第9話:おばあちゃんの叱咤と、最後の約束
緑ヶ丘斎苑に着き、重い足取りで中へ入ると、ロビーにおばあさんが立っていた。
「来てくれたのね。顔をみてやってくれるかい?」
そう促されて導かれた先には、ひとつの棺があった。
その棺にしがみつき、もたれかかるようにして、妹の結菜ちゃんが声をあげて号泣している。
私はさらに溢れ出てくる涙を拭いもせず、引き寄せられるように棺へと近づいていった。
開かれた小窓の向こう。そこには、確かに綾瀬君の顔があった。
まるで眠っているだけのように静かな顔。だけど、もう二度と開くことのない目、冷たい横顔。
私はその場にへなへなと座り込んでしまい、ただ静かに涙を流し続けた。
周囲で誰かが何かを話している。誰かが私に問いかけている。そんな気がしたけれど、今の私の耳には何も入ってこなかった。
何分、あるいは何時間、そうして時が経過したのかも分からない。
気づけば私の両親が迎えに来ていた。他の人の迷惑になるから一旦帰ろう、と肩を抱かれ、私は力なく頷いた。
家に戻ってからのことは、何も覚えていない。
いつの間にか、自室のベッドで眠ってしまっていたようだった。
翌朝、目を覚ましてリビングに向かう。
「思う所はあるかもしれないけど、最後のお別れはしたほうがいい。行く?」
母親が心配そうに私を見つめて言った。
私は無言で、ただ小さく頷いた。
葬儀の用意をし、母の運転する車で再び葬儀場に到着する。
けれど、式の間も私は相変わらずパイプ椅子に腰掛けたまま、魂が抜けた抜け殻のようになっていた。
「大丈夫なわけ、ないよね……」
いつの間にか隣に来ていた杏奈が、痛々しいものを見る目で私に声をかける。
「杏奈ちゃん、ごめんね。ずっとこれなの……」
母親が申し訳なさそうに杏奈に答えているのを、私は遠くの出来事のように聞いていた。
やがて葬儀が終わり、一般の参列者たちは静かに帰っていった。
それでも私は、まだそこから動くことができなかった。
「詩織、そろそろ、お暇しよ?」
杏奈がそっと声をかけてくれる。
動きたいのか、ここに残りたいのか、それすら自分でも分からなかった。
その時、私の前に誰かが歩み寄ってきて立ち止まった。おばあさんだった。
おばあさんは棺のあった方を寂しげに見つめ、それから静かに口を開いた。
「あの子はね、数年前から末期がんと闘っていたの」
「うそ……そんな素振り、一切……っ」
隣で杏奈が息を呑み、絶句する。
「そうね。私にも妹にも、弱い部分を一切見せなかったわ。本当に、芯の強い子なの。そこから出る優しさを持っていたのよ」
おばあさんは、そこで私の目をじっと見つめてきた。その瞳には、毅然とした強い光が宿っていた。
「あなたはその一端に触れ、その一端を聞いたはず。前を向きなさい。立ち上がりなさい。そうでなければ、あの子があなたと過ごした最後の一か月が無駄になる。あの子の命を、無駄にはさせない」
おばあちゃんから送られる、厳しい視線。
あぁ、そうだ──私は、彼の優しさの一端に触れたんだ。あの分かれ道で、彼の言葉を聞いた。
『相手のためを思ってあえて厳しいことを言うのも、大切な優しさ。それができるようになれば、更に素敵な女性になれると思うよ』
あの時、私は彼に『頑張る』と約束したじゃないか。
新しい関係を作りたいと、明日からの希望に胸を膨らませていたじゃないか。
いつまでも悲しみに暮れて、こうして座り込んでいる場合じゃなかった。
私は心の底から湧き上がる力でしっかりと立ち上がり、おばあさんの目を真っ直ぐに見返した。
「うん。それでこそ、あの子が選んだ子だ」
おばあちゃんは満足そうに小さく微笑むと、ふっと表情を和らげた。
「すまないね。もう一つ、そこに抜け殻があるの。あっちは少し重症だけどね! これを蘇らせるのは、私らの役目だわ。……良かったら、また来なさい」
「はい。必ず、行きます」
おばあさんは優しく頷くと、まだ奥で泣き崩れている結菜ちゃんのところへと歩いていった。
私は、ずっと傍で心配してくれていた母親と、杏奈に向き直って告げる。
「迷惑かけてごめんなさい。私、もう前を向けたから、大丈夫」
私のこれまでの優しさは、ただ争いを避けるだけの、薄っぺらな事なかれ主義だったのかもしれない。
彼が持っていたような、命の終わりを前にしても崩れない本物の強さを身につけることは、今の私にはまだ到底できないだろう。
だけど、私は彼と『頑張る』と約束した。
彼の、あの本物の優しさの一端に触れることができた。
そして、私をさらに素敵な女性にするための『最後の言葉』ももらった。
私、頑張るよ──。
葬儀場を出て、夜空を静かに見上げて誓った。
視界の先に広がっていたのは、涙で滲む視界の向こうでも、優しく、強く瞬いている、すごくきれいな星空だった。
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