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  • 最初は皆、批判されてきたというくだりが後々に「自分は死んでも構わんのだ」というようなところになってくるのかもしれませんね。

    話題とは直接関係ないのですが、長崎の地名に永昌とか江迎とか中国っぽい地名が結構あるのが、いかにもそういう地域と繋がりがあった場所ぽくて面白い感を受けました。

    作者からの返信

    コメントありがとうございます!

    それ、私も後の松陰を知って読むと怖いなと思いました。
    今はまだ友人に向かって「苦難があるほうが大仕事にはいいんだ!」と言っている段階ですが、後になると、その理屈を自分自身にも容赦なく適用していくんですよね。
    まだ21歳なのに!

    そして地名!
    そこに目が行くとは(笑)。
    確かに中国っぽいですね。こういう脇道も書簡を読む楽しさという気がしてきました。

  • とりあえず思うこと。
    手紙が……濃い(笑)
    まあこの辺りは、ネットで短文に慣れたからなおさら思うんですよね。
    昔は手紙一つでも決して安いものもではないから、それに十分な文章を詰めたのでしょうし。
    ただそれでもこれは……色んな意味ですごいですね。
    後半楽しみにしています(w

    作者からの返信

    コメントありがとうございます!

    松陰先生が熱いです! 愚痴をこぼしたりすると、こんな熱血の励ましがきてしまうのかと驚きました(笑)
    後半は延々と列挙した歴史上の人物に関する話が主です。
    あと、思ったのは雨で傘を買ったけど邪魔になったとか昔からのあるあるだなと思いました。

  • 現代でも「孫子」がビジネス書などで紹介されていることもありますが、そうしたアプローチに近い感はありますね。
    とはいえ、実際のところ、それしかなかった、というのもあったかもしれませんね。
    例えば当時のヨーロッパの書籍……例えばクラウゼヴィッツの「戦争論」を当時の松陰が読むことはできないでしょうし、実際に使われている兵器などを連想しろというのも無理でしょうし。

    今更桶狭間や長篠の戦いを持ち出してどうなるとも思わなかったでしょうし、使えそうなツールがそれしかなかった、というのもあったのかも。

    作者からの返信

    コメントありがとうございます! 私はクラウゼヴィッツの「戦争論」を名前しか知らなかったので、これは勉強になりました。

    AIで調べてみると、『戦争論』はまさに19世紀前半のヨーロッパで生まれた近代的な戦争理論なんですね。クラウゼヴィッツ自身はナポレオン戦争を経験し、その経験から戦争そのものを理論化しようとした人物なので、嘉永二年の松陰からすれば、そもそも手に取ることのできない本だったわけですね。

    そう考えると、今回の松陰の答案がますます面白く見えてきます。

    私たちは後世の知識を知っているので、

    「もっと近代的な兵学はなかったのか」
    「西洋の軍事理論を参考にすればいいのでは」

    と考えてしまいます。

    でも20歳の松陰の立場からすると、使える知識は限られている。

    そこで、

    田単
    張巡・許遠
    中国の兵法書
    日本の戦史
    儒学や政治思想

    といった、彼が実際に学んできたものを材料にして、「外国船が来たら、この知識をどう使えるだろう?」と考えている。

    そう考えると、今回の「整治激励」という答えも、単なる精神論というより、当時の松陰が持っていた知識の中から、必死に「使えるもの」を組み立てた結果なのかもしれません。

    そして、そこがちょっと面白いところで、松陰は「外国」という未知の相手を考えているのに、思考の材料はものすごく古いんですよね。


    桶狭間や長篠についても、単に「昔の日本でもこういう戦いがあった」というだけなら、たしかに嘉永二年の問題には直接役立ちません。

    でも、松陰にとっては「過去の戦争から、人間や組織がどう動くのかという原理を取り出す」という使い方だったのかもしれません。


    現代の私たちは、兵器や戦術の違いに目が行きますが、松陰が見ていたのはむしろ、

    「どうすれば人間は戦えるのか」
    「どうすれば組織は崩れないのか」
    「どうすれば指揮官の命令が末端まで届くのか」

    という、時代が変わっても使えそうな部分だったのかもしれません。

    そして、そう考えると「戦争論」を知らなかった私としては、逆にちょっと興味が出てきました。

    クラウゼヴィッツの『戦争論』と、松陰が読んでいた中国兵学を並べてみたら、「戦争について考える」ということが、19世紀前半の東西でどう違っていたのか、かなり面白い比較ができそうですね。

