止めようとする
伝播
最初におかしくなったのは岡田だった。月曜の朝、教室に入ると、岡田が鬼頭に何か言っていた。声が少し大きかった。
「おまえ、なんか言った? 俺のこと」
「は? 言ってねえよ」
「ほんとに? なんか、みんな俺のこと見てくる気がして」
*
一限の途中で、山内が入ってきた。
現代文だった。板書して、読んで、また板書する。声は変わらなかった。
岡田が二度、椅子を鳴らした。山内は顔を上げて、それから下げた。何も言わなかった。
*
終わりに、山内は連絡を一つした。
「面談の希望日、まだ出してない人は今週中に」
教室のざわめきは、少しも下がらなかった。
「見てねえよ。考えすぎだろ」
鬼頭は笑って済ませようとした。岡田は笑わなかった。鞄の肩紐を握ったまま、黙っていた。
「誰か、喋ったんだよ。絶対。じゃなきゃ、なんで」
「なんの話だよ」
「……いや。なんでもない」
岡田は自分の席に戻った。座ってすぐ立った。また座った。夕子はそれを追っていた。
自分が聞いて回ったことを思い出していた。
岡田は誰が喋ったのかを探し始めた。
休み時間ごとに誰かをつかまえて聞いた。おまえ、星野に何か言った? と。聞かれた相手は困った顔をした。何も言ってない、と答えた。岡田は信じなかった。
岡田は忘れていた。いちばん喋ったのは自分だった。夕子にいちばん多く話したのは岡田だった。それを忘れていた。忘れて、他の誰かを疑っていた。
*
水曜に、二人目が出た。
岡田に聞かれた男子が、昼休みに別の男子をつかまえていた。
「おまえ、岡田になんか言った?」
「言ってねえよ。俺じゃねえって」
「いや、岡田が俺に聞いてきたから」
「知らねえって」
どちらも、千夏の話はしていない。夕子の名前も出ていない。
木曜には、三人目がいた。
夕子はそれを止められなかった。止めようとして、一度岡田に声をかけた。
「岡田くん、大丈夫?」
「星野さん」
岡田がこちらを向いた。目が落ち着いていなかった。
「星野さん、俺のこと誰かに言った? 俺が喋ったこと」
「言ってない」
「ほんとに?」
「ほんとに」
「……ならいいけど」
岡田は信じていない顔だった。
夕子はそれ以上言えなかった。
*
放課後、蒼が言った。
「始まった」
「なにが?」
「夕子が蒔いたものだ」
蒼はノートを開いていた。
「夕子は一人ずつ聞いただけだ。何も広めていない。でも、聞かれた側はこう思う。なぜ今ごろ、と。そして、他の誰かも聞かれたんじゃないかと」
「わたしは何もしてない」
「聞いた。それだけ。でも、聞かれたことが伝わっていく。夕子が伝えたんじゃない。彼らが勝手に疑い始める」
夕子は窓の外へ顔を向けた。教室のほうからまだ声が聞こえていた。岡田の声だった。誰かに何か聞いていた。
「岡田くんは薬をやってるんだよね」
夕子が言った。
「やっている」
「だから、余計に疑ってる?」
「たぶん。疑いが強く出る。誰かに見られている誰かが喋ったと。薬がそれを大きくする」
蒼はペンを置いた。
「でも、それを言い訳にはできない」
「え?」
「薬のせい、とは言えないと思う。夕子が聞いて回ったことも本当。両方本当だから、片方のせいにはできない」
夕子は何も言わなかった。
*
その週、岡田は何度も誰かと言い合った。
小さな言い合いだった。おまえが言ったんだろう。言ってない。じゃあ誰だ。知らない。そういう答えの出ない言い合いだった。
誰も、はっきりしたことは言えなかった。誰も本当のところを知らなかったからだ。知らないまま、疑い合った。
夕子はそれを見ていた。自分が火をつけたのか。それとも、もともとそこにあった火が燃え始めただけなのか。
分からなかった。たぶん、両方だった。
夕子はそのことを抱えるしかなかった。実際のところは分からない、と。
千夏のときと同じだった。自分がいなければと思う。でも、実際は分からない。夕子はいつも、同じ場所に立っていた。
教室は、まだ、崩れ続けていた。
次に崩れたのは、綾瀬真希の輪だった。教室の声の高さが、日ごとに少しずつ変わっていった。
最初は小さなことだった。いつも三人でいた女子が二人になった。次の日、その二人が別々になった。綾瀬が間に入って、直そうとした。直らなかった。
夕子は、遠くの席から、それを数えていた。
綾瀬は関係を直すのがうまい。誰と誰が離れそうか、いつも数えている。離れる前に手を打った。だから、綾瀬の輪はいつもきれいに回っている。
でも、今回は直らない。
*
昼休みに、綾瀬が一人の女子の袖口へ手を伸ばした。折り返しが内側に入っていた。
その子は、腕を引いた。
綾瀬の手が、途中で止まった。止まってから、髪を触るふりをして下ろした。
綾瀬は原因を探し始めた。誰が何を言ったのか。誰が噂を流したのか。それを突き止めようとした。一人ずつ聞いて回った。あなた、何か聞いた? 誰から?
