第51話 逃げていい時は、逃げるの

噂というものは、飯代を払わないくせに席を取る。

男物の衣を盗み、馬と銭を持って逃げた女――そんな話が十字坡まで流れてきた翌日、潘巧雲はいつも通り帳面を開いていた。

顔色は変わらない。

ただ、筆を持つ指に昨日までなかった固さが残っている。

こういう女は面倒だよォ。

泣いてくれた方が、まだ何をすればいいか分かりやすい。

「気になるかい?」

アタイが聞くと、潘巧雲は帳面から顔を上げた。

「気にならないと言えば、嘘になります」

「逃げた女の噂が道を歩いてるんだ。怖くない方がおかしいねェ」

「怖いです」

あっさり認めた声に、厨房の奥で豆を選っていた迎児が顔を上げる。

「奥様……」

「でも、怖いからといって、今日の酒代は消えません」

潘巧雲はそう言って、また筆を動かした。

いいねェ。

この女は、怖がることを恥だと思っていない。

怖いものを怖いまま横へ置いて、それでも目の前の仕事へ手を伸ばす。

前世で学生相手に何度か話したことを思い出した。

不安がなくなるまで待っていたら、動ける日はいつまで経っても来ない。

先に行動を決めておけば、感情に全部を持っていかれずに済むことがある。

教壇の上から言う分には簡単だったけどねェ。

自分の店で実演されると、妙に腹へ刺さる。

その晩、十字坡はよく混んだ。

道を歩く噂というのは、一つ入ってくると勝手に仲間を増やす。

どこそこの役人が女を探している、いや亭主の家の者だ、馬まで盗んだらしい、男も殺したらしい――最後の辺りになると、もう誰も出所を知らない。

酒の席ほど、人間の想像力が無料で働く場所はないねェ。

「亭主から逃げる女なんざ、よほどの悪女だろうよ」

卓の一つから酔った声が上がった。

迎児の肩が揺れる。

アタイは男を見る。

潰すほどじゃないが、放っておくには邪魔だ。

ところが潘巧雲の方が先に酒壺を持って動いた。

「お客様、盃が空いております」

「おう、気が利くな」

男が伸ばした手は酒壺ではなく、潘巧雲の袖へ向かう。

その途中へ壺の丸い腹が入った。

鈍い音が卓に落ち、男の指は布へ届かない。

「熱い料理も参りますので、お手元へお気をつけくださいませ」

声は柔らかいままだ。

立つ場所だけが違う。

卓の角を挟み、相手の腕がまっすぐ届かない位置にいる。

盆は身体の前へ置き、少し下がればすぐ通路へ出られる。

男は気づいていない。

気づかないまま酒を注がれ、機嫌を直した。

「それでよ、逃げた女ってのは――」

「今夜のお泊まりはお一人でございますか?」

話まで切った。

男が一瞬きょとんとする。

「いや、連れが馬屋にいる」

「でしたら、奥ではなく手前のお部屋がよろしいでしょう。朝早くお立ちなら、馬屋にも近い方がようございます」

「お、おう。そうしてくれ」

逃げた女の話から宿の話へ、女へ伸ばしかけた手から盃へ。

潘巧雲は喧嘩をせずに、客そのものを別の流れへ乗せた。

アタイは思わず笑いそうになる。

殴れば早い。

でも客が減れば銭も減るし、倒れた男を運ぶ仕事まで増える。

その点、潘巧雲のやり方は面倒なくせに安上がりだった。

商売では大事なことだよォ。

少しして、別の卓から迎児が呼ばれた。

「おい、こっちへ来い」

大柄な男だ。

酒はかなり入っているのに、足元までは崩れていない。

一番面倒な頃合いだねェ。

迎児は盆を持ち直し、卓の真正面には入らず斜めへ立つ。

「ご注文でしょうか?」

「近くで聞けよ」

「ここで聞こえます」

男の顔から笑いが消えた。

「生意気だな」

伸びた手を見て、迎児は盆を胸の前へ立てる。