    そして、現代のビジネス書のアプローチにも「孫子」が使われたりするのですから、古くても現代に通じるものもあるかもしれませんね。

  • 実際に並べてみると相当な量になりますね。
    ひょっとしたらまだ見つかっていないものとか失われたものもあるかもしれませんし。

    最近はめっきりなくなりましたが、昔は住所録みたいなものもありましたし、プライバシーなどより届けるためのシステムが重視されていたという側面もあるのかもしれませんね。

    作者からの返信

    コメントありがとうございます! AIに助けてもらいながらの返信です。

    年代順に実際に並べてみると、本当にかなりの量になりますね。これだけ残っていること自体がすごいのですが、逆に考えると、まだどこかに見つかっていない書簡があったり、そもそも失われてしまったものも相当あるのかもしれません。

    特に松陰の場合、書簡の相手がかなり広いので、「誰に、いつ、どんな手紙を書いたのか」を追っていくと、まだ見えていない人間関係が出てくる可能性もありそうです。

    それと、昔の「住所録」のようなものも面白いですよね。

    現代だと住所や連絡先はかなり慎重に扱いますが、昔の人にとっては「この人に手紙を届けるために、どこに住んでいるかを知っておく」ということが、今よりずっと実用的だったのでしょうね。

    松陰の書簡を見ていても、「誰々へ送ってください」とか、「誰それのところへ届けてください」という、人から人へ手紙を渡していくネットワークがかなり見えてきます。

    そう考えると、昔の住所録や人名録みたいな資料は、単なる住所の一覧ではなくて、その時代の人間関係を復元するための「ネットワーク図」のようなものなのかもしれません。

    書簡そのものが見つからなくても、住所録や日記、書簡の控え、別の人が受け取った手紙などから、「この人と松陰はつながっていたのでは?」と分かることもありそうです。

    そう考えると、今並べている書簡一覧も、まだ完成品というより「これから空欄が埋まっていくかもしれない年表」くらいに考えておいたほうが面白そうですね。


  • 編集済

    これ、むしろ松陰がそれまでに何を勉強していたのかが透けて見えそうですね。
    信賞必罰は中国韓非子が出典ですし、兵の用い方は孫氏、呉氏、六韜三略あたりは読破してそう、と思いました。
    特に六韜三略は政治のことも書いてあるそうですし(私は読んだことないですが・汗)

    作者からの返信

    コメントありがとうございます! 私も、今回の「対策一通」を読んでいて、そこがかなり気になりました。

    考えてみると、20歳の松陰がいきなり「士気を高めるには信賞必罰が必要で、命令系統を整えなければならない」と考えたわけではないんですよね。

    その背景には、やはりそれまでに読んできた漢籍や兵学書がかなりありそうです。

    特に「信賞必罰」という考え方なら韓非子などの法家思想を連想しますし、軍隊をどう動かすかというところでは、孫子・呉子・六韜・三略など、中国の兵法書が当然候補に入ってきます。

