ノイズ買い(ノイズガイ)  AIに人生を最適化された僕が、あえて無駄な衝動に命を賭ける理由

ソコニ

第1話 推奨された人生の破綻



目覚まし音が鳴る前に、相沢晶は目を開けていた。


昨夜のプロフェットの通知によれば、今朝の起床予定時刻は七時十二分。相沢の睡眠周期を解析し、レム睡眠の谷間を狙って音を鳴らす仕組みになっている。ここ数年、相沢の体はその六分四十秒前に、勝手に覚醒するようになっていた。


洗面所で歯を磨きながら、鏡の下の小さなディスプレイを見る。今日のコーディネートはグレーのシャツと紺のパンツ。相沢はふと手を止め、クローゼットの奥から一度も着ていない黄色いカーディガンを引っ張り出した。三年前、まだ何も考えずに衝動買いした残骸だ。プロフェットは絶対に勧めてこない色だった。


鏡の中の自分を見て、結局それを脱いだ。似合わない。ただそれだけの理由だった。相沢はそれをハンガーに戻さず、椅子の背もたれに無造作にかけたまま、家を出た。戻す気力もなかった。


出社してデスクに座ると、モニターの右上に赤いバッジが灯った。


「緊急アラート:優良ユーザー ID 3317 生存確認不能」


相沢はコーヒーカップを口元で止めた。中身はもう冷めていた。


優良ユーザー。会社の広報資料にも、株主総会のスライドにも、この番号の生活は匿名の成功例として何度も引用されてきた。詳細を開く。三三一七番、本名・宇田川、四十二歳。契約している見守りセンサーの生体信号が今朝未明に途絶え、管理会社のスタッフが浴室で発見した。首を吊っていた。死亡推定時刻は前日の深夜。遺書はない。


相沢はしばらく画面を動かせなかった。次に何をすればいいのか、手順の方が先に浮かばなかった。


「気にする話か? それ」


隣のデスクから声が飛んできた。桐生亮だった。相沢と同期入社で、今はプロフェットの中枢アルゴリズムを統括するチームのリーダーを務めている。


「異常値だろう」


桐生はコーヒーの紙コップを片手に、モニターを一瞥もせずに言った。


「分析対象から外して、遺族対応に回せばいい」


「優良ユーザーだぞ。数字は完璧だった」


「完璧だったから死んだんじゃないのか」


桐生はそう言うと、それ以上は何も付け加えず、自分のキーボードを叩き続けた。相沢はその素っ気なさに、苛立つべきなのか少し安堵すべきなのか、自分でも判断がつかなかった。


現場の写真データが届いたのは、その日の昼休みだった。相沢は社員食堂の隅で、味の薄い定食のトレイを前にしたまま、タブレットで写真を開いた。箸を持つ手が止まった。


リビングの隅に、段ボール箱が積まれている。中身は、錆びついたネジの詰まった袋、規格の合わない延長ケーブルの束、賞味期限を三年過ぎた缶詰、破れかけた古い雑誌の切り抜き。


相沢はその日、午後の会議を一つ、うっかり忘れた。予定はプロフェットのカレンダーにきちんと表示されていたのに、宇田川のログを追うことに没頭して、通知の振動にすら気づかなかった。後輩に「相沢さん、来てませんでしたよね」と怪訝な顔で言われて初めて気づいた。


デスクに戻り、プロフェットの購買ログを検索する。この箱の中身に該当する購入履歴は、一件も存在しない。ゼロ。


「これは、何なんだ」


呟いた声は誰にも届かなかった。相沢は写真を拡大し、箱の中身を一つずつ見ていった。宇田川は、これを集めるために時間と金を使い続けていた。プロフェットが用意した完璧な人生の真裏で、システムには絶対に映らない何かを。


夕方、上司に廊下で呼び止められた。


「個人の精神的な問題として処理してくれ。購買ログの空白は、端末の不具合として社内報告書に記載しておいて」


「空白は、複数の商品カテゴリにまたがって一貫したパターンがあります。不具合とは言い切れません」


「相沢。今、この件で余計な火種を作るな。株主総会が来月だ。頼むよ」


相沢は頷いた。頷く以外の選択肢を、自分がまだ持っているのかどうか、正直分からなかった。


その夜、相沢はエレベーターホールで桐生と一緒になった。


「お前、本当に何とも思わないのか」


桐生はしばらく黙っていた。相沢はてっきり、また突き放すような言葉が返ってくるのだと思っていた。だが桐生は、扉が開いても乗り込まず、閉まりかけたところで手で押さえた。


「何とも思わないわけがないだろう」


低い声だった。


「だからこそ、感情で判断しちゃいけないんだよ。俺も、お前も」


それだけ言うと、桐生はエレベーターに乗り込み、扉を閉めた。


自席に戻り、相沢は誰もいなくなったオフィスで宇田川のプロフィールデータをもう一度開いた。推奨行動への追従率、九十七・二パーセント。完璧な数字の裏に、システムが決して捉えられなかった一ヶ月分の「空白」が、確かに存在していた。


帰り道、相沢はふと、自分の左手首に巻かれた生体センサーの重みを意識した。プロフェットに睡眠と心拍のすべてを送り続けている、薄いバンド状の端末だった。今日一日、これが自分の何を送信し続けていたのか、相沢は考えたことがなかった。玄関の椅子には、今朝脱ぎ捨てた黄色いカーディガンが、まだそのままの形でかかっていた。相沢はそれをじっと見つめ、結局今夜も、クローゼットには戻さなかった。

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