かくれんぼ
一
最初に春人を見つけたのは、ニュースでも警察でもなかった。
二十年前に春人を見つけられなかった五人だった。
十一月三日の午後六時。
旧朝倉小学校の正門前。
相沢真帆は、錆びた門扉の向こうに立つ少年を見た。
黄色いパーカー。
紺色の半ズボン。
片方だけ靴紐の白いスニーカー。
ランドセルは背負っていない。
髪は耳にかかるくらい。
頬に小さなほくろ。
十一歳。
少なくとも、見た目は。
「……春人?」
真帆の声は、自分でも驚くほど小さかった。
少年が顔を上げた。
「真帆ちゃん」
二十年前と同じ声だった。
後ろで誰かが息を呑んだ。
真帆のほかに来ていたのは四人。
坂井亮介。
森下美月。
佐野大地。
木村奈々。
全員三十一歳。
全員、朝倉小学校六年二組だった。
全員、二十年前の十一月三日、この校舎で春人とかくれんぼをした。
そして春人だけが帰らなかった。
「誰や」
亮介が一歩前へ出た。
少年は亮介を見る。
「亮ちゃん、また前髪短くしたん?」
亮介が止まった。
子どもの頃、亮介は母親に前髪を切られるたび、切りすぎたと文句を言っていた。
春人だけが毎回それをからかった。
「誰から聞いた」
亮介の声が低くなる。
少年は首を傾げた。
「何が?」
「俺らのこと」
「俺ら?」
「ふざけんな」
大地が亮介の肩を掴んだ。
「待てって」
「待てるか」
「子どもやぞ」
「春人なわけないやろ!」
亮介の怒鳴り声が、廃校のグラウンドへ響いた。
少年は驚かなかった。
むしろ、少し不思議そうだった。
「何で怒ってるん?」
真帆は少年の靴を見た。
右足のつま先。
青い油性ペンで、小さく《H》と書いてある。
春人の母親が、学校の上履きにも運動靴にも書いていた印。
二十年前、捜索用に配られた写真にも写っていた。
真帆は覚えていた。
忘れられるはずがなかった。
「春人」
美月が泣きそうな声で言った。
少年は笑った。
「やっと来た」
「……何が?」
「ずっと待ってた」
「どこで」
春人は旧校舎を振り返った。
窓ガラスの半分は板で塞がれ、白い外壁には黒い雨筋が垂れている。
朝倉小学校は十二年前に閉校した。
来週から解体工事が始まる。
そのことを知らせる市の広報が出た一週間後、五人のもとへ同じ封筒が届いた。
差出人なし。
中には一枚の写真。
二十年前の朝倉小学校。
裏に鉛筆で一行。
《十一月三日 午後六時 まだ見つけてない》
それで五人はここへ来た。
いたずらだと思った者もいた。
警察へ相談しようと言った者もいた。
それでも五人全員が来た。
二十年前と同じように。
「春人、今までどこにおったん」
奈々が聞いた。
春人は答えなかった。
正門の鎖へ手を伸ばした。
錆びた南京錠。
指で触れる。
かち、と音がして外れた。
大地が息を止める。
「鍵、開いてたん?」
「違う」
大地は市内の建設会社に勤めている。
解体前の現地調査で、数日前にもこの学校へ入ったという。
「俺、昨日確認した。門も校舎も施錠されとった」
春人が門を押した。
ぎい、と長い音。
「早くしよ」
「何を」
真帆が聞く。
春人は振り返った。
二十年前、日が暮れ始めた校庭で見た顔だった。
「かくれんぼ」
二
誰も入ろうとしなかった。
春人だけが門の内側に立っている。
午後六時七分。
秋の日はもう落ちていた。
校舎の輪郭が暗い空に沈み始めている。
「警察呼ぶ」
亮介がスマートフォンを出した。
圏外だった。
「は?」
大地も確認する。
アンテナは一本も立っていない。
真帆の端末も同じ。
朝倉小学校は山奥ではない。
住宅地の外れ。
正門から二百メートル歩けばコンビニがある。
圏外になる場所ではなかった。
「Wi-Fi切ったとか、そんなレベルじゃないな」
大地が言う。
「一回戻ろ」
奈々。
「車まで行けば繋がるかも」
五人が門から離れようとした。
春人が言った。
「帰るん?」
誰も返事をしない。
「また?」
真帆の足が止まった。
また。
その一言だけで、二十年前の夕方が戻った。
十一歳だった。
学校は祝日で閉まっていた。
裏門の隙間から入った。
六人で校舎へ忍び込んだ。
春人が言い出した。
《学校全部使ってかくれんぼしよう》
今なら絶対にしない。
当時は面白そうだった。
校舎は知っている場所なのに、休日になるだけで別の建物に見えた。
薄暗い廊下。
閉まった教室。
誰もいない職員室。
音楽室の肖像画。
理科室の標本。
真帆が鬼になった。