指が盆へ当たり、小さな音がした。

それだけでアタイと潘巧雲には十分だった。

迎児の顔から血の気が引き、足が床へ張りついたように動かなくなる。

怖いものは怖い。

そこで身体が止まることだってある。

問題は、その次だ。

潘巧雲がすぐ振り返った。

「迎児、四番の汁物を見てきて」

迎児の目が動く。

「……はい」

声は震えていたが、足は厨房へ向かった。

男が舌打ちする。

「何だよ、注文の途中だぞ」

「じゃあ、アタイが聞くよォ」

代わりに卓へ寄ると、男はこっちを見た途端に視線を逸らした。

分かりやすいねェ。

小娘には手を伸ばせても、アタイには伸ばさないらしい。

「酒かい、飯かい。それとも外へ出たいのかねェ?」

「……酒だよ」

「なら盃を出しな」

男は黙って盃を置いた。

話が早くて助かるよォ。

閉店後、迎児は厨房の奥へ座ったまま、しばらく立てなかった。

泣いてはいない。

ただ、水の椀を持つ指が震えている。

潘巧雲がその隣へ座った。

「よく下がれたわ」

迎児は首を振る。

「足が止まりました」

「止まった後は動いたでしょう?」

「奥様が呼んでくださったからです」

「次は、自分で下がるの」

厳しいねェ。

そう思った直後、潘巧雲は迎児の手から盆を取った。

「今日はもう卓へ出なくていいわ。皿を洗って」

「でも、それでは逃げているみたいです」

「逃げていい時は、逃げるの」

アタイは少しだけ眉を上げた。

なるほどねェ……

亭主の家を出て、父の家にも戻らず、柴進の屋敷で三日ほど世話になった後もそこへ居つかなかった。

迎児を連れ、また馬へ乗って十字坡まで来た女が言うと、重みが違う。

逃げることを恥だと思ったら、この女は自分の足でここまで来られなかったんだろうねェ。

だから迎児にも言える。

逃げろ――

ただし、逃げる先まで決めておけ。

翌日、潘巧雲は閉店後の卓へ盆を一枚置いた。

迎児だけでなく、張青や女中たち、手下まで呼ばれている。

数日置きに手伝いへ来る姉ちゃんも、その日はたまたま残っていた。

「何の寄り合いだい?」

アタイが聞くと、潘巧雲は盆を持ち上げる。

「客に触られそうになった時の動きを決めます」

張青が微妙な顔になった。

「それは、その……自分も聞くので?」

「店の者ですから」

「はい」

即座に座った。

こういう時の潘巧雲は、フェロモンの悪魔どころじゃない。

「客の手が届く場所へ、自分から深く入りすぎないでください。盆を身体の前へ置けば、客の手が直接身体に届くのを防げます。注文を聞く時も、できれば相手に盃や箸を持たせてくださいませ」

姉ちゃんが盆を持って試している。

「こうか?」

「大娘さんの場合は、盆がなくても大丈夫かと」

「何で?」

「客の方が近づきません」

「それ褒めてるのかい?」

アタイが吹き出した。

「姉ちゃんは接客防衛そのものじゃないか!」

「便利ならいいだろ」

本人は気にしてない。

ほぼ人間の柵だねェ。

手下の一人が聞いた。

「それでもしつこい客なら?」

潘巧雲がアタイを見る。

「二娘さんを呼びます」

「最終兵器みたいに言うんじゃないよォ」

「その前にあたいでもいいぞ」

姉ちゃんが加わる。

「兵器を増やすな!」

張青がぼそっと言った。

「十字坡の防犯体制が、急に物理寄りになりましたな」

「元からだよ!」

笑いが起きた。

でも、やっていること自体は悪くない。

怖がるなとも、我慢しろとも言わない。

危なくなったらどう下がるかを、危なくなる前に決めておく。

現代なら対処行動なんて名前をつけるんだろう?