    ただ、「松陰がこの本を何歳で読んだ」と一冊ずつ確定できる史料があるわけではないので、「読破していた」とまでは言えないのが難しいところですね。

    でも、今回の答案に出てくる発想を見ると、少なくともそうした中国の政治・兵法思想をかなり身近なものとして学んでいたことは感じます。

    そして、ここが私には面白いです。

    明倫館の問題は「外国船が来たらどうする?」という、当時としてはかなり新しい問題です。

    ところが、それを考えるために松陰が使っている頭の道具は、

    「昔の中国の名将は、なぜ兵を動かせたのか」
    「君主や将は兵士をどう扱うべきか」
    「賞罰はどうあるべきか」
    「命令系統をどう維持するか」

    という、何百年、何千年も前から蓄積されてきた兵法・政治思想なんですよね。

    つまり、

    「新しい問題を、古典から学んだ理論で考えている」

    わけです。

    これを考えると、松陰の「学問」というものも、単に昔の本を暗記することではなかったんだろうなと思います。

    古典を読む

    そこから政治や軍事の原理を学ぶ

    それを現在の長州藩に当てはめる

    「では、実際に外国船が来たらどうする?」と考える

    という使い方をしている。

    六韜三略についても、今回ちょっと気になって調べ始めたのですが、兵法だけではなく、君主と臣下、人材登用、政治のあり方などにも話が広がるので、今回の松陰の答案との相性がかなり良さそうです。

    そうなると、今度は「松陰が20歳になるまでに、いったい何を読んでいたのか」という別の問題が出てきますね。

    今回の策問をきっかけに、松陰の本棚を少し覗いてみたくなりました。

    ペリー来航の4年前なのに、松陰の頭の中では、すでに古代中国の兵法から外国船までが一本の線でつながっていたのかもしれません。

    この視点で松陰の次の書簡を読むと、また違ったものが見えてきそうです。

  • 時代背景的に、まだペリーが日本に来てない段階(外国船が日本近海に現れていた段階)で『新しい政治』の話が出てたってことが分かりますね、これ。
    萩(長州藩)でこれなら、あるいは日本全国で色々議論されていたのか、それとも長州藩が先進的だったのかはちょっとわかりませんが。

    先の通信網の返信面白かったです。
    飛脚便の存在は知ってましたが、もう一つ気になったのが費用だったんですが……納得。
    相乗りさせてもらえば安くなるでしょうね  (w

    作者からの返信

    コメントありがとうございます! ここ、私も気になったところです。

    AIの助けを借り調べてみると、「新しい政治」という発想そのものは、どうも長州だけのものではなさそうです。

    江戸時代の藩校は18世紀後半から急速に増えて、幕末には全国で200校を大きく超えるほどになっていました。もともとは藩士の子弟に儒学などを学ばせる学校ですが、藩政改革が盛んになると、「学問をさせる → 人材を育てる → 藩政に登用する」という方向が強くなっていったようです。

    嘉永2年の頃だと、水戸藩では弘道館、佐賀藩では弘道館の拡張など、長州以外でも教育と藩政改革を結びつける動きが進んでいます。

    その意味では、今回の明倫館の「策問」も、長州だけが突然始めたものというより、19世紀の諸藩に広がっていた「これからの藩をどう立て直すか、そのためにどんな人材を育てるか」という流れの中にあった、と考えたほうがよさそうですね。

    ただ、長州の場合は村田清風以来の改革と明倫館の拡充がかなり強く結びついていて、「学問のできる人を取り立てる」という雰囲気が、この手紙からもかなり伝わってきます。

    そう考えると、松陰が「あなたも策問に答えてみませんか」と友人を誘っているのも、単なる勉強会というより、「これからの藩を担う人材として見てもらえるかもしれないから、書いてみなさい」という意味合いがあったのかもしれません。

    ペリー来航の4年前ですから、まさに「黒船が来てから日本が慌て始めた」というだけではないんですよね。

    むしろ、その前から各藩で「このままで大丈夫なのか」「人材をどう育てるのか」「政治をどう立て直すのか」という議論が積み重なっていて、そこへ外国船問題が重なっていった、と考えると面白いです。

    このあたり、長州以外の藩では同じ頃に何をしていたのかを横に並べてみると、かなり面白い比較ができそうですね。

  • 全部通して最初に思ったことが『ものすごい量の手紙だなぁ』でした。
    同時にこれだけ書いて送る手段がちゃんとこの頃あるということでもあるんでしょうし、そのあたりはなんか今はイメージしづらいかも。
    今みたいに通信の秘密とかも守られるわけではないでしょうし……。

    作者からの返信

    コメントありがとうございます! 私もその頃の郵便制度が凄く気になりました。返信にAIコピペは長すぎるのですが、とても面白かったし、この作品の企画にあっているので、長いけどAIの回答を掲載します。

