第50話 潰れないようにしているだけです
「回しているのが、二娘さんだからです」
潘巧雲の指が、帳面からアタイへ向いている。
アタイは笑うのをやめた。
拾って六日の女に、店の一番痛いところを突かれるとは思わなかったねェ。
「じゃあ、どうするんだい?」
「二娘さんが動かなくても済む仕事を増やします」
「言い方!」
姉ちゃんが腕を組んだまま頷いた。
「それなら分かる」
「姉ちゃんまでアタイを働かせない方向へ行くな!」
「全部やる必要はないって話だろ?」
腹立つけど、その通りだ。
潘巧雲は帳面を開いたまま、店先から厨房、宿の方へ視線を動かした。
「大娘さんは店の流れをご存じですし、張青殿は帳面と仕入れを把握しております。女中たちも、自分の仕事が分からないわけではございません。ただ、忙しくなると全員が目の前の穴へ飛び込んでしまいます」
「穴が開いてるなら埋めるだろ」
姉ちゃんが言う。
「大娘さんの場合、ご自分で埋めすぎます」
「埋められるからな」
「そこなんです」
潘巧雲が即答した。
姉ちゃんが黙る。
珍しいものを見ちまった。
姉夜叉を一言で止めた女、初めてじゃないかねェ?
「まず、店先と厨房と宿で、その時間に誰がいるかを決めます。足りない時だけ別の場所から呼びます」
「最初から分けるのか」
姉ちゃんの目が変わった。
こうなると早い。
元々、姉ちゃんは現場を見て人を動かすのが得意だ。
ただ、自分まで穴へ飛び込んで、最後は腕力で片づけちまう。
「夜に客が増えるなら、昼の片づけを早めに終わらせとけばいいわけだな」
「はい、大娘さんが毎回、空いたところへ入る必要もなくなります」
「じゃあ酒壺は先に出しとくか?」
「全部ではなく、その晩に使う分だけでよろしいかと」
「残ったら戻す手間があるもんねぇ」
潘巧雲が少し笑った。
もう話が通じてる。
何だい、この二人……
アタイを置いて店を改善するんじゃないよォ!
張青まで帳面を抱えて寄ってきた。
「印を決めておけば、字の読めぬ者にも使えそうでございますな」
「そのつもりです」
「厨房、宿、馬屋、店先あたりでしょうか?」
「張青まで乗るな!」
「お嬢、店が楽になる話でございます」
「アタイだけ蚊帳の外みたいになってない?」
三人がこちらを見る。
その間が嫌だ。
「何だい?」
姉ちゃんが言った。
「二娘は店主だろ」
「そうだよォ」
「なら、全部に入らなくていいじゃないか」
正論を怪力女から投げられると、妙に痛いねェ。
その日のうちに潘巧雲と張青が簡単な印を決め、姉ちゃんが「これは分かりにくい」「こっちは似てる」と横から直した。
見ていると、姉ちゃんは思った以上にこういうことができる。
細かい帳面仕事を好むわけじゃないが、誰をどこへ置けば詰まらないかはすぐ分かるらしい。
「この女中は厨房より店先だな」
「なぜです?」
「客の顔を覚えるのが早い。こっちは逆に客と喋るの苦手だから、宿の方がいい」
潘巧雲が頷いた。
「わたしも、そう思っておりました」
「じゃあ替えよう」
早い。
アタイが口を挟む前に決まった。
「ちょっと待ちな。店主の確認は?」
張青が筆を止める。
「反対でございますか?」
「……反対じゃないけど」
「では決まりで」
「決裁が軽い!」
翌朝、新しい割り振りで店を開けた。
当然、最初から綺麗にいくわけがない。
手下の一人は自分の印を忘れ、女中は前の癖で厨房へ集まり、張青は担当でもない酒壺の残りを数え始めた。
姉ちゃんはもっとひどい。
「大娘さん、それは別の方が運びます」
「でも、あたいなら一回で済む」
両腕に荷を抱えたまま答える。
「その方が覚えません」
「……そうか」
姉ちゃんは素直に荷を戻した。
戻せるんだ。
前ならそのまま全部運んでたよね?
昼前になると、客が一度途切れた。
厨房から包丁の音が聞こえる。
反射で立ち上がると、潘巧雲が入口にいる。
「二娘さん、どちらへ?」
「厨房だよォ」
「今は人がおります」
「だから?」
「座っていてください」
言われている意味が分からなかった。
いや、意味は分かる。
納得したくないだけだ。
「アタイの店だよォ?」
「存じております」
横から姉ちゃんまで来た。
「二娘、休め」
「何で姉ちゃんまでそっちなんだい!」
「今、足りてるだろ」
「昨日まで足りないところ全部自分で埋めてた女が言う!?」
「昨日覚えた」
成長が早すぎる!
