句読点が降る町

みずしぶん

第1話 読点の降る葬儀

『言えなかった言葉は、消えるのではなく、どこかで続きを待っている。』


 母の葬儀の日、潮守町には読点が降っていた。

 青嶺市から列車で三時間。真帆が駅前に出ると、海から吹く風の中を、黒いものがゆっくり舞っていた。煤にしては重く、雨粒にしては形が崩れない。小さく湾曲したそれは、見慣れた記号だった。

 ひとつが喪服の肩に落ちた。


   、


 真帆は指先で払った。読点はかすかな冷たさを残し、水滴のように消えた。

 駅舎は新しく塗り直されていたが、改札を出たところから見える海の色は変わっていなかった。灰色の空と灰色の海の境目だけが白くかすみ、町全体が、書きかけの便箋の中に置かれているように見えた。

「今日はよく降りますね」

 隣で傘を開いた老婦人が、天気の話でもするように言った。空は曇っていたが、雨の匂いはしなかった。

 真帆は曖昧に会釈した。子どもの頃、この町では、言葉だけでは収まりきらなかった文章記号が降るのだと聞かされた。町の人々はまとめて「句読点が降る」と呼んでいたが、空から来るのは読点や句点だけではない。疑問符や感嘆符、括弧や三点リーダーまで、声になれなかったものが形を得るのだ、と。誰が最初に言い出したのかも、なぜ町の外では消えるのかも知らない。十五年前に町を離れてからは、思い出すことさえなかった。

 迷信だ。そう心の中で言い切ると、少しだけ安心した。

 葬儀会場の入口に、航平はいた。

 黒いネクタイをきちんと締め、受付の脇で会葬者に頭を下げている。三十六歳になった弟の顔には、真帆の知らない十五年があった。頬の線も、低くなった声も、古い記憶の中の航平とはつながらない。けれど、考え込むときに左の眉だけをわずかに上げる癖は変わっていなかった。

 航平が顔を上げた。

 二人のあいだを、黒い読点がひとつ横切った。

「久しぶり」

 先に言ったのがどちらだったのか、真帆には分からなかった。

「うん」

 それで会話は終わった。

 航平は何か言い足すように唇を動かしたが、すぐに次の会葬者へ向き直った。真帆も記帳台へ進んだ。自分の名前を書く手が、一画だけわずかに震えた。水瀬真帆。母と弟と同じ姓を、久しぶりに家族の側へ置いた気がした。

 校閲の仕事をしていると、言葉の不足が気になる。主語が抜けている。時間が曖昧だ。何に対する返事なのか分からない。けれど、二人が交わした二言に赤字を入れることはできなかった。何を補っても、いまの二人には嘘になる気がした。

 祭壇の中央で、母の美津子が笑っていた。遺影は七十歳の誕生日に撮ったものだと、母が電話で話していたのを、真帆は遅れて思い出した。「もう少し口紅を薄くすればよかった」と、母は少し不満そうにこぼしていた。

 棺の中の顔は小さかった。持病があるとは聞いていた。それでも電話口の母はいつも「大したことはない」と言い、真帆も、その言葉を詳しく確かめなかった。締切が終わったら。仕事が落ち着いたら。季節がよくなったら。帰らない理由は、いくらでも文として完成した。

 最後に話した日の内容を思い出そうとした。母が何を言ったかより、自分が通話を急いで切ったことだけが残っている。校正紙を机いっぱいに広げ、あとでかけ直すと言った。その「あとで」が来る前に、母の死を知らせる電話がかかってきた。

 焼香の煙の向こうで、読点が降り続けた。参列者の肩や椅子の背に触れては消える。誰も見上げなかった。町の人々にとっては、風が鳴ることや潮の匂いが強くなることと同じなのだろう。

 火葬場へ向かう車の中でも、航平とは離れて座った。話しかけようと思えば、話題はあった。母の最期は苦しまなかったのか。いつから具合が悪かったのか。なぜ自分には何も言わなかったのか。

 どの問いにも、責める響きが混じりそうだった。真帆は窓の外を見た。

 途中、親族の一人が小さな声で言った。

「航平くんが何度も帰ってくれて、美津子さんも心強かったでしょうね」

 真帆は返事をし損ねた。向かいの航平は聞こえなかったふりをしていた。

 何度も。

 その言葉だけが、紙面の誤植のように目に残った。母は真帆に、航平が帰っているとは一度も言わなかった。航平も知らせなかった。知らせる義務があったわけではない。それでも、知らなかった十五年の厚みが急に増した。

 航平は火葬場の職員に呼ばれるたび、迷わず立ち上がった。書類の置き場所も、母が用意していた写真も知っていた。その動きの一つ一つが、真帆のいなかった時間を証明しているようだった。真帆は感謝より先に痛みを覚え、そんな自分を嫌った。

 骨壺を抱えて会場へ戻る頃には、空が少し明るくなっていた。読点の降り方もまばらになっていた。

 航平は壁際の椅子に腰を下ろし、腕時計を見た。

「俺、そろそろ行く。明日、現場があるから」

「そう」

 真帆は、もっと別の返事を探した。お母さんのこと、ありがとう。今度、話せる。連絡先を教えて。どれも喉の手前で形を失った。

 航平は立ち上がり、椅子を元の位置へ戻した。

「じゃあ」

「うん」

 扉が閉まる音は、思っていたより軽かった。

 航平が座っていた椅子の上に、小さな読点が残っていた。真帆が近づいても、黒い記号は布地のくぼみに沈んだまま消えない。指を伸ばしかけたとき、係の人が椅子を片づけに来たので、真帆は手を引いた。

