僕の青春はもう動かない

ニンジン

第1話

 時計の秒針が刻む音が、やけに耳の奥へ不快に響く。


 カチ、カチ、カチ……。


 放課後の教室。薄橙色の夕暮れが歪んだ影を床に引き伸ばす時間帯、僕は自分のデスクに視線を落としたまま、固く拳を握りしめていた。


「青春」


 誰かがその二文字を口にするたび、あるいは泥臭い青春群像劇のCMが視界をかすめるたび、僕の胃の底からは吐き気を催すほど苦い酸がせり上がってくる。


 世間一般で言う「輝かしい日々」や「かけがえのない青い春」なんてものは、僕にとっては何の価値もない。それどころか、皮膚をじわじわと焼き焦がす毒薬であり、できれば死ぬまで触れずに通り過ぎたかった災厄の別名だった。


 放課後特有のどこか浮ついた空気。廊下から聞こえてくる運動部の掛け声。そして、すぐ近くから漂ってくる、女子生徒特有の甘いシャンプーの匂い。


 それらすべてが、今の僕には肌を突き刺す無数の針のように感じられる。息が浅くなり、掌には不快な冷や汗が粘つく。心臓が胸骨を裏側から叩き割らんばかりに不規則な乱打を始め、視界の端がぐにゃりと歪んでいく。


「ねえ、大丈夫……? 顔色が悪いよ」


 そう言って、繊細な指先が僕の肩に触れようと伸びてきた。


 その瞬間、僕の体は弾かれたように跳ね上がり、激しく椅子を引いて立ち上がっていた。ガタン、と不快な金属音が静かな教室に響き渡る。喉の奥からは、ヒッ、と情けない悲鳴が漏れた。


「近付かないでくれ……っ!」


 必死で叫んだ声は惨めなほどに震えていて、僕自身、自分がどれほど情けなく壊れているかを痛感させられる。


 差し出された手はピタリと空間で止まり、その持ち主である少女は、傷ついたような、そして絶望に濡れたような瞳で僕を見つめていた。


 これが、現在の僕の姿だ。


 僕は、「女性」という存在が恐ろしい。彼女たちと過ごす時間も、彼女たちが紡ぐ言葉も、その笑顔の裏に隠された意図も、すべてが恐ろしくてたまらない。まともに目を見て話すことすらできず、触れられそうになるだけで肌に鳥肌が立ち、激しい拒絶反応を起こしてしまう。


 最初からこんな怪物のような歪んだ精神を持っていたわけではない。


 かつての僕は、どこにでもいる普通の高校生だった。人に心を開き、人を無条件に信じ、くだらない冗談に腹を抱えて笑い合い、ささやかな恋心や未来への希望のようなものを胸に抱いていた時期だって、確かに存在したのだ。


 けれど、それはすべて灰になった。一瞬にして、跡形もなく消し飛んだのだ。


 ある「出来事」を境にして。


 あの日、僕の尊厳は踏みにじられた。大切に温めていた感情は悪意の踏み台にされ、心は徹底的に切り刻まれた。息をすることすら苦しくなるほどの絶望の底に突き落とされ、僕の目の前に広がっていた鮮やかな世界は、一夜にして真っ黒な闇へと塗り潰されたのだ。


 だが、本当に僕の心を完璧に砕いたのは、その出来事そのものだけではない。


 僕をその暗闇の底へ引きずり下ろした当事者たち——僕の心を容赦なく破壊した同級生の少女たちや、面白半分で加担した男の友人たちが、後に揃って口にした言葉だった。


『——ごめんね。でも、あれはあなたの勘違いなんだよ?』


『そうだよ。俺たちも別にそんな悪気があってやったわけじゃねぇし。お前が勝手に重く受け止めすぎなんだって』


『冗談半分だったというか……誤解させちゃったなら謝るけど、そこまでショックを受けるなんて思わなくてさ。ちょっとキモいよ』


 ——勘違い。


 ただの誤解。すれ違い。悪気のない冗談。

 彼女たちも、そして僕の背中を笑いながら撃った男たちも、自分がしでかしたことの残虐さに気づきもしない顔で、あるいは気づかないふりをして、僕が流した血と涙のすべてを「勘違い」という便利で軽薄な一言で切り捨てたのだ。


 僕にとっては人生を狂わされるほどの致命傷だったというのに、彼ら彼女らにとっては

「大げさな被害妄想」でしかなかった。


 自分がどれほど鋭いナイフを僕の心臓に突き刺したのかも知らず、「そんなつもりじゃなかったのに」と困り顔で笑ってみせた。


 その、どこまでも無神経で残酷な無知さこそが、僕の人間に対する信頼の息の根を止め、息の根を止めた心に止めを刺した。男たちが面白がるように浴びせた嘲笑と、女たちが冷ややかに見下ろした視線が、今でも脳裏に焼き付いて離れない。


