君の優しさを引き継ぎ、私たちは涙の向こうへ
ユキユメ
第1話:凍てつく世界と、兄の灯火
白くて、無機質で、消毒液の匂いだけが充満した部屋。
規則的な電子音を刻むモニターの横で、透明なチューブが兄――湊の細くなった腕へと繋がっている。
いつもは私だけの付き添い。けれど今日は、お医者様に「ご家族の方も」と言われ、海外で仕事にかかりきりの両親の代わりに、おじいちゃんが来ていた。
「――以上のことから、がんの進行はかなり早い段階に入っています」
淡々と告げる主治医の言葉を、私は背筋を伸ばして聞いていた。
隣に座るおじいちゃんは、組んだ手のひらをじっと見つめたまま、微動だにしない。
「腫瘍による痛みを常に体全体で堪えている状態です。本人が口にしている以上に、心身の消耗は通常の何倍もあります。そのため、今後は急に強い眠気に襲われたり、睡眠時間が著しく長くなったりするでしょう。できる限り、睡眠を取らせてあげてください。そして――決して、一人にはさせないように」
一人に、しない。
それは、その瞬間がいつ来てもおかしくないという、宣告だった。
「わかりました。ありがとうございます、先生」
お医者様に向かって、兄はいつも通りの、少し気の抜けたような声で笑ってみせた。
家で見せる顔と、何一つ変わらない。
もし、私が知らなければ。
夜中、自室のベッドで声も出せずにのたうち回り、シーツを引きちぎらんばかりに指を白くして、激痛に耐えている兄の姿を知らなければ。
――この人が、あと数ヶ月で死んでしまう病気だなんて、誰も気づかないだろう。
現に、学校では誰にもバレていない。
学校での兄は、ちょっと頼りない、ラノベとアニメが好きなだけの、どこにでもいる普通の「陰キャのクラスメイト」だ。私はその『普通』を守るため、学校では徹底して兄を他人のように扱い、周囲を寄せ付けないための壁になった。「冷たいやつ」だとどれだけ噂されても、兄の貴重な残り時間を、くだらないノイズで邪魔されたくなかった。
「先生、ありがとうございました。……おじいちゃん、ちょっと寄りたいところがあるんだけど、もう少しだけ時間、いいかな?」
点滴の針を抜いてもらいながら、兄が言った。
何時ものことだ。おじいちゃんは何も言わず、ただ短く頷いた。
兄が向かうのは、一般の病棟ではない。同じ病院内にある、緩和ケア病棟――ホスピスだ。
そこには、兄と同じように、あるいは兄よりも小さな身体で、重い病気と闘っている子供たちがいる。
兄はそこへ行くと、いつも自分の大好きなアニメやラノベの話をして、子供たちの話し相手になる。今だって、自分の足で歩くのすら奇跡に近いと言われているのに、子供たちの前では一歩もよろめかず、ただの「優しいお兄ちゃん」として笑っている。
(私には、できない……)
廊下の窓からその様子を見つめながら、私は胸の奥をキリキリと締め付けられるような痛みを覚えていた。
どうして兄は、あんな風に笑えるのだろう。同じ境遇だから、痛みがわかるから、寄り添えるの?
私には分からない。ただ、かける言葉も見つからず、自分の無力さに涙が出そうになるだけだ。
隣に立つおじいちゃんも、何も言わずに、ただ静かに兄の背中を見つめていた。その横顔には、厳しさと、それ以上の深い悲しみが刻まれているように見えた。
面会時間が終わり、私たちは病院を後にする。
夕暮れの街を歩きながら、私は小さく息を吐き、もう何度目になるか分からない決意を、胸の中で新しくした。
私は、かわいそうな兄を労わりたいわけじゃない。
「大変だね」「大丈夫?」なんて、薄っぺらい同情の言葉で兄のプライドを傷つけたくない。
私が決めたのは、最後までサポートをする、ということだ。
兄が普通の高校生として生きたいなら、全力でモブの妹を演じる。
兄が何かを望むなら、それがどんな無理難題でも、私はその手足になって動く。
たとえその先に、どれほど残酷な結末が待っていようとも。
兄の望む『綾瀬湊』の物語を、私は最後まで、一番近くで支え続けるのだ。
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