贖罪

 十年後


 御園玲奈


 ベッドの横で鳴り続けるアラームを止めて起き上がった。久々にあの日の夢を見た。最近は見ていなかったのに今日夢に出てきたのは恐らく、今日がアレの日だからだろう。

 今日、私の職場は体験入園を実施する。安全に子供たちを受け入れるためにやらないといけないことが多すぎることと、人手が明らかに不足していることが合わさり、昨日は終電ギリギリで退勤したのに、今日もほとんど始発の電車で出発しなければならない。

 それでも、子供たちのためならと自らを奮い立たせて出勤した。

 もう二度と、フィンのような事故は起こさない。そう決意して、子供たちを近くから見守ることができる幼稚園の教諭になった。

 確かに、小さい怪我をする子は多くいる。実際、私のエプロンの中には消毒液とキャラクターを描いた絆創膏が常備されてる。でも、私の担当している子供で骨折や窒息などの危険な怪我をした子はいない。それが私の誇りだった。


「せんせえー、みてみて!」

 顔を見て、保護者から受け取ったカウンセリングシートを思い出した。

 この子は確か詩織(しおり)ちゃん。人見知りしなくて、お絵描きが好き。食物アレルギーはなくて、特に気に掛ける項目はない――

 彼女はのびのびと自由に書かれた、園庭で鬼ごっこをしている絵を差し出していた。

 そこに書かれている人の服が、全て水色であることに気付いた。

「きれいな絵だね。なんでみんなのお服を水色で塗ったの?」

「わたしがだいすきのいろだからだよ!」

 拙い言葉で絵の紹介をする彼女を見て、思わずフィンを思い出してしまった。

 あの子も確か、水色が好きだと言っていた。私が描いた空の絵を気に入って好きになったとも言っていた。

 彼女から絵の説明を一通り受けた後、私はこの場を他の先生たちに任せ、バックヤードへと駆け込んだ。

 いつもは何ともないのに、今日はやけにフィンのことを思い出してしまう。思わず涙がこぼれてしまった。最近、何かと体調が悪いことが多いのに、こんな精神状態じゃ仕事にならない。なんとかしなければ。

 心を落ち着かせた後、子供たちのいる場へと戻った。今は絵本の読み聞かせの時間のようで、子供たちは新米の先生が読んでいる絵本に釘付けになっていた。

 前までは絵本を読むのに精一杯だったのに、今日はちゃんと子供の反応をよく見ながら読めている。これなら、この場は任せきりで大丈夫だろう。

 子供たちの成長だけでなく、新米の先生の成長も、同じように嬉しく思える。彼女たちが一人前になった時、どんな保育をするのだろうか。

 未来予想に花を咲かせていると、絵本の時間が終わり、お昼寝の時間になった。ひとりでトイレに行ける子はトイレまで誘導し、おむつの子供たちは一度このタイミングで履き替えさせる。

 数人程度なら楽な仕事だが、人数が多いのでどうしても時間がかかる。全員分のおむつ替えが終わる頃には、もうすやすやと寝息を立てている子もいた。ひとり寝始めると、周りもつられて順調に寝ていくのが不思議だ。

 全員を寝かしつけた後、余りの吐き気に早退を申し出た。人手が少ないのに申し訳ないと園長に言うと、そんなことは気にしないでいいから早く病院に行った方がいいと言ってくれた。

 

 何ともないとは思うが、念のためかかりつけの病院で診断を受けることにした。自分の体の心配ではなく、もし子供にうつる病気だと困るという考えからだ。

 診察室でおめでただと言われ、喜びと困惑が同時に来た。確かに、結婚を前提に付き合っている彼氏がいるし、そういう行為もしていた。避妊はしていたのだが、どうやら上手くできていなかったらしい。お医者さんに言わせれば、避妊の失敗はそこまで珍しい事ではないらしい。詳しいことは彼氏と相談しなさいと言われ、一旦帰宅した。

 彼氏は仕事中にも関わらず、すぐに電話に出てくれた。事情を説明すると、残業をせずにまっすぐ私の家に帰ってきてくれた。

 彼氏は私の妊娠に混乱はするものの、とても喜んでくれた。これを機に結婚しようとまで言ってくれた。しかし、私は出産についてあまり肯定的でなかった。自分の手で自分の子を育てる自信がなかったのだ。

 もし何かの事故で子供を死なせてしまったらどうしよう。子供の脆さと弱さを知っている分、出産の喜びよりも不幸な事故を強く考えてしまう。

 本来なら親に相談するのが一番なのだろうが、事情を知らない親に報告したところでこの悩みが解決するとは思えなかった。この相談ができるのはあの二人しかいない。私は三人だけのグループに、ただ「相談したいことがあるから会いたい」とだけ送った。


