第2話 句点を打つ人

『終わることと、なくなることは、同じではない。』


 葬儀の翌朝、母の手紙は、昨夜と同じ場所にあった。

 居間の小さな机。窓から入る薄い光。便箋の上には「あなたは悪くない、」という一行があり、末尾の読点だけが、朝になっても濃いまま残っていた。

 真帆は便箋を窓へかざした。白い紙の隅に、二本の波を重ねたような透かしが見えた。母がどこで買ったものか分かれば、同じ束の残りや、書き損じた二枚目が見つかるかもしれない。そう考えてから、ずいぶん校閲者らしい探し方だと思った。紙を特定し、時期を絞り、周辺を確認する。意味の分からない一行も、手順へ直せば触れられる。

 机の引き出しをもう一度調べたが、同じ便箋はなかった。封筒も一通きりだった。真帆は手紙を透明な書類入れに挟み、母が文房具を買っていた商店街へ出た。

 潮守町の朝は、葬儀の日より明るかった。雲の切れ間から陽が差し、海へ向かう道の端に細い影を落としている。昨日の読点はもう降っていなかった。代わりに、黒く丸いものが店の軒先や郵便受けに付着していた。

 閉まった魚屋のシャッターに一つ。街路灯の根元に一つ。古い植木鉢の縁にも一つ。どれも小さな穴のように光を吸い込み、町のあちこちへ文章の終わりを置いていた。


   。


 真帆は足を止めた。句点だった。

 子どもの頃、句点が多く降った翌日は、店を畳む家がある、長い会合が終わる、と大人たちは話していた。もちろん、後から意味を結びつけただけの迷信だと、いまの真帆なら言える。それでも、丸い記号が並ぶ通りは、誰かが一軒ずつ声をかけて、静かに明かりを消して回ったあとのように見えた。

 文房具店へ向かう途中、大野理髪店の前に段ボール箱が積まれていた。赤と青と白の回転灯は止まり、ガラス戸には「本日をもちまして閉店しました」と手書きの紙が貼られている。

 その紙の右下にも、看板の端にも、回転灯の透明な筒にも、大きな句点が付いていた。

 店主の大野宗一が脚立に乗り、看板を乾いた布で拭いていた。句点の上を布が通るたび、黒い円は薄くにじんだが、消えはしなかった。

「真帆ちゃんか」

 脚立の上から呼ばれ、真帆は反射的に背筋を伸ばした。

「覚えているんですか」

「美津子さんの娘を忘れたら、あの世で叱られる」

 大野はゆっくり脚立を下りた。七十六歳になったという顔には深い皺が増えていたが、白衣の襟も、櫛を入れた胸ポケットも、真帆の記憶と同じように整っていた。

 真帆は閉店の紙を見た。

「今日で終わりなんですね」

「今日で終わり。四十七年、よく開けたよ」

 大野はそう言って、看板に残った句点をもう一度拭いた。終わると言った人の手つきには見えないほど、丁寧だった。

「それ、怖くないんですか」

「これか」

 大野は黒い円を指で押した。句点は指先へ移らず、看板の表面でわずかに揺れた。

「店じまいの日に付くなら、律儀なもんだ。四十七年分、まとめて挨拶に来たのかもしれん」

 大野は店内へ戻りかけ、真帆の顔を見て立ち止まった。

「前髪、目に入るだろう」

 真帆は額へ手をやった。昨夜は眠れず、今朝は鏡もよく見ていなかった。伸びた前髪が、たしかに右目へかかっている。

「もう閉店したのでは」

「閉店はしたよ。でも、まだ朝だ。前髪だけなら、最後の客にちょうどいい」

 文房具店が開くまでには時間があった。断る理由を探しているうちに、大野は店の奥の椅子から段ボール箱をどかしていた。

 店内には、石鹸と整髪料の匂いが薄く残っていた。壁の時計は動いていたが、待合椅子の雑誌はすでに紐で束ねられている。鏡の前の棚には鋏と剃刀が一本ずつ並び、白い陶器の洗面台だけが、今日も明日も使われるような顔をしていた。

 真帆は子どもの頃と同じ椅子に座った。足が床に届かなかった記憶より、椅子は小さくなっていた。大野が白い布を首元へ巻き、ケープを広げる。鏡の中に、喪服ではない自分が映っていることへ、真帆は少し遅れて気づいた。黒い服を脱いでも、葬儀の翌日の顔は残っていた。

「美津子さん、ここへ来るたびに二人の話をしていたよ」

 櫛で前髪をとかしながら、大野が言った。

「二人?」

「真帆ちゃんと航平くん。真帆ちゃんは本の字を直す仕事で忙しい。航平くんは建物の具合を見る仕事で、夜に呼ばれることもある。聞いてもいないのに、よく教えてくれた」

 鋏が小さく鳴った。額の前を、切られた髪が落ちていく。

「母は、航平のことも」

 そこまで言って、真帆は口を閉じた。母は航平が何度も帰省していることを、自分には話さなかった。けれど、町の理髪店では、姉と弟の近況を同じように並べていた。母の中では、二人はまだ、一つの話題の中にいたのだろうか。