夕子と同じことをしていた。
でも、綾瀬がやると、輪はもっと崩れた。聞かれた子が疑われていると感じた。疑われた子が離れていった。綾瀬が直そうとするほど離れていった。
綾瀬は、離れた二人を同じ日直にした。並べれば戻ると思ったらしかった。
次の日、当番表が書き換わっていた。二人は別の週に離れていた。
誰が書き換えたのかは、分からなかった。
綾瀬は関係を管理する人だ。
でも、疑いは管理できない。廊下ですれ違う足音まで、速くなっていた。
*
昼休み、綾瀬が夕子のところに来た。いつもの笑顔はなかった。教室のざわめきが、そこだけ薄くなった。
「星野さん」
「うん」
「あなた、みんなに何聞いて回ってるの?」
「中学のこと」
「それだけ?」
綾瀬の目が夕子を測っていた。前に会ったときと同じ目だった。でも、机の縁にかけた指が白くなっていた。
「あなたが来てからおかしくなったの。みんな、変になった。あなたのせいでしょ」
「わたしは聞いただけ」
「聞いただけで、こうなる?」
「わたしにも分からない」
綾瀬は、しばらく動かなかった。それから、笑った。無理に笑った。前の笑顔と似ていたけれど、同じではなかった。
「もう、やめて。お願いだから」
綾瀬はそう言って離れていった。
初めて、綾瀬がお願い、と言った。
*
放課後、夕子は蒼にその話をした。
「綾瀬が崩れてきてる」
「そうか」
「関係を管理する人が管理できなくなってる」
「疑いだけは、どうにもできないんだよ」
蒼の指が、ノートの端を折っては伸ばしていた。
「綾瀬はさ、誰と誰が繋がってるかぜんぶ見えてたんだと思う。だから、離れそうになったら繋ぎ直せた。それで、輪が保ててた」
「うん」
「でも、疑いはそういうのと違う。みんなの中で、いっぺんに湧くんだ。誰が疑ってるか綾瀬にも見えない。……見えないものは直せないだろ」
夕子はうなずいた。
「わたしが、やったの?」
「夕子が、きっかけではあるよ。でも、夕子が疑いを配ったわけじゃない。……みんな、勝手に疑い始めたんだ」
「同じことじゃないの」
「同じじゃない。でも──」
蒼はペンを机に置いた。
「夕子は、もう何もしなくていい」
「え?」
「もう、聞いて回らなくていい。……みんな、勝手に壊れ始めてる。夕子は、きっかけを作っただけ。あとは、止まらない」
喉の奥が、一度乾いた。
「止められないの?」
「止められない。夕子にも、俺にも」
*
夕子はその日から聞くのをやめた。やめても、何も変わらなかった。
教室は勝手に崩れていった。岡田は誰かを疑い続けた。綾瀬は輪を直せなくなった。速水と柚木が言い合っていた。誰が何を言ったのか。誰も知らなかった。知らないまま疑い合った。
夕子は何もしなかった。ただ、見ていた。入学したころと同じだった。何もせずに見ていた。
でも、同じではない。あのときは、まだ何も始まっていない。今は、もう始まっていた。そして、夕子には止められなかった。
止めようとして、止められないのは初めてだった。
*
その日は、まっすぐ帰った。
駅から家まで十二分かかる。いつもは十四分だった。歩く速さが変わっていることに、夕子は途中で気づいた。気づいてから、速さは戻さなかった。
*
玄関に靴はなかった。一郎は遅い日だった。
台所から油の音がしている。においで分かった。ハンバーグだった。
