第2話

 チャイムの音が響き渡ると同時に、僕は逃げるように教室を飛び出した。


 うしろから聞こえる「蓮くん!」という高い声を無視して、ただひたすら足を進める。追いつかれたくない。触れられたくない。あの空間に一秒でも長く留まっていれば、僕の精神は内側から破裂してしまう。


 階段を駆け下り、校舎の最奥——使われなくなった旧館の準備室へと続く、薄暗い廊下を目指した。ここは普段から人が立ち入らない場所だ。埃っぽい空気と古びた木材の匂いだけが漂うこの一角だけが、今の僕にとって唯一呼吸の許される避難所だった。


 壁に背中を預け、ずるずると床へ崩れ落ちる。


 ハァ、ハァ、と荒い息が喉を焼き、膝ががくがくと震えて止まらない。


 胸を強く押さえるが、乱れた心拍数は一向に下がらなかった。頭の中で、あの日見た光景、あの日耳にした嘲笑、そしてあの冷酷な


「勘違い」という言葉が、不快なハイライトのように再生され続ける。


「ふぅ……大丈夫だ、誰も追いかけてこない……大丈夫……」


 自分に言い聞かせるように呟き、固く目を閉じる。


 しかし、その安寧はあまりにも呆気なく打ち砕かれた。

 

 カツン、カツンと、静まり返った廊下に静かな靴音が響いてくる。


 その音は迷うことなく一直線に僕の潜む角へと近づいてきて、そして——ぴたりと止まった。


「……やっぱり、ここにいたんだね。昔から、蓮くんは困ったときここに来るから」


 聞き覚えのある、透き通った鈴のような声。


 恐る恐る目を開けると、そこには夕闇の差し込む廊下に佇む一人の少女の姿があった。


 白雪葵(しらゆきあおい)。


 その苗字とは裏腹に艶やかな黒髪を背中に流し、誰もが見とれるような端整な容姿をした、校内でも指折りの美少女。そして——かつて僕が最も信頼し、最も淡い恋心を寄せていた相手であり、僕の心を跡形もなく砕き割った第一の加害者。


「……来ないでくれ」


 喉が固まり、声が掠れる。僕は床を這うようにして必死に後ろへ下がろうとしたが、背中はすでに冷たい壁に突き当たっていた。逃げ場など、どこにもない。


「蓮くん、お願いだから逃げないで。私、あなたとちゃんと話がしたいの」


 葵は困ったような、傷ついたような表情を浮かべ、そっと一歩を踏み出してきた。手に小さな紙袋を大事そうに抱えている。


「話すことなんて……何もない……っ!」


「あるよ! たくさんある……! あの日からのこと、私たちがしてしまったこと、全部……!」


 葵の声が悲痛に揺れる。彼女の瞳には涙すら浮かんでいた。


 だが、その涙を見ても、僕の心には冷酷な恐怖しか湧き上がってこない。かつてなら胸が締め付けられたであろう彼女の泣き顔が、今の僕には自分を陥れるための巧妙な罠にしか見えなかった。


「……あの日、って言ったか?」


 僕は血がにじむほど強く拳を握りしめ、掠れた声で問いかけた。


「君は言っただろ。『勘違いだ』って。『勝手に重く受け止めるな』って……僕を笑いものにした男たちと一緒に、嘲笑いながらそう言ったじゃないか……!」


 あの日、僕は見てしまったのだ。


 僕が葵に渡した手紙を、彼女が男子生徒たちに見せびらかしながら笑っていた光景を。「こんな重い手紙、キモくて受け取れないよね」「蓮って本当に自分が見えてない」と笑い転げていた男たちと一緒に、彼女もまたクスクスと可憐に微笑んでいた場面を。


 問いつめた僕に対して、彼らは「冗談だろ」「勘違いすんなって」と笑い飛ばし、葵もまた「悪気はなかったの、蓮くんが勝手に深読みしただけで……」と切り捨てたのだ。


「違うの……! あれは……あれは本当に、私の本心じゃなかったの!」


 葵は悲鳴のような声を上げ、膝をつくようにして僕と同じ視線まで体を低くした。必死の形相で紙袋から何かを取り出す。


「これを見て……! 覚えてるでしょう? 中学のとき、二人で一緒に買ったペアのキーホルダー……。あの時、男子たちにからかわれて……私、本当はすごく嬉しかったのに、みんなの前で素直になれなくて……! 嘘をついちゃったの……っ!」