追い払われるように店先へ戻り、仕方なく卓の端へ座った。
何もすることがない。
客は一人で静かに飯を食い、厨房では料理が進み、宿の方からは女中が部屋を片づける床板の音が聞こえてくる。
誰もアタイを呼ばないのが、妙に落ち着かない。
包丁の音が一度止まると、何かあったのかと思う。
戸が開けば顔を上げるし、酒壺の蓋が鳴っただけで身体が動きかける。
前世では教壇に立って、人が役割に適応していく話をした。
役割が長く続けば、それをやめる方に不安を感じることもある。
学生相手なら簡単に言えたよ。
助教は黙ってろ。
アタイはいま、休憩してるだけで妙に怖いんだよォ。
「お嬢」
張青が来た。
「何?」
「こちらへ」
差し出された帳面を見る。
新しい欄が増えている。
そこにアタイの名前があった。
「これ何?」
「休む時間でございます」
「帳面に書くな!」
「忘れられますので」
「店主の休憩を管理するな!」
「三度厨房へ向かわれました」
数えてたのかよォ!
潘巧雲を見ると、知らん顔で客へ酒を出している。
しかも客が、さっきより機嫌良さそうだ。
困ったことに、この女は客の扱いまで上手い。
笑いすぎず、近づきすぎもしないのに、客は勝手に嬉しそうになって酒を追加する。
「潘巧雲」
「はい?」
「アンタ、わざとその辺を歩いてない?」
「どの辺でしょう?」
「酒を追加しそうな客の辺り」
一瞬だけ沈黙した。
目を逸らしたね?
「客席の流れを見ております」
「フェロモンまで店の動線に入れるな!」
姉ちゃんが帳面を覗きながら笑った。
「あたいにもできるか?」
「姉ちゃんは別の効果が出るよォ」
「何だ?」
張青が答える。
「大娘お嬢が近くに立たれると、支払いが早くなります」
「なら同じじゃないか」
同じじゃない!
客に酒を追加させる女と、会計を急がせる女を同じ看板に置く店がどこにあるんだよォ。
でも、その日の夜は以前より静かに終わった。
誰かが倒れることもなく、料理が遅れて怒鳴る客も減り、同じ宿の部屋を二度片づけるような無駄もなかった。
アタイは結局、途中で何度か口を出したものの、自分で鍋を持つことは一度もなかった。
それが妙に気持ち悪い。
店が、自分の手から少し離れた気がした。
翌々日、姉ちゃんがまた来た。
潘巧雲が帳面を開く前に、自分で割り振りを見ている。
「今日はあたい、夕方から店先だな」
「はい、その前に宿の方を一度見ていただければ」
「分かった」
もう普通に使ってる。
「姉ちゃん」
「何だ?」
「覚えるの早くない?」
「楽になるんだから覚えるだろ」
「悔しくないの?」
姉ちゃんは本気で分からない顔をした。
「何が?」
そういうところなんだよねェ。
自分より上手いやり方があれば、その場で持っていく。
腕力だけじゃない。
姉ちゃんが怖い理由、ちょっと分かった気がする。
それから数日、店は少しずつ形を変えた。
潘巧雲は自分で何もかも仕切ろうとはせず、大娘には大娘のやり方を残し、張青には帳面を任せ、女中たちにもそれぞれ仕事を持たせた。
アタイも、客を見て揉め事を判断し、誰かが決めきれない時に決めればいい。
前みたいに全部へ飛び込まなくても、店はちゃんと動いている。
いや――それだから動くのかもしれない。
閉店後、潘巧雲が帳面を閉じたところで訊いた。
「アンタさァ、人を楽させるのが好きなの?」
「いいえ」
「即答?」
「楽にすることが目的ではございません」
「じゃあ何だい?」
潘巧雲は少し考えた。
「潰れないようにしているだけです」
その言葉だけは、笑えなかった。
父ちゃんは最後まで、店を開けろと言った。
だからアタイは開けた。
開け続ければ、それで継いだことになると思っていた。
でも、店は暖簾を上げるだけじゃ残らない。
誰か一人が倒れただけで止まり、その人にしか分からない仕事まで抱えていたら、長くは保たない。
それを潘巧雲は、逃げてきて一週間そこそこで直し始めた。
「嫌な女だねェ」
「何か至らぬ点が?」
「褒めてるんだよォ」
「こちらでは、やはり同じ意味なのですね」
「そこ覚えなくていい!」
潘巧雲が笑った。
それから数日後、東の道から来た商人が、酒を飲みながら妙な話を始めた。
「そういや、この辺りに女が逃げてこなかったか?」
潘巧雲の筆は止まらない。
迎児も厨房にいる。
アタイは酒壺を置きながら聞いた。
「女なんていくらでも通るよォ。どんな女?」
「亭主の家から逃げた女さ。男物の衣を盗んで、馬と銭まで持ち出したらしい。連れの娘も一緒だとか」
厨房の奥で、椀が小さく鳴った。
姉ちゃんが商人を見る。
張青は何も言わない。
潘巧雲だけが、何事もなかったように帳面へ筆を走らせていた。
けれど、一本だけ。
墨の線が、わずかに曲がった。
噂が十字坡まで来た。
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