第4話 みんな知っている
足音が聞こえる前に、目が開いた。
相変わらず暗い。
灯りだけが揺れている。
まだ来ていない。
扉も開いていない。
なのに、アタシはもう扉を見ていた。
――嫌だ。
違う。
待っていたわけじゃない。
そう思うのに、布団の中で膝を寄せている。
肩も丸めている。
息も殺している。
いつもの姿勢。
そう思った瞬間、喉が詰まった。
いつもの、じゃない。
外で床板が鳴った。
遅れて来た音だった。
身体が強張るより先に、頭の中で足音の続きを予測する。
少し重くて、途中で一度だけ間が空き、そのまま扉の前まで来る。
本当に、そうなった。
「……もう答え合わせいらないんだけど」
鈍い音が響き、扉が開いた。
男が入ってくる。
手には何か持っていたが、そちらは見ない。
見なくても、たぶん食べ物と水だと分かってしまう。
男はアタシを見ると、少し目を細めた。
「起きてたか?」
静かな声だった。
前なら、それだけで頭の中が真っ白になった。
今は意味まで入ってくる。
起きていたことを確認された。
ただそれだけ。
ただそれだけだと判断できてしまうことが怖い。
男は持ってきたものをテーブルへ置き、少し困ったように笑った。
「昨日よりは、少しマシそうだな?」
アタシは目を逸らした。
知らない男なのに。
勝手に部屋へ入ってくる男なのに……
どうして、そんな顔をする。
どうして、その声が昨日より近く聞こえる。
男は少し黙ってから、
「……なあ」
と呼びかけた。
肩が固まる。
男は近づかなかった。
それも、もう知っている。
こっちが怯えると止まる。
それ以上やらない。
待つ。
アタシの脳は、本人の許可も取らずに相手の行動パターンを蓄積していた。
「父ちゃん、なんかしたか? 二娘?」
息が止まった。
昨日聞いた言葉が、今度はもう一つ増えていた。
父ちゃん。
そして――二娘。
男の口から自然に出た。
まるで何年もそう呼んできたみたいに。
「……二娘?」
アタシの声が掠れた。
男は怪訝そうに眉を寄せる。
「お前だろ」
簡単に言わないでほしい。
「お前だろ」で人生の設定を確定されても困る。
公認心理師試験でも、自分の呼び名を第三者から突然知らされる問題なんて出なかった。
たぶん。
いや、絶対に出ない。
「情報開示の順番、雑すぎない?」
「何が?」
「こっちの話……」
また会話になった。
昨日から、こればかりだ。
意味の通じないことを言う。
男が聞き返す。
アタシが返す。
それだけなのに、やり取りが続いてしまう。
関係は会話の回数で作られるわけではない。
そんな単純な話ではない。
分かっている。
でも、同じ相手と言葉を交わすたびに、完全な他人だった距離が少しずつ削れているように感じる。
二娘――
頭の中で、その呼び名が残った。
知らない。
そんな名前は知らない。
なのに、男は迷わずアタシへ向けて使った。
この身体が「二娘」と呼ばれてきたのなら、アタシが知らない方がおかしい。
ここでは……
「……ほんと、最悪」
「またそれか?」
男が困った顔をする。
「何が最悪なんだよ?」
説明できるわけがない。
昨日まで大学で心理学を教えていた女が、目覚めたら十代半ばの少女になっていて、知らない男から娘扱いされ、今日は名前まで追加された。
説明して理解してもらえたら、その方が怖い。
「人生相談するにはケースが特殊すぎるのよ」
「だから何の話だ?」
「いいから気にしないで」
男が黙った。
その顔を見て、しまったと思う。
気にしないで。
普通に言った。
まるで知り合いに言うみたいに。
男は少しだけ安心したように息を吐いた。
その反応を見た瞬間、胸の奥がまた緩む。
腹が立つ。
こちらが話す。
相手が安心する。
その安心した顔を見て、こちらの警戒まで少し下がる。
相互作用。
前にも頭に浮かんだ言葉が、また戻ってきた。
「理論の再現性、高すぎない……?」