 差し出されたのは、少し古びた金属製のキーホルダーだった。あの日、僕が絶望のあまりゴミ箱に投げ捨てたはずの代物だ。


「私、ゴミ捨て場から必死で探したんだよ? 汚れてたのも全部きれいに洗って、ずっと大事に持ってたの! だから……だから、私は蓮くんのことを弄んでなんかいない! あれは本当に、私がバカで、照れ隠しで嘘をついちゃっただけの……すれ違いだったの!」


 葵の言葉には、狂気的なまでの熱量が籠もっていた。


 彼女は自分の中で物語を再構築しているのだ。「自分は素直になれなかっただけの被害者であり、二人はすれ違ってしまった哀れな恋人同士なのだ」と。


 そうやって過去を美化し、上書きすることで、自分が犯した残虐な加害事実から目を背けようとしている。


「照れ隠し……?」


 僕の口から、乾いた笑いが漏れた。


「照れ隠しで……僕の尊厳を踏みにじったのか? 男たちの前で僕を嘲笑って、僕が絶望して学校に来なくなった時も『大げさだ』って笑ってたのに……それが照れ隠しだって言うのか!?」


「う……っ、それは……っ! あの時は、蓮くんが本当にあんなに傷つくなんて思わなくて……! 男子たちも『いつものノリだ』って言ってたから……私、流されちゃって……!」


「僕がどれだけ苦しかったか……君にわかるか……!?」


 叫んだ瞬間、激しい眩暈が僕を襲った。


 過呼吸を起こしかけた肺が激しく上下し、視界がチカチカと明滅する。目の前の葵の顔が歪み、彼女が伸ばしてくる手が、まるで自分を絞め殺しにくる怪物の腕のように見えた。


「近寄るな……! 触るな……っ! 頼むから……僕の前に現れないでくれ……っ!」


「蓮くん……! お願い、聞いて……! 私、やり直したいの! 今度こそ、私があなたを一番に愛するから! あの時の罪は全部償うから……だから、お願いだから私を嫌いにならないで……!」


 葵は涙をポロポロとこぼしながら、強引に僕の手に触れようとしてきた。


 柔らかく、温かい女子の手。


 かつてなら夢にまで見たはずのその感触が、僕の皮膚に触れた瞬間——。


「うあああああああああっっっっ!?」


 僕の口から、自分でも聞いたこともないような悲鳴が跳ね上がった。


 全身の毛穴という毛穴から冷や汗が吹き出し、激しい悪心が胃袋を突き上げる。僕は狂ったように葵の手を振り払い、床を転がるようにして彼女から距離を取った。


「ヒッ……ふ、ハァっ、ハァっ……!」

 

 背中を壁に打ち付けながら、僕は激しい吐き気に襲われ、その場に蹲った。彼女に触れられた腕の皮膚が、まるで酸をかけられたように熱く、汚らしく感じられて、自分の手でガリガリと強く掻きむしる。


「れ……蓮、くん……?」


 僕のあまりにも異常な拒絶反応に、葵の手が空間で固まった。


 彼女の顔から、さっきまでの「贖罪しようとする悲劇のヒロイン」の表情が消え去り、真っ青な絶望が広がっていく。


 僕が演技でも、怒りでもなく、心の底から自分という存在を怪物として恐怖し、拒絶しているという残酷な現実が、ようやく彼女の脳みそに届いたのだ。


「私……私、ただ……やり直したくて……」


 彼女が差し出していたキーホルダーが、力なく床に転がり、カチャンと虚しい音を立てた。


「元通りなんて……ないんだ……」


 僕は掻きむしった腕から血を滲ませながら、涙で視界を濡らし、彼女を睨みつけた。


「僕の心は……あの日、君たちに殺されたんだ。一度死んだ人間が……元に戻るわけないだろ……!」


「あ……ああ……っ」


 葵の口から、絞り出すような悲鳴が漏れた。


 彼女はボロボロと涙を流しながら、己の犯した罪の重さに今更のように押し潰され、その場に膝から崩れ落ちた。


 だが、それでも。


 彼女の瞳の奥に灯った、濁った執着の光は消えていなかった。


「……諦めないよ」

 

 ポツリと、彼女が呟いた。


「壊したのが私なら……私が死ぬまでかけて、あなたを直す。どれだけ拒絶されても、どれだけ嫌われても……私はもう、逃げないから」


 それは救済の言葉などではない。


 壊してしまったおもちゃに対する、加害者の身勝手でグロテスクな執着そのものだった。


 逃げ場のない薄暗い廊下で、息を絶えだえに拒絶し続ける僕と、歪んだ涙を流しながら見つめ返す葵。


 かみ合うことのない二人の平行線は、傷口をさらに深くだけ削り取りながら、終わりなき地獄は始まる。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

僕の青春はもう動かない ニンジン @yuito2623

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