    実際に調べてみると、「松陰はものすごい量の手紙を書いている」だけでなく、「それを運ぶ仕組みが、思っていた以上にちゃんと存在していた」というのが見えてきます。

    江戸時代の通信は、現代の「郵便局+郵便ポスト」というイメージとは全然違いますが、決して「旅人に手紙を託して、あとは運任せ」という世界ではありません。

    松陰の時代には、かなり立派な通信インフラがあった

    江戸時代には、

    幕府の継飛脚
    諸藩の大名飛脚
    民間の町飛脚・定飛脚
    知人や商人などに託す幸便

    など、複数のルートがありました。

    特に町飛脚は、武家や町人の日常的な通信を担っていて、飛脚問屋には「どこ宛てならいくら、どの宿を通る」といった料金や経路を記した帳簿までありました。つまり、かなりシステム化されています。

    しかも、幕府の公用通信になるとさらに凄い。御状箱を宿場から宿場へリレーする継飛脚という仕組みがあり、到着時刻まで記録して次の宿へ引き渡していました。

    東海道なら江戸から京都まで約492km。通常の徒歩なら2週間ほどかかるところを、飛脚は3~4日程度で届けたという説明もあります。

    だから松陰の書簡を年代順に並べていると、

    「いや、この人、いつ書いてるんだ?」

    というくらい大量に出てくるわけですが、同時に、

    「そもそも、こんなに頻繁に手紙をやり取りできる社会だったのか」

    という疑問も出てくるんですよね。

    そして「通信の秘密」は、かなり違う


    「今みたいに通信の秘密とかも守られるわけではないでしょうし……」

    という感覚が非常に鋭いです。

    現代の郵便は、基本的に「差出人→郵便事業者→宛先」という、内容を第三者から隔離することを前提にしています。

    ところが当時は、誰が誰に何を託したのか、誰を経由して運んだのかが、もっと人間関係に依存している。

    特に政治的に微妙な内容になると、これは結構怖い。

    松陰の場合、単なる私信だけではなく、政治情勢についての情報交換や意見書なども大量に書いています。実際、現存する書簡には、門下生との情報交換がかなり生々しく残っています。

    しかも面白い例として、松陰が「長州藩が江戸へ飛脚を出すので、その便に自分の書状も託す」と書いているものがあります。


    「手紙を書いた。郵便局に出した」

    ではなく、

    「長州藩の飛脚が江戸へ行く。じゃあ、その人にこれを持っていってもらおう」

    という世界です。

    さらに面白いのが「誰に届けるか」

    ここも現代人には想像しにくいところです。

    住所を書くと郵便局が自動的に届けてくれるわけではありません。

    「○○村の○○さん」
    「○○藩の○○様」
    「江戸の○○屋」
    「○○という人物のところ」

    という具合に、人間関係や商家・藩・宿などのネットワークそのものが住所の代わりになる部分が大きい。

    なので、手紙を書くことは同時に、

    「この手紙を、どの経路で、誰に託して、どこへ届けるか」

    という物流設計でもあったんだと思います。

    そして、ここからが『吉田松陰全集』の書簡リストを作っている者としては、かなり面白いところだと思います。

    「この手紙、何日に書いた?」だけではなく、「松陰はこの手紙をどうやって相手に届けたんだ?」という疑問が出てくる。

    さらに、

    松陰が萩にいる
    相手が江戸にいる
    その間を何日くらいで届いたのか
    次の返事はいつ来たのか
    その間に別の人物から情報が届いている
    その情報を受けて松陰がまた書いている

    と追っていくと、書簡そのものが幕末の情報ネットワークのログみたいに見えてくるんですよね。

    『全集』の書簡を年代順に並べる作業は、単なる年表作りのつもりでも、だんだん「幕末の通信網を可視化する作業」になってきそうです。これはかなり沼が深い……📜🕸️

    なお、国立歴史民俗博物館にも江戸時代の「飛脚便」の実物書状がまとまって残っています。現代人が想像するよりずっと「普通の通信手段」だったことが実物からも分かります。