 句点ではなく、読点だった。


   、


 その違いに意味を見つけようとした自分を、真帆はすぐに恥じた。記号は記号にすぎない。文章の外へ落ちれば、ただの形だ。

 けれど椅子が運ばれていったあとも、黒い曲線だけは目の奥に残った。

 その夜、真帆は母の家に一人で泊まった。

 玄関には母の靴が二足、爪先をそろえて並んでいた。もう履く人はいないのに片づけることができず、真帆は自分の黒い靴を少し離して脱いだ。廊下を歩くと、幼い頃から変わらない床板が同じ場所で鳴った。家は覚えているのに、自分だけが客になっていた。

 台所には、飲みかけの茶葉が缶に残り、冷蔵庫には開封日を書いた付箋が貼られていた。日付は、母が亡くなる三日前だった。居間の時計は正しく進んでいるのに、家の中だけが、母が席を外した短い時間のように静まっていた。

 遺品整理は明日からにしようと思った。それでも眠る気にはなれず、真帆は居間の隅にある机へ向かった。母が家計簿や手紙を書くときに使っていた、小さな木の机だった。

 引き出しの一段目には、切手、輪ゴム、短くなった鉛筆が、母らしく分けて収められていた。二段目の便箋の下に、白い封筒が一通あった。

 表には、見慣れた字で「真帆へ」とある。

 名前の最後の一画が少し揺れていた。母の字は昔から小さかったが、こんなふうに線が迷うことはなかった。真帆はその揺れに触れないよう、封筒の端を持った。

 封はされていなかった。中には便箋が一枚だけ入っていた。


    あなたは悪くない、


 たった一行。

 真帆は便箋を裏返した。何もない。封筒の中をのぞき、机の奥まで探った。二枚目は見つからなかった。

「何が」

 声にすると、問いだけが部屋へ残った。

 母の死に間に合わなかったことか。十五年間、航平と話さなかったことか。青嶺市へ出たことか。それとも、真帆が忘れている別の何かか。

 一行の末尾には、確かに読点が打たれていた。校閲者の目で見れば、まだ文章は続く。続きを待たずに紙を離れた、未完の文だった。

「あなたは悪くない。」と句点で閉じれば、慰めになる。「けれど」と続ければ、責める文にもなる。「私も悪くない」と書けば、母自身の弁明になる。読点の先にはいくつもの文章が生まれ、そのどれも母の言葉だとは断定できなかった。

 ただ、よく見ると、インクの読点の上にもうひとつ、黒い読点が重なっていた。空から降っていたものと同じ、光を吸い込むような黒だった。

 真帆は指で触れた。

 冷たい。けれど消えない。何度こすっても、紙は乾いたままで、黒い形だけがそこにあった。

 十五年前の記憶が、不意に開いた。

 青嶺市へ出ることを決めた頃の夕方。航平の顔は逆光の中にあり、表情までは思い出せない。何を言い争っていたのかも、途中の言葉はほとんど失われている。

 ただ、二つの声だけが鮮明だった。

――姉ちゃんは、いつも――

 その続きを、真帆は待たなかった。

――勝手にすれば!

 自分の声のほうが大きかった。扉を閉めたのがどちらだったかは覚えていない。それなのに真帆は十五年間、閉められた側に自分を置いてきた。航平が会話を終わらせたのだと、確かめもしないまま。

 沈黙が十五年になるまでに、十五年かかったわけではなかった。最初の一週間は腹を立てていた。ひと月たつと、今さら電話する理由がなくなった。最初の正月は仕事を口実に帰らず、次の年からは帰らないことが予定になった。誕生日も、年賀状も、母を通じた短い近況も、連絡しない理由へ少しずつ変わった。気づいたときには、何から話せばいいのか分からないほど時間が積もっていた。

 便箋を机に置く。スマートフォンを手に取れば、航平へ連絡する方法くらい探せるはずだった。葬儀の書類にも、親族の誰かの端末にも、番号はある。

 真帆は画面を伏せた。

 母の手紙の続きを探すほうが先だと思った。母が何を伝えようとしたのか分かれば、航平に何を言えばいいのかも分かるかもしれない。順序としては正しい。少なくとも、そう説明できた。

 正しい順序を決めるのは得意だった。原稿の事実関係を確認し、曖昧な箇所を一つずつ潰し、意味の通る形へ整える。それと同じように、母の言葉を先に確定できれば、航平との会話も間違えずに済む。人の気持ちまで校閲できるかのように、真帆は考えた。

 窓に、何かが当たる音がした。

 カーテンを開けると、夜の町に黒い記号が流れていた。読点ではない。点が三つずつ、言葉のあとに置かれる沈黙のように連なっている。


   …… …… ……


 無数の三点リーダーは風に押され、屋根の上を越え、海の方角へ流れていった。

 真帆は窓辺に立ったまま、それが見えなくなるまで見送った。母の机、町に降る記号、航平が残した椅子の読点。どれも説明はつかない。それでも、見なかったことにはできなかった。

 母はなぜ、あの一行で手を止めたのだろう。書けなかったのか。書かなかったのか。それとも、続きを自分たちに委ねたのか。問いは増えたのに、不思議と便箋を捨てようとは思わなかった。

 明日、手紙の続きを探そう。母が使っていた便箋も、日記も、残されたものを一つずつ確かめよう。

 航平に連絡することだけを、その決意の外へ置いた。

 机へ戻ると、「あなたは悪くない、」の末尾に重なった読点が、さっきよりわずかに濃くなっていた。

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