「何が高いんだ?」
「今は聞かないで」
今度は、男が少し笑った。
笑わないでほしい。
もっと困っていてほしい。
いや、それも違う。
何を望んでいるのか、自分でも分からなくなってきた。
男はアタシの様子をしばらく見ていたが、やがて小さく息を吐く。
「本当に、どうしちまったんだよ?」
責める声ではなかった。
ただ心配していた。
だから困る。
アタシはこの男を知らない。
でも、この男はアタシを知っている。
それも、二娘という名前で……
関係の非対称性。
専門用語みたいに頭へ浮かべてみても、何も解決しない。
一方だけが相手を知っている状況は不安を生みやすい。
はいはい、知ってます。
「知識が全部、状況説明にしか使えないのどうにかならない?」
転生から帰る方法は教えてくれない。
時代も教えてくれない。
目の前の男が本当に誰なのかも証明してくれない。
ただ、「あなたが不安なのは自然です」とだけ説明してくる。
そんな資格、今いらない。
男が少し手を伸ばしかける。
肩が跳ねた。
すぐに止まった。
「……悪ぃ」
また謝った。
胸の奥が痛む。
これも嫌だった。
知らない男なら、嫌えばいい。
怖がればいい。
でも「父ちゃん」と名乗り、アタシを「二娘」と呼び、こちらが怯えるたび傷ついた顔をする。
そうなると、ただの脅威として扱い続けることが難しくなる。
「悪い人だった方が楽だったのに……」
小さく呟く。
男には聞こえなかったらしい。
それでいい。
もし聞こえたら、たぶんまた傷つく。
そこまで考えている自分に気づき、もっと嫌になる。
相手がどう感じるかまで気にし始めている。
昨日までは、そんな余裕すらなかった。
「順応って、ほんと勝手ね……」
男はテーブルへ目を向けた。
「今日は、もう寝とけ」
アタシが何も答えないと、それ以上聞かなかった。
持ってきたものを少し整えてから、扉へ向かう。
背中が見えた。
大きい。
最初からそうだったはずなのに、今は歩き方まで見ている。
床を強く鳴らさない。
扉も乱暴に開けない。
こちらの方を気にして、最後に一度だけ振り返る。
「何かあったら呼べ」
呼べるわけがない。
そう思った。
誰を。
何と呼ぶ。
父ちゃん?
喉の奥が詰まった。
その四文字を自分の口から出す想像だけで、身体が強張る。
「……現実逃避の方向、細かすぎるでしょ」
男がいなくなったあと、ようやく息を吐いた。
扉は閉まっている。
部屋は静かだ。
それなのに、さっき聞いた言葉だけが残っている。
父ちゃん。
二娘。
知らない。
そう思う。
何度も。
でも「知らない」と打ち消すためには、先にその言葉を思い出さなければならない。
思い出すたび、記憶に残る。
「皮肉にも程がある……」
忘れたい名前を、自分で反復して覚えている。
心理学者として最悪の自習だった。
どれくらい経ったのか分からない。
眠ったのかもしれないし、ただ目を閉じていただけかもしれない。
灯りの色が少し変わった頃、外から別の音が聞こえた。
いつもの足音ではない。
もっと遠い。
戸を叩くような音。
それから、人の声。
「孫元さん、いるかい?」
身体が固まった。
知らない声だった。
でも、呼ばれた名前はこの家の中へ向けられている。
孫元って誰?
中国人?
頭の中で考える。
男の顔が浮かぶ。
父ちゃん。
いや、待って。
まだ決まっていない。
勝手に繋げるな。
でも、他に誰がいる。
少し間があって、外の声が続いた。
「今日はやってる?」
やってる?
何を?
アタシは扉を見る。
男が出ていった方角。
家の外から誰かが呼んでいる。
その声に警戒はない。
何度も来たことがある場所みたいだった。
「十字坡には、他に店が無くてねぇ。閉まってると困るんだよ」
今度こそ、息が止まった。
十字坡。
頭の中で、その音だけが妙に鮮明に残った。
聞いたことがあるような気がする。
いや。
ない。
ある?
