第3話 理由ができる
どれくらい経ったのか、もう分からない。
灯りの揺れ方だけが、毎日同じだった。
部屋は寒い。
でも、最初ほどじゃない。
身体を丸め、布団を首の近くまで引き寄せ、お腹へ膝を寄せる。
そうすると、少しだけ楽になる。
手をつく場所も、布団を引く高さも、膝を寄せる角度も、いつの間にか迷わなくなっていた。
――嫌だ。
最初の日は、身体を起こすだけで考えていた。
手をどこにつけばいいのか、床はどれくらい冷たいのか、布団を動かせば何が見えるのか……
その一つ一つが未知で、動くたびに何かを受け入れてしまう気がした。
今はもう違う。
寒ければ布団を引く。
腹が痛ければ膝を寄せる。
灯りを見なくても、テーブルがどこにあり、水の器がどの辺りに置かれるのか分かる。
覚えたくて覚えたわけじゃない。
でも、脳はそんな事情を考慮してくれない。
「人間の学習能力って、本人の許可いらないのよねえ……」
教壇からなら、それらしい顔で説明できた。
環境に適応することは、生存のために必要な機能です。
便利な言葉だ。
当事者には、だいぶ迷惑だけど……
外で床板が鳴った。
身体が強張る。
でも、頭の中ではもう別のことが起きていた。
昨日と同じ足音。
少し重くて、途中で一度だけ間が空く。
扉の前で止まる。
そこまで思ったところで、本当に音が止まった。
息が詰まる。
「……当てたくないんだけど」
鈍い音とともに扉が開いた。
男が入ってくる。
湯気の立つお椀と、水の器。
お椀を先に置いて、水を後に置く。
昨日と同じだった。
胸の奥がざわつく。
何が起きるか分からない状況は怖い。
でも、次に何が起きるか分かるようになることも、今のアタシには十分怖かった。
予測可能性が増えれば、不安は下がりやすい。
知っている。
専門だから。
「知識って、こういう時だけ仕事熱心なの何なの……」
男がこちらを見る。
少し困ったように眉を寄せた。
「……まだ怖ぇか」
返事が出ない。
怖い。
ただ、最初の日とは種類が違っている。
あの日は、この男が何をするのか分からなかった。
今は少し知っている。
飯と水を置き、こちらが身体を縮めればそれ以上は近づかない。
食べろと怒鳴ることもなく、最後にはだいたい「無理すんな」「腹減ったら食え」と言って出ていく。
そこまで思い出して、背筋が凍った。
男の行動を覚えている。
それどころか、もう予測している。
「……最悪」
男が首を傾げた。
「何だ?」
「何でもない……」
普通に返事をしてしまった。
まただ。
昨日より自然に言葉が出たことへ気づき、今度は自分で口を閉じる。
男は少しだけ目を見開いたが、それ以上追及しなかった。
その態度も、もう知っている。
問い詰めない。
待つ。
こっちから何かするまで。
それが分かるだけで、最初より身体が固まらなくなっている。
知りたくなかった。
この男のことなんて、何一つ。
男はしばらく黙っていたが、やがて小さく息を吐いた。
「父ちゃん、何かしたか?」
頭の中で、何かが止まった。
「……父ちゃん?」
自分の声が、やけにはっきり聞こえた。
男の目が少し開く。
「喋ったな」
そこじゃない。
いや、確かに喋ったけど、今そこじゃない。
「父ちゃんって……」
男はますます困った顔をした。
「俺だよ」
あっさり言った。
まるで、説明する必要などないことみたいに。
当たり前だろう、とでも言うように。
アタシは男の顔を見る。
知らない。
何度見ても知らない男だ。
でも向こうは、アタシを知っている。
飯を持って、具合を気にして、怖がれば止まる。
そして今、自分を父親だと言った。
「ちょっと待って……」
情報量が急に増えた。
転生らしき現象だけでも、公認心理師試験の出題範囲を盛大に逸脱している。
十代半ばほどに見える知らない少女の身体に、知らない時代らしい部屋。
そこへ今度は、知らない父親まで追加された。
「世界観の説明、会話一個で済ませないでくれる?」
男にはもちろん通じなかった。
「何言ってんだ?」
「こっちの話……」
また答えてしまった。
それにも気づいたが、今はそれどころじゃない。
父親――
その言葉がついた瞬間、この男が昨日までとは違って見え始めた。
いや、男そのものは変わっていない。
変わったのは情報だ。
そして情報が、こちらの認識を変える。
親と娘――
その関係には、最初から大量の期待がくっついている。
親ならこうして、娘ならああする。
親子なら、この程度の距離は普通。