鞄を下ろすと、肩のところがすっとした。ずっと同じほうにかけていたらしい。
「おかえり」
「ただいま」
「手洗ってきて」
夕子は手を洗った。石鹸のにおいがした。水がぬるかった。
指のあいだまで洗って、タオルで拭く。タオルは朝と同じものだった。
鏡は見なかった。見る理由がなかった。
テーブルに皿が並んでいた。二枚だった。
果歩が三枚目を出しかけて、止めた。棚に戻す。皿と皿が触れて、短い音がした。
朱莉が出ていったのは、四月だった。もう七月になっている。
夕子は黙っていた。果歩も言わなかった。
テレビがついていた。夕方の番組で、どこかの店の行列を映している。
果歩が「並ばないよねえ、こんなに」と言った。
「並ばない」
「でしょ」
ハンバーグは大きかった。二つあった。
箸を入れると、中から汁が出た。湯気が上がって、顔の下のほうが少し熱くなる。
「一個でいいよ」
「食べるでしょ」
「食べるけど」
「じゃあ二個」
夕子は二つ食べる。
食べているあいだ、果歩は自分のぶんを半分残して、テレビを見ていた。
「学校どう?」
「ふつう」
「ふつうか。まあ、それがいちばんいいよ」
果歩が笑う。夕子も笑った。
夕子は、言おうとした。
教室のことをどこから話せばいいのか、考えた。考えているあいだに、果歩が立ち上がって、冷蔵庫を開けた。
「あ、これ食べていい?」
果歩が言った。プリンだった。
「それ、お父さんのじゃないの」
「そうなんだけどね」
「食べたら怒られるよ」
「怒られない。忘れてるもん」
果歩はプリンを食べた。二口で終わった。
それから、果歩はミシンを出してきた。
テーブルの端に置いて、コンセントを挿す。踏むと、低い音が出る。何か直しているらしかった。
「なにそれ」
「クッションカバー。破けた」
「買えばいいのに」
「もったいないでしょ」
果歩は布を送りながら、途中で止まった。
「あー、曲がった」
「やり直す?」
「しない」
夕子は、その曲がったところを見た。二センチくらいずれている。
果歩は気にしていなかった。
スプーンを流しに置く音がする。それから、水を出して、すぐ止めた。
夕子は言おうとしていたことを、もう一度探した。見つからなかった。
*
風呂に入った。湯が熱かったので、水を足した。
肩まで沈んで、二十まで数えた。数え終わってから、もう一度数えた。
*
部屋に戻った。髪が首のところで冷たかった。
携帯を充電器に挿した。机の上に置いた。画面が一度光って、消えた。
*
十一時前に、玄関の音がした。一郎が帰ってきた。
下で声がした。果歩が何か言って、一郎が笑った。何を言ったかは、聞こえなかった。
少ししてから、一郎の声だけが大きくなった。
「え、俺のプリン」
「食べた」
「食べたって」
「だって忘れてたでしょ」
「忘れてない」
「じゃあ、覚えてたのに三日置いてたの」
「置いてたけど」
果歩が立ち上がる音がした。
「お風呂、沸いてるよ」
それで、終わった。
夕子は布団の中で聞いていた。
天井の木目が、暗いところで灰色に見える。目が慣れると、線が三本あった。
*
その夜、夕子は教室のことを一度も考えなかった。
考えなかったことに、次の朝まで気づかなかった。
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