 成瀬沙織


 当直室で仮眠をとっている時、コードブルーが発令された。私はすぐにジャケットを羽織ってNICUへと走った。

 既に多くの医師、看護師が慌ただしく動き回っていたので、どのベッドの患者が危険なのか、すぐに分かった。

 今日のNICUの当直医とは同期の知り合いで、共に新人医時代を駆け抜けた仲間だった。もちろん再会を惜しむ暇は無く、私は指示を受けて心臓マッサージを行った。

 少しして心拍は再開したが、緊急手術が必要だとわかり、専門外の私は手術室でオペの担当に後を任せた。

 時計を見ると、残された仮眠の時間はあと五分程度しかなかった。結局、ほとんど仮眠を取れていない。しかし、子供の心拍をとりあえずだが再開させられた、それだけで十分に精神疲労は回復した。

 緊オペの結果は後で見に行こう。どうせPICUに行けばすぐにわかることだ。そう思い、私はICUへと帰った。


 私はこっちの世界に帰ってきた後も、白くなり動かなくなったフィンとその手をずっと握っている放心状態の玲奈の顔を忘れることはできなかった。

 一人でも多くそんな不運な死から救いたい。治らない症状であれ、少しでも安らかな看取りができるようにしてあげたい。そんな思いから、一浪の末に医学部医学科に合格した。

 運のいいことに、留年はせず医師国家試験にも無事合格し、今は救急救命医としてこの大学病院で勤務をしている。

 一人でも多くの命をこの手で救う。これが私の選んだ道だった。


 日勤医の勤務時間帯になった後も私はまだ病棟にいた。部署柄、緊オペには慣れているのだが、PICUの子の緊オペとなるとどうしても心がざわついてしまう。オペ室の前で手術の成功を祈りながら待つ家族を見ると、どうしても他人事だとは思えなかった。私はやらなくてもいい仕事を自ら増やし、オペ室の前を何度も行き来した。

 太陽が昇り切った後、緊オペが終了した。無事に成功したようで、家族も、医師も安堵の顔を浮かべている。あんなに小さな体で十数時間に及ぶオペを耐えきったのだ。本当に、人間の持つ生存本能の力強さを体感させられる。

 ぬいぐるみでも借りて持って行ってあげよう、そう思いプレイルームでぬいぐるみを選んだ。

 数あるぬいぐるみの中で、ひときわ目を引く物があった。特別大きいわけでも、綺麗なわけでもない普通のトラのぬいぐるみ。フィンと遊んだ時、寂しい時や従者に叱られた時にいつも一緒にいる相棒なのだと教えてもらった。

 私はそのトラのぬいぐるみを脇に抱え、PICUへと向かった。

 家に帰ってシャワーを浴びて一息ついた頃、玲奈からメールが届いた。どうやら相談したいことがあるらしい。

 久しぶりに二人の顔も見たかったし、日程が合えばぜひ会いたいと返事を返した。


  九条栞奈


 待ち合わせ場所には十五分ほど早く着いた。まだ誰も到着していないようなので、学生たちから届いているメールに返信をしながら彼女たちを待つことにした。

 この時期になると、単位を懇願する旨のメールが多い。化学科の学生からはこんなメールは来ないのに、一般教養科目として開講している授業の受講生からは毎年数十通届く。毎回授業に来ていれば単位は取得できるはずだし、過去問も数パターンを数値だけ変えて使いまわしているだけだ。問題のレベルも、中学生程度の化学知識だけで合格点が取れる難易度に設定しているはずだから、この手のお願いに応じる気はない。

 学生の名前と学籍番号だけを入力すればメールを送ることができるテンプレートを駆使し、なんとか待ち時間の間に、不躾なメールすべてに返信を送ることが出来た。

 私は今、アカデミアの世界に身を置いている。生化学分野を研究し、あっちの世界で見た治癒のポーションをなんとか再現することはできないかと研究をしている。

 現代の科学知識的に、私が生きているうちに治癒のポーションが完成することはないだろう。しかし、いつか治癒のポーションが完成した時、私の書いた論文がどこかで役に立っていればそれだけで満足だと思っている。