そこまで頭に浮かんで、ぞっとした。
「……役割って、ラベル一枚で勝手に増殖するのね」
講義で扱うなら、家族の中で与えられる役割やラベルが、相手への期待や見方までどう変えるのかを説明するところだった。
学生ならノートを取るところだ。
「アタシ本人を教材にするなっての……」
男が聞き取れなかったのか、少し近づいた。
身体が反射で縮む。
男はすぐ止まった。
その顔が曇った。
「……悪ぃ」
胸の奥が痛んだ。
やめてほしい。
本当に。
怒ってくれた方がまだ楽だった。
「父親なんだから言うことを聞け」とでも言われれば、反発できる。
勝手に触られれば、警戒できる。
でも、この男は怖がられたら止まる。
そして謝る。
「自己決定を尊重する父親とか、今いらないんだけど……」
公認心理師としてなら褒める。
娘の拒絶を無視しない。
無理強いしない。
距離を取る。
少なくとも、今ここで見ている範囲ではかなりまともだ。
だから困る。
悪い相手なら嫌えるのに。
男は俯き、少し間を置いてから言った。
「急に喋らなくなるし、怯えるし、飯も食わねぇし……」
言葉が途中で弱くなる。
「嫌われちまったのかと思った」
胸の奥が、また変なふうに痛んだ。
違う。
そうじゃない。
アンタを嫌ったんじゃない。
そもそも知らない。
昨日までのアタシには、現代の生活があった。
大学があった。
研究室があった。
学生がいて、姉さんがいた。
最後の電話まで覚えている。
『帰ったら連絡しなさいよ』
帰って、ちゃんと送った。
『帰った』
それが最後だ。
今ここで「父ちゃん」と名乗る男がどれだけ困った顔をしても、アタシの父親だと思えるわけがない。
そう思う。
なのに。
この身体の持ち主にとっては、違ったのかもしれない。
昨日までは普通にこの男を父と呼び、飯を食べ、言葉を返していたのかもしれない。
その日常を壊したのは――
そこで考えるのを止めた。
「いや、待って。アタシが罪悪感持つ案件じゃないでしょ」
状況が勝手すぎる。
転生の責任者がいるなら出てきてほしい。
話はそれからだ。
できれば責任の所在を明確にしたい。
姉さんなら、そこで喜びそうだった。
そんなことを考えた瞬間だけ、少し現代が近くなった気がした。
でも男の声ですぐ戻される。
「腹、まだ痛ぇのか?」
アタシは反射で腹を押さえた。
男の視線がそこへ落ちる。
しまった、と思う。
返事はしていない。
でも身体が答えてしまった。
男はテーブルのお椀を少しこちらへ寄せた。
湯気が揺れる。
胃が縮む。
喉が動く。
「少し食った方がいい」
命令ではない。
静かな声だった。
そこも前と同じ。
もう分かっている。
この男は、無理に食べさせない。
だから結局、決めるのはこちらになる。
「そこ、毎回いちばん困るのよ……」
男が聞き返す。
「何が?」
「何でもないって」
今度はほとんど普通に答えてしまった。
男が少し笑った。
ほんの少しだけ。
安心したように。
それを見た瞬間、胸の力が抜けた。
ほんのわずかだった。
それでも分かった。
アタシが返事をする。
男が安心する。
その表情を見て、アタシの緊張が少し下がる。
こちらが変われば、相手の反応も変わる。
その反応が、またこちらへ返ってくる。
相互作用。
「実演講義、延長しなくていいんだけど……」
誰も受講していないのに、教材だけが充実していく。
男は匙を取った。
アタシの指に力が入る。
自分で食べろと言われると思った。
でも、手へ力が入りにくいのを見たらしい。
男は粥を少しすくい、湯気を確かめてから息を吹きかけた。
一瞬、何をしているのか分からなかった。
すぐに分かった。
冷ましている。
「いや、そこまで弱って見える?」
声に出したつもりはなかった。
「見える」
即答された。
地味に傷ついた。
現代では男子学生から「姐さん助教」なんて勝手に呼ばれ、廊下を歩けば妙に視線を集めた女が、今は父親らしき男から「一人で粥を食べるのも怪しい人」認定されている。
人生の落差がひどい。
「キャリアの下落幅がでかすぎるでしょ……」
「また変なこと言ってんな」
「放っといて」
会話になっている。
その事実へ気づいた瞬間、笑えなくなった。
男の方も、アタシが返事をするたび少しずつ表情を緩めている。
昨日までは、ほとんど一方的に話しかけられていた。
今日は違う。
アタシが返している。
この場所で。
父親だと名乗った男に。
男は匙を傾け、また少し冷ました。