名前なんてどうでもいい。

盆一枚で手が止まり、一声で逃げられるなら、その方がずっと役に立つ。

「迎児」

呼ぶと、小娘が顔を上げた。

「怖いのは悪いことじゃないよォ。怖いと思えるから、危ない奴に早く気づける」

「でも、怖いと動けなくなります」

「だから先に決めるんだろ。怖くなくなるのを待ってたら、夜が明けちまう」

潘巧雲が笑う。

「その通りです」

「アンタに褒められると、なんか腹立つねェ」

「では、今後は控えます」

「そこは言いなァ!」

張青が笑ったので足を踏もうとしたら、綺麗に避けられた。

最近こいつ、こういう時だけ成長が早い。

それから数日、迎児の立ち位置は少しずつ変わった。

卓へ深く入らず、盆を間へ置くようになった。

妙な客がいれば潘巧雲や他の女中が用事を作って呼び戻すようになり、店全体で逃がす形ができていく。

意外なことに、大半の客はそれで十分だった。

触れなければ酒を飲み、話が続かなければ飯を食う。

本当に面倒な奴だけ、アタイか姉ちゃんが見る。

潘巧雲は店の女を守りながら揉め事を減らし、ついでに銭まで増やした。

逃げてきた女のくせに、やることがえげつないねェ。

何日か経った夜、常連の男が酒を飲みながら笑った。

「十字坡は女が増えて、前より明るくなったな」

張青が答える。

「酒も飯も以前より回っておりますので」

「いや、女だよ女」

そこへ潘巧雲が近づいた。

男の顔がにやける。

「お客様」

「何だい?」

「先ほどのお酒代がまだでございます」

笑顔が消えた。

「い、今払うところだ」

「先ほども、そう仰いました」

男は慌てて銭を出した。

明るくなった?

違うねェ。

前より逃げ場ができただけだ。

迎児は半歩引くことを覚え、潘巧雲は店の中にその余地を作った。

アタイの役目は、そこへ無理やり踏み込む奴がいた時だけ止めればいい。

夜の終わり、迎児が厨房でぽつりと言った。

「少しだけ、怖くなくなりました」

潘巧雲は豆を選りながら首を振る。

「怖いままでいいわ」

「え?」

「怖くても動けるなら、それでいいの」

迎児はしばらく考え、小さく頷いた。

十字坡へ来た頃は、潘巧雲の後ろへ荷物みたいに隠れていた小娘だ。

今は、自分の足で半歩下がる。

たかが半歩。

でも、命を拾うには十分なこともある。

店じまいを始めようとした頃、外から馬の蹄が聞こえた。

噂か、役人か。

どっちにしても面倒だ。

戸口へ目をやると、雨に濡れた旅人が一人、息を切らして暖簾をくぐった。

「酒より先に、水をくれ」

「金はあるのかい?」

「ある。だが先に聞いてくれ。独龍岡の方で騒ぎだ」

潘巧雲の手が止まる。

独龍岡――

この辺りでその名が出る時は、たいてい飯より先に面倒が来る。

旅人は水を一息で飲み干した。

「祝家荘で盗人が捕まった」

「盗人くらい、どこにでもいるだろォ」

「そいつが梁山泊の者だと言い出したらしい」

店の空気が変わった。

梁山泊――その名前は、酒より速く道を走る。

「で、何を盗んだんだい?」

旅人が息を整えて答えた。

「鶏、一羽だそうだ」

「……鶏?」

潘巧雲が顔を上げる。

アタイは笑いかけて、やめた。

鶏一羽で終わる話なら、雨の中を馬で飛ばして噂なんか運ばれてこない。

その時、道の向こうでもう一頭、馬が鳴いた。

誰かが来る。

嫌な予感ってのは、当たる時ほど安っぽい顔をしてやって来る。

しかも今度は――鶏一羽かい。

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