ほとんど言葉を交わしたことのない先生。
けれど、授業中に一度だけ聞いた奇妙な話だけが、長い年月を越えて残っている。
「山へ向かい、そのまま戻らなくなった農夫たち」の話が、歳を重ねるにつれて違う意味を持ち始めるところが印象的でした。
特に好きなのは、主人公が仕事として他人の人生を短い礼状へまとめながら、先生について自分が本当に知っていることはごくわずかだという距離感です。
それでも、たった一度聞いた話が誰かの人生に残り、その人が道を外れたときに少しだけ自分を許す理由になる。
最後の車窓と山まで、静かなのにしっかり余韻の残る短編でした。
遠い昔、まだ高校生の頃に。
世界史の授業で聞いた話がいつまでも心の
奥底に残っている。
主人公は葬儀の礼状を作る仕事をして生計を
立てている。それは数々の出会いと別れを
経験して漸く落ち着いた住処だ。
単に、それらしき文章を造るだけではなく
丁寧なヒアリングと、個人や周囲の人々との
関わりを想像する。
それは小説を書く事とも共通するのかも
知れない。勿論、心に響く上質な小説だ。
世界史を教えていた先生の人生と、自らの
人生が交差する。
その唯一の接点。
「その地域では、人が蒸発するんですよ。」
欧州の、と或る地域にある山の話だ。
其処に何があるのかは語られない。何故なら
誰も知らないから。先生すらも。
憶測ならば星の数ほどある。人々の人生の
その数ぐらいは最低でもあるだろう。
作者の小説は、とても丁寧な描写が際立つ。
そのセンスの良さと相まって、読み手の心に
何某かを残して行く。
海の波が退いた後の白い貝殻、或いは
山から吹く温い風が残して行く感覚と余韻。
人の営みは有為転変だが、山はいつまでも
残っている。
帰りの車窓からもう既に黒々と
その存在のみを静かに遺して。