「あの人は、どっちかの話をすると、だいたいもう一人の話もしたな」

 大野は鏡越しに真帆を見たが、それ以上は言わなかった。母の言葉を、残された娘に都合よく訳そうとはしなかった。

 鋏の音の合間に、外で段ボールが風に擦れた。回転灯に付いた句点の影が、鏡の端をゆっくり横切った。

「店を閉めるのは、寂しくないですか」

 真帆が尋ねると、大野はすぐに答えなかった。櫛で左右の長さを確かめ、一本だけ長い髪を切った。

「寂しいよ」

 あまりに迷いのない返事だった。

「寂しいけど、自分でシャッターを下ろせるうちに終わらせたかった。鋏を持つ手より、やめる日を決めるほうが先に鈍るからな」

 鏡の右上に、黒い句点が一つ浮かんでいた。真帆が見つめていると、大野もその視線に気づいた。

「句点は、そこまでがなかったことになる印じゃない」

 大野はケープに落ちた髪を、手の甲で静かに払った。

「ここまであったと、残すための印でもある。店を閉めたって、四十七年まで消えるわけじゃない」

 真帆は鏡の中の店を見た。椅子の革に刻まれた細いひび、何度も貼り替えられた料金表、子どもの背に合わせて置かれていた木の台。なくなるものばかりを見ていた目に、それらは初めて、確かにあった時間の形として映った。

 仕事では、句点の位置を何度も確かめる。文が長すぎれば切り、主語と述語が離れすぎていれば整える。どこまでが一つの意味なのかを決め、読者が迷わず次の文へ進めるようにする。句点は安心だった。そこより前は、少なくとも一度、意味が閉じている。

 母の死にも句点はある。受け入れたくなくても、昨日、棺の蓋は閉じられた。もう電話をかけ直すことはできない。その終わりを読点へ戻すことは、誰にもできなかった。

 けれど、航平との十五年はどうなのだろう。

 最後に残っているのは、航平の「姉ちゃんは、いつも――」と、自分の「勝手にすれば!」だった。航平は、もう会わないとも、電話をするなとも、姉ではないとも言っていない。真帆も、終わりにしようと言ったわけではない。二人とも句点を打たないまま、続きのない時間だけを積み重ねた。

 それでも真帆は、航平が関係を終わらせたのだと思ってきた。そのほうが、自分から何も言わなかった理由を説明しやすかった。相手が閉じた扉なら、叩かなくても仕方がない。そうやって十五年、扉のこちら側で待っているふりをした。

 大野が鋏を置いた。

「人の会話は紙みたいに見えないからな」

 鏡越しに目が合った。真帆が何も話していないのに、大野は店のことを言うような口調で続けた。

「自分で打っていない句点を、相手が打ったと思い込むこともある」

 真帆は返事をしなかった。航平がいまも続きを待っているとは限らない。十五年の沈黙を、都合よく希望へ直すこともできない。ただ、そこに句点があったと、自分は一度も確かめていなかった。

 大野がケープを外した。床へ落ちた髪は驚くほど少なかった。鏡の中の自分も、ほとんど変わっていない。ただ、右目にかかっていた数本がなくなり、視界が少し明るくなっていた。

「全部を直さなくても、今日はこれでいい」

 大野は前髪の先を指で整えた。理髪店の仕事として言っただけなのだろう。真帆は、その言葉に、自分のための意味を付け足さないことにした。

 代金を払うと、大野は古いレジを一度だけ鳴らした。真帆が店を出たあと、店内の灯りが消えた。ガラス戸越しに、大野は段ボールを奥へ運び、鋏を布で包み、白衣を脱いだ。最後にガラス戸の内側から、真帆へ小さく頭を下げた。

 シャッターが、ゆっくり下りた。

 金属の板が地面へ近づくにつれ、入口と看板に付いていた句点が震え始めた。一つが輪郭を失い、次の一つも黒い粉のようにほどける。地面へ落ちる前に薄くなり、朝の光へ溶けていった。

 回転灯に残っていた最後の句点も消えた。

 そこには傷も染みもなく、拭き残したような丸い跡さえなかった。ただ、看板の文字の終わりに、小さな余白だけが残った。

 真帆はその余白をしばらく見ていた。店は終わった。けれど、店がなかったことにはならない。大野の鋏の音も、子どもの頃に座った椅子の高さも、今日整えられた数本の前髪も、終わりの手前に残っている。

 文房具店では、母の便箋と同じものは見つからなかった。似た白さの紙は何種類もあったが、波の透かしが入ったものは、もう長く扱っていないという。真帆は何も買わず、手紙を挟んだ書類入れだけを抱えて実家へ戻った。

 机に便箋を置き、赤鉛筆を手に取った。

 あなたは悪くない、

 読点の上へ句点を書き足せば、「あなたは悪くない。」になる。文法上は整う。母が言おうとしたことも、いちばん優しい形で終えられるように見える。

 赤鉛筆の先を紙へ近づけた。あと少し動かせば、小さな丸が書ける。

 けれど、それは母の句点ではない。真帆が安心するために打つ、真帆の句点だった。

 鉛筆を机へ戻した。母の文章を、自分の都合で終わらせてはいけない。続きを見つけられなくても、ないものを補って完成させることだけが、正しさではない。

 便箋の読点は濃いまま、消えなかった。

 その先には、まだ何も書かれていない。真帆はその白さを見つめた。空欄ではなく、余白として見たのは、たぶん初めてだった。

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