 二人とも、集合の五分前くらいに到着した。

「ごめん、お待たせ」

 二人とも、到着の第一声はこれだった。集合時間には十分に間に合っているのに、待たせたことを謝ってくる。これが彼女たちの優しさの表れだった。

「じゃあ行こっか」

 そういって沙織が先頭に立って歩き出した。スマホのマップを自在に使いこなして道案内をしてくれる沙織がすごく心強く感じた。

 少し歩いて到着したのは、外装がおしゃれな洋食屋さんだった。少し混んでいたが、沙織が事前に予約してくれていたので、すぐに席に案内してもらえた。

 席に着いた途端、沙織が奇妙なことを言い出した。

「このお店、ノンアルコールのドリンクも多いから安心していいよ、玲奈」

 私はその唐突な発言の意味が分からなかったが、玲奈はそれを聞いて、観念したように笑いながら答えた。

「沙織ってすごいね。私のことなんでもわかってるんだから。そうなの。私、妊娠したんだ」

 その告白に、私も沙織も、おめでとうは言わなかった。相談をしたいことがある、つまり玲奈は子供を産むかどうかを迷っているのだとわかったからだ。

 注文したものが届いた時、玲奈の妊娠のことは一度忘れて私たちは仕事や近況の話をしていた。三人とも、その方がこの食事会が楽しい思い出になることを理解していた。

 二人とも、仕事が大変ながら充実した生活を送っているようで安心した。あの時、こちらの世界へ帰還してもいいのかと泣きながら質問してきた時とは大違いだった。


 デザートが届いた頃、やっと玲奈の悩みを聞く番がきた。

「最初にも言ったけどさ、私のお腹の中、赤ちゃんがいるんだ。まだ性別もわかんないんだけどね。それで……」

「出産するか迷ってるんでしょ?」

 言葉に詰まる玲奈に代わって、沙織が相談の要点を切り出した。

「そうなの。出産した後、ちゃんと育てられるのかなって。私、幼稚園の先生してるから子育ての大変さを間近に見る機会が多くて。それに、フィンの時みたいな事故が起こったらどうしよう、って気持ちが頭から離れなくて」

 玲奈の懸念は痛いほどよくわかった。あんな事故を目の当たりにしたのだから、妊娠をしても手放しで喜べないのも無理はない。

 なんと声を掛ければよいのかわからず、考え込んでしまった。誤った事を言って話をこじらせるのは良くないと思って、頭の中で正解を模索した。

 先に口を開いたのは栞奈だった。

「玲奈は最初に妊娠を知った時、どう思ったの?」

 玲奈は意外にも、この質問に即答した。

「すごく驚いたけど、それと同じくらい嬉しかった。でもよく考えて、育てられるのか不安になったの。絶対に子供の将来の事は無責任な考え方をしたくないから」

 そう語る玲奈は、とても辛そうに見えた。しかし私は、生みたい気持ちと子供の未来を優しく憂う気持ちが衝突するその姿に心打たれた。

「そんな悩みを持てる時点で、玲奈は良いお母さんだよ」

 私が発したその発言に、玲奈は目を伏せた。

「私ね、ずっと思っていたことがあったの。幼稚園の子たちは成長していつか卒業する。でも私は、その先も見守りたい。幸せな未来を見届けたい。でも、そんな身勝手な理由で産んだらダメな気がするの」

 涙ぐむ玲奈を、沙織がそっと抱き寄せた。

 その光景に、あの日の記憶が鮮明に蘇った。あの日も泣く玲奈を沙織が抱きしめていた。

「ダメじゃないよ、きっと。生む理由が何であれ、子供の幸せと成長を願うならばきっと」

 その言葉が、私の玲奈への思いだった。


 あれから四年後、三歳になった玲奈の子供を連れて四人でファミリーレストランへ来た。今回は結婚が決まった沙織のお祝い会だ。昔とは違って小さな参加者がいるから、女子会の会場は子供が急にぐずり出してもなんとか許される場所で行っている。

 前回は三週間ほど前、私の論文投稿のお祝いに公園でピクニックをした。

 この先も、彼女とは関りを持ち続けるのだろう。一緒に泣くこともあれば、一緒に笑うことだってあるだろう。私はただ、この三人とその家族で、ごく平凡な幸せを願うだけで十分だった。


 家に帰ると、郵便受けに大きな封筒が入っていた。差出人の名前も住所も書かれていなかったので躊躇ったが、好奇心に勝てずに開封した。

 中には、懐かしい糸綴じの本と手紙が二通入っていた。



栞奈、そろそろ会いに行くから、お砂糖たっぷりの紅茶を淹れて待っててね! ソフィーより



近々、ソフィーを連れてそちらへ行きます。

追伸 約束通り、同封した本は私以外存在を知りません。

シャルル=セドリック・ド・ヴァロワ

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