記憶を探ろうとした瞬間、別の恐怖が先に来た。
店。
ここは店なのか。
アタシが閉じ込められているように感じていたこの部屋の外には、人が来る。
客が来る。
飯を食うために。
あるいは泊まるために。
そこまで考えて、背筋が冷えた。
知らない家の中にいるだけだと思っていた。
違う。
この場所には外と繋がる役割がある。
人が来る理由がある。
店という名前がつけば、また一つ説明が増える。
なぜ食べ物があるのか。
なぜ人の出入りする音がするのか。
なぜあの男が何度も部屋を離れるのか。
また世界に筋が通ってしまった。
「……説明されるたびに逃げ道が減るんだけど」
誰に文句を言えばいいのか分からない。
外で男の声がした。
いつもの男。
「今日はまだ駄目だ。娘の具合が悪ぃ」
胸が跳ねた。
娘。
外の誰かへ、そう言った。
アタシのことだ。
たぶん。
いや、どう考えても。
「二娘ちゃんかい? まだ悪いのか?」
今度は名前まで出た。
知らない相手が、アタシの呼び名を知っている。
それが妙に怖かった。
この男一人の思い込みではない。
少なくとも外にいる誰かも、「二娘」という存在がここにいることを知っている。
役割が一人分の記憶だけではなくなる。
周囲から共有されている。
「外部証言まで追加しないでよ……」
誰にも聞こえないように呟いた。
もし複数の人間が、同じようにアタシを二娘と呼ぶのなら。
この世界では、それが正しい。
正しいというより、そう扱われる。
名前は本人の中だけにあるものではない。
他人から呼ばれることで固定される。
そんな当たり前のことを、今さら実感したくなかった。
外では会話が続いている。
「心配だねぇ。あの子、いつも元気なのに」
いつも。
また、その言葉。
アタシの知らない過去を、外の人間が知っている。
元気だった二娘。
客に顔を見せていた二娘。
この店にいた二娘。
アタシだけが知らない。
「……攻略本なしで主人公だけ記憶欠落って、ゲームとして欠陥じゃない?」
こんな時だけ、姉さんならどうするだろうと思う。
姉さんなら、名前や場所、人間関係を冷静に拾って、自分がどこに置かれているのか整理するかもしれない。
そういう人だった。
アタシだって、仕事ならそうする。
面接なら、断片的な情報を繋ぎながら相手の置かれた状況を確認する。
でも、自分の話になると駄目だった。
知るほど怖い。
孫元という男が父親で、ここが十字坡にある店、そして自分は二娘と呼ばれている。
断片だった情報が、勝手に一つの形へ繋がろうとする。
そこまで組み上がった瞬間、胸の奥が冷たくなった。
推論としては自然だった。
自然すぎる。
「……嫌な時だけ推論能力ちゃんと働くわね」
外で誰かが笑った。
「まあ、元気になったらまた顔見せてくれよ。二娘ちゃんがいないと寂しいからな」
顔を見せる?
アタシが?
客に?
意味が分からない。
いや、意味だけなら分かる。
店の娘なのだろう。
看板娘かもしれない。
その可能性へ辿り着いた途端、現代の記憶が妙な形で戻ってきた。
男子学生が前列へ集まる講義室。
研究室の前を必要もないのに通る学生。
「先生、今日も綺麗ですね」
そういう軽口を何度か聞いた。
アタシは適当に流していた。
今度は店?
「客寄せまで職歴継承しなくていいんだけど……」
笑えない。
妖艶なお姐さん助教から、知らない時代の店の娘。
肩書きだけ見ると、人生の方向性が雑すぎる。
でも、外の人間はアタシを知っている。
二娘ちゃん、と。
父親らしい男も同じ名前で呼ぶ。
偶然ではない。
この身体には、ここで生きてきた履歴がある。
アタシが知らないだけで。
そこまで考えた時、外の声が、少し近くなった。
「それで、二娘ちゃんはいるかい?」
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