 傷つけられたことそのものよりも、「自分の受けた地獄のような痛みが、相手にとっては取るに足らない戯れ言として処理された」という事実が、僕の精神を完全に破綻させたのだ。


 以来、僕の時計は止まった。


 人の笑顔が、自分を嵌めるための罠に見える。優しくかけられる言葉が、後で嘲笑うための準備段階に見える。特に女性という存在は、いつ背中から刺してくるか分からない刃物を隠し持った悪夢そのものになった。そして男たちもまた、信頼を裏切るだけの裏切り者にしか見えない。


 だから僕は、心を閉ざした。誰とも関わらず、誰とも目を合わせず、ただ透明な幽霊のように校舎の隅で息だけをひそめて生きようと決めたのだ。


 僕の青春は、あの日、確かに死んだのだから。


 ……それなのに。


 世界は、僕を静かに死なせてはくれなかった。


 僕が完全に壊れ、人と会話することすら拒む置物になってから、彼女たちの態度は狂気を帯びて一変した。


 僕が冗談でもパフォーマンスでもなく、本当に手遅れなレベルで破滅してしまったのだと悟った時、彼女たちの顔からあの「余裕」が消え去ったのだ。


『どうして……どうしてそんな、他人を見るような目で見んの……?』


『お願いだから拒絶しないで……! 私たちが悪かったの! 私たちが全部間違ってたから……!』


『元に戻してあげる……私たちが絶対に、あなたの心を治してみせるから!』


 滑稽な話だった。


 遅すぎたのだ。何もかもが。


 彼女たちは急に青ざめ、身勝手な罪悪感に苛まれ、あるいは「自分が壊してしまったおもちゃ」を元通りに直したいという歪んだエゴに突き動かされて、僕の周りに群がり始めた。


 かつて一緒に僕を笑いものにした男の友人たちが気まずそうに目を逸らす背後で、彼女たちは必死の形相で距離を詰めてくる。僕が恐怖で身をすくめればすくめるほど、過剰なまでの優しさと求愛を浴びせてくる。


 かつて僕を地獄に叩き落とした張本人たちが、今度は「悲劇の救世主」の面下げをして、僕に救いの手を差し伸べようと躍起になっているのだ。

 

 どれほどグロテスクで、恐ろしい光景だろう。


 怪物に身体を喰い散らかされた後に、血まみれの口元をしたその怪物から「痛かったでしょう、撫でてあげるね」と頭を撫でられているようなものだ。そこにあるのは救済などではない。ただの悪夢の延長線だった。


「ねえ、今日の昼食、一緒に食べない? あなたの好きなもの、家で作ってきたんだよ」


「ちょっと、図々しいわよ。今日は私が彼と話す約束になってるんだから退いて」


「二人とも落ち着いて……彼が怯えているじゃない。大丈夫だよ、怖がらないで……私が守ってあげるからね?」


 翌日の教室内。僕のデスクの周りには、校内でも指折りの美少女たちが、まるで甘い蜜に群がるように取り囲んでいた。


 周りの男子生徒たちからは、羨望と嫉妬が混ざり合った刺すような視線が向けられている。事情を知らない人間から見れば、僕はまるでハーレムアニメの恵まれた主人公のように映っているのかもしれない。


 けれど、僕にとってこの場所は、首に縄をかけられた絞首台の上と変わらなかった。


 彼女たちの瞳の奥に揺らめく、必死で、歪んでいて、執着に満ちた光を見るたびに、僕の背筋には氷の針を刺されたような冷気が走る。


 彼女たちは、僕を治そうとしている。


 僕の止まってしまった「青春」の針を、もう一度強引に動かそうと躍起になっている。

 けれど、一度粉々に粉砕された精密機械の歯車が、そう簡単に元通り噛み合うはずもないのだ。無理に動かそうと外圧を加えれば加わるほど、キーキーと嫌な金属音を立てて、僕の心はさらに削れ、悲鳴を上げて崩れていく。


 僕の青春は、もう動かない。


 ゼンマイは弾け飛び、針は折れ、文字盤は煤けて過去の面影すら残っていない。


 どれほど彼女たちが涙を流して贖罪を口にしようと、どれほど甘い言葉で僕を包み込もうと、死んだ心が再び熱を帯びることなど二度とない。


 壊してしまった側と、壊されてしまった側。

 勘違いだと笑った加害者たちと、トラウマの底で震える被害者。


 逃げ場のない教室の中で、僕は引きつった息を吐き出しながら、彼女たちの伸びてくる手を必死で拒絶し続ける。

 僕の意思など完全に置き去りにしたまま、狂った物語が始まろうとしていた。

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