次に何をするのか、分かった。
差し出す。
そう予測した。
本当に差し出された。
「まだ少し熱いぞ」
また当たった。
胸の奥が冷える。
予測できる。
この男の動きが。
それだけじゃない。
次に何を言いそうかまで、少し分かる。
次に言うのも、たぶん「無理すんな」とか「少しだけでいい」とか、そんなところだろう。
人は予測できる相手に対して警戒を下げやすい。
不確実性が減るから。
知識が、また勝手に説明を始める。
「頼んでないってば……」
男は匙を持ったまま待っている。
急かさない。
それも予測通り。
アタシは湯気を見る。
温かい。
匂いも、もう知っている。
昨日までの「知らない食べ物」ではない。
何度か口へ入れて、死ななかった。
水もそうだった。
安全だった経験が積み上がっている。
さらに今は、持ってきた男が「父親らしい」という情報まで加わった。
安全だとは断定できない。
信頼もしていない。
それでも、完全な未知ではなくなっている。
「情報が増えるほど逃げにくくなるとか、仕様が悪すぎるでしょ……」
講義なら、知ることは対処につながると言える。
今は逆だ。
知れば知るほど、この場所に理由ができる。
この男が飯を持ってくる理由。
水をくれる理由。
怖がれば止まる理由。
毎日ここへ来る理由。
父親だから。
その説明が成立してしまう。
そしてアタシには、その相手に対する役割が用意されている。
娘――
その一文字が、嫌になるほど重かった。
男が静かに言った。
「少しだけでいい」
予想した通りだった。
心臓が跳ねる。
当たったことが怖い。
でも、その声に最初ほど身体は強張らない。
もっと怖い。
問題は、どこで止めるかです。
昔の助教の声が戻る。
止めるなら、今なのかもしれない。
昨日は水を飲んだ。
今日は男が父親だと知った。
この匙を受け入れれば、また一つこの場所での「普通」が増える。
父親から食事をもらう。
父親の前で飯を食う。
この身体にとって、もしかしたら何年も続いていた普通。
アタシにとっては、今日初めて知った役割。
布団を握る。
拒否すればいい。
顔を背ければいい。
そう考えている。
なのに腹が鳴った。
男は笑わなかった。
何も言わない。
匙を少し離すこともしない。
ただ待つ。
決めるのはアタシ。
まただ。
「……本当に性格悪いわね、この状況」
「俺がか?」
「アンタじゃない」
「じゃあ誰だ?」
「アタシが知りたい」
男が困ったように黙った。
そのやり取りが、少しだけ普通の会話みたいだった。
そう思った瞬間、背筋が寒くなる。
普通にしないで。
普通にならないで。
ここは知らない場所で、この男は知らない人で、アタシは本当は――
現代の自分を思い出そうとする。
教壇や研究室、男子学生が妙に前列へ集まっていた講義室が浮かんだ。
「先生の話が聞きやすいんです」
「後ろまでマイク通ってるけど?」
あの時は笑えた。
大人の身体で、自分の仕事をしていた。
姉さんと電話をして、帰宅して、眠った。
そこから先がない。
代わりに今あるのは、湯気の立つ粥と、匙を持つ父親らしき男だった。
目の奥が熱くなる。
男が気づいたのか、少しだけ匙を下げた。
「やっぱ無理か?」
違う。
その言い方をされたら、またこちらが選ぶことになる。
アタシは男を見る。
昨日までは顔を見るだけでも怖かった。
今も怖い。
でも、その顔が困っていると分かる。
何をしようとしているのかも分かる。
分かってしまうから、完全には拒絶できなくなっている。
これが順応なら、教科書はずいぶん簡単に書いてくれたものだと思う。
「環境に適応する」なんて一行で済ませないでほしい。
実際には、知らなかったものが一つずつ分かるものになり、そのたびに拒絶する理由が少しずつ削れていく。
そして本人は、まだ自分は変わっていないと思いたがる。
アタシみたいに。
「……最悪」
また呟く。
男は何も言わなかった。
ただ匙を少し持ち直す。
湯気が頬へ触れる。
胃が縮む。
喉が動く。
講義の言葉より先に、身体が答えていた。
止めたい。
昨日までなら逃げていた。
いや、最初の日なら、こんな距離まで近づけさせなかった。
今は違う。
この男が何をするか知っている。
そして、この匙の中身が何なのかも知っている。
温かいものが近づいた。
前なら逃げていた。
今は、逃げる前に喉が動いた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます