その夜
鬼頭大河は、あまり乗り気ではない。前の日の練習で、肩がまだ張っている。
卒業式の夜だ。綾瀬の家に集まることになっている。卒業と入学の祝いを兼ねて、と誰かが言った。鬼頭は翌朝練習があった。春休みでも、練習はあった。だから、長くはいられない、と思っている。
自転車で行った。坂の途中でチェーンが一度鳴って、鬼頭は立ちこぎに切り替えた。
綾瀬の家は大きかった。門から玄関まで、五歩ぐらいあった。両親はいなかった。
誰かが、親はいつ帰るのかと訊いた。綾瀬は「海外」とだけ言った。鬼頭は、それを聞きながら靴を脱いだ。
玄関に靴が並んでいた。端のほうは重なっていて、数えられない。鬼頭は自分のをいちばん外に置いた。
地下に部屋があった。鬼頭はそこに降りた。階段が十二段あった。
最初は普通だ。
みんないた。中学の、いつもの顔だ。飲み物があった。菓子があった。誰かが音楽をかけた。笑い声があった。普通の集まりだった。
部屋にはソファが二つと、低いテーブルがあった。壁際に冷蔵庫がある。家の地下に冷蔵庫があるのを、鬼頭は初めて見た。
鬼頭は、隅で飲み物を飲んでいる。缶が、手のひらで汗をかいている。
テーブルの上に見たことのないものがいくつかあった。小さいものだった。鬼頭は、それが何か聞かない。聞く筋でもないと思った。
時間が経った。
途中から、空気が変わった。喉に、甘い匂いが残った。
鬼頭は、空気を読むのが得意だ。肩のあたりで、それを感じる。誰よりも早く、場の温度が変わるのを感じた。でも、理由のほうは出てこなかった。
何人かの顔が変わっていた。
笑っているのに、目が違った。さっきまでの目と違った。何かを理解した、という顔だった。何を理解したのかは、鬼頭には分からなかった。
鬼頭は周りを確かめた。平田がいた。隅で、誰かと話している。いつも通りだ。綾瀬がいた。みんなを見ていた。いつも通りだった。
でも、他の何人かは、いつも通りではなかった。誰も、帰らなかった。
空気が変わったのに、誰も帰らなかった。むしろ、帰りたくない、という顔をしていた。鬼頭の首の後ろが少し粟立った。何がこわいのかは分からなかった。
綾瀬が、鬼頭のところに来た。
「鬼頭くん、明日練習でしょ」
「ああ、うん」
「もう、帰ったら? 遅くなると、まずいでしょ」
「……そうだな」
鬼頭は少し迷った。缶を持つ指に、力が入った。
まだ、九時だった。まずい時間ではなかった。でも、綾瀬がそう言うなら、そうかもしれない、と思った。それに、この空気は、なんとなく居心地が悪かった。
「じゃ、俺帰るわ」
「うん。気をつけてね」
綾瀬は笑った。
鬼頭は階段を上がった。手すりが指に冷たかった。
上がりかけて、一度だけ下を見た。
誰がいたかは、覚えていない。
十二段を、数えずに上がった。
*
玄関で、靴を履いた。靴紐を結んだ。地下から、まだ音楽が聞こえていた。笑い声も聞こえていた。さっきと同じ笑い声のようで、少し違うようでもあった。
鬼頭は、それを聞きながら、靴を履き終えた。立ち上がった。ドアを開けた。
外は、暗かった。春の夜だった。少し寒かった。腕に鳥肌が立って、すぐ消えた。
鬼頭はドアを閉めた。指先が、ノブの冷たさをしばらく覚えていた。
自転車のところまで歩いた。サドルが濡れていて、手のひらで拭った。ズボンで手を拭いた。
坂は下りだった。ペダルを踏まなくても進んだ。風が耳の横で鳴っていた。
鬼頭は覚えていない。なぜ、帰ったのか。誰に、帰れと言われたのか。何時だったのか。地下に、何があったのか。
全部、覚えていない。彼にとって、その夜は、ただ途中で帰った卒業パーティの夜だった。忘れて当然の小さな夜だった。
彼は、翌朝、練習に行った。六時に起きて、パンを二枚食べた。掌にテープを巻き直した。
いつも通り、バットを振った。手のひらの豆が少し痛んだ。
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