迎えていたが、その水面下では、確実に破滅へのカウントダウンが始まっていた。


中庭のベンチで、ラグナスとリシェルが並んで教科書を広げている。


昨日の今日でまだ少し気恥ずかしさが残っているのか、リシェルは耳まで真っ赤に染めながらも、幸せそうに微笑んでいた。


――『あぁ……本当に夢みたい……。ラグナス様とこうして並んでお勉強できるなんて……。昨日の告白、恥ずかしかったけど、本当に良かった……!』


脳内に響くリシェルの甘く愛おしい心の声を聞きながら、ラグナスもまた、自然と笑みをこぼしていた。


これまでのすれ違いが嘘のように、二人の間には温かく穏やかな空気が流れていた。


だが、その二人を、少し離れた廊下の窓ガラスの向こうからじっと見つめる視線があった。


ドレイクだ。


彼は冷たい笑みを浮かべ、ポケットの中で黒い魔石に指を這わせた。


――二人の運命を狂わせる罠が、ついに動き出す。
















第20話:結ばれる未来、動き出す運命


放課後の王国魔法学園。正門へと続く並木道には、夕暮れの柔らかい茜色が差し込み、帰路につく生徒たちの楽しげな話し声が響いていた。


その並木道の中央を、ラグナスとリシェルは並んで歩いていた。

一歩進むごとに、お互いの手が触れそうになり、その度にリシェルは顔を真っ赤にして小さく身悶える。けれど、以前のように冷たい言葉で突っ撥ねることはもうなかった。


――『あぁ、どうしよう……! ラグナス様の歩幅に合わせて歩くの、こんなに緊張する……。でも、すごく……すごく幸せ……!』


脳内に響くリシェルの甘く弾むような心の声を聞きながら、ラグナスは優しく微笑んだ。


政略結婚という重い運命から始まった二人だったが、互いの不器用なすれ違いを乗り越えた今、その絆は誰にも引き裂けないほど固く結ばれていた。


「なあ、リシェル」

「な、なによ、急に……」


ラグナスが声をかけると、リシェルはびくっと肩を揺らしながらも、期待に満ちたアメジスト色の瞳をまっすぐに向ける。


「これからも、ずっとこうして隣にいてくれ」


そのストレートな言葉に、リシェルは顔をトマトのように真っ赤にし、両手で頬を押さえながら小さくうなずいた。


「っ……当たり前でしょ! 私を誰だと思ってるのよ、ヴァレンティア家の次期当主……じゃなくて、あなたの……その、婚約者なんだからね!」


照れ隠しにいつものツンとした口調を使ってみせるものの、その声は甘く震え、瞳にはあふれんばかりの幸福が宿っていた。

二人の間に流れる空気は、どこまでも温かく、穏やかだった。


――だが。


その並木道から少し離れた中庭の影から、二人の姿をじっと見つめる冷たい視線があった。


ドレイク・ハルバードだ。


彼はその整った顔に作り物の優しい笑みを張り付けたまま、ポケットの中で黒い魔石を固く握りしめていた。魔石から微かに放たれる黒い光が、彼の影を不気味に歪ませる。


(いいだろう、ラグナス。今はせいぜい幸せを噛み締めておくんだな。……だが、すべてを奪うのは、これからだ)


友情の仮面を完全にかなぐり捨てたドレイクの瞳に、狂気に満ちた執着の炎が宿る。


結納の儀、そして学園の未来を揺るがす最大の試練が、いま、静かに幕を開けようとしていた。


二人の温かな日常の裏で、運命の歯車は冷酷に、そして確実に狂い始めていた――。




(完)



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『塩対応の婚約者が、実は俺のことが大好きすぎて心の声がダダ漏れな件』 塩塚 和人 @shiotsuka_kazuto123

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