一階の昇降口で、目を閉じて百まで数えた。
《もういいかい》
《まあだだよ》
二回。
三回目。
《もういいよ》
それから一人ずつ見つけた。
美月。
大地。
奈々。
亮介。
春人だけが見つからなかった。
三十分。
一時間。
外が暗くなった。
誰かが言った。
《もう帰ったんじゃない?》
誰が言ったか、真帆は長い間覚えていなかった。
今は覚えている。
自分だった。
《春人、こういうことするし》
そう言った。
五人は帰った。
春人の自転車が校門に残っていることに気づいたのは、外へ出てからだった。
それでも最初は笑った。
《隠してるだけじゃない?》
《家まで歩いて帰ったとか》
家へ電話して、春人が帰っていないと分かった。
大人たちが学校へ集まったのは午後八時過ぎ。
警察。
消防。
教師。
保護者。
校舎のすべてを捜した。
床下。
屋上。
倉庫。
体育館。
校庭。
近くの川。
山。
春人は見つからなかった。
二十年。
「また帰るん?」
少年がもう一度聞いた。
真帆は門の内側へ入った。
「真帆」
美月が呼ぶ。
「ちょっと話聞くだけ」
「中入る必要ある?」
「ここまで来たんやし」
自分でも理由になっていないと思った。
でも、春人が十一歳の姿で目の前にいることに比べれば、正しい理由なんてもうなかった。
大地が舌打ちして入る。
奈々。
美月。
最後に亮介。
全員が門を越えた瞬間。
背後で門が閉まった。
がしゃん。
南京錠が勝手に落ちる。
亮介が振り返る。
「おい!」
鎖を引く。
開かない。
春人は校舎へ向かって歩きながら言った。
「ルール覚えとる?」
誰も答えない。
「鬼は真帆ちゃん」
真帆の指先が冷たくなった。
「二十年前の続きやから」
「春人」
「俺を見つけたら終わり」
「待って」
「一時まで」
「何が一時?」
春人が校舎の玄関前で振り向く。
「一時までに見つけて」
「見つけられなかったら?」
春人は笑った。
「また二十年」
玄関のガラス戸が開いた。
少年は暗い校舎へ入った。
次の瞬間。
校内放送のスピーカーが鳴った。
ざざ。
子どもの声。
『もういいかい』
三
玄関は開いていた。
外へ出る門は閉じている。
塀を越えればいい。
そう考えた大地が最初に試した。
校庭脇のフェンスへ登る。
二メートルもない。
普段なら簡単に越えられる。
大地が上へ手を掛ける。
その瞬間、校内放送。
『大ちゃん、そこじゃないよ』
大地の手が止まった。
「春人!」
『隠れる場所は学校の中』
「お前、どこにおる!」
返事はない。
大地が再びフェンスを登る。
上へ身体を持ち上げる。
真帆には、大地がその場で足踏みをしているように見えた。
登っている。
確かに腕も脚も動いている。
なのに高さが変わらない。
「大地」
美月が震えた声を出す。
「降りて」
「何で上がらん」
大地は息を切らしている。
一分ほどで諦めた。
地面へ飛び降りる。
「意味分からん」
「先に校舎見よ」
亮介。
「出口探す。あいつ探すんじゃなくて」
誰も反対しなかった。
五人で玄関へ入った。
自動ではないガラス戸が、背後で閉じた。
廊下の照明はついていない。
大地が持ってきた業務用ライトと、スマートフォンのライトだけ。
校舎は真帆の記憶より狭かった。
十一歳の時は、廊下がどこまでも続いているように見えた。
今は古く、小さく、低い。
それなのに暗さだけは同じだった。
玄関横に解体工事の予定表。
大地が指す。
「俺が貼ったやつ」
日付。
十一月十日着工。
七日前。
「現地調査で中入った時、変なとこなかった?」
真帆が聞く。
「ない。二階も体育館も見た」
「地下は?」
「地下なんてない」
美月が言う。
「昔、地下あったって言ってなかった?」
大地が首を振る。
「ボイラー室は半地下。図面上はそれだけ」
真帆は階段の先を見る。
二十年前。
春人を捜している時、一度だけ地下へ降りた記憶がある。
薄い灰色の階段。
赤い扉。
《危険 入るな》
でも、警察の捜索後に教師から聞いた。
地下室はない。
《ボイラー室と勘違いしたんじゃないか》
そう言われた。
真帆もそう思うことにした。
「まず一階」
亮介が言う。
「五人で固まって動く」
「鬼は真帆なんやろ」
奈々。
「だから何」
「かくれんぼなら、鬼だけ探すんじゃない?」
「今ルール守る必要ある?」
「守らんかったら出れんかもしれん」
「こんなの誰かの仕掛けや」
亮介は強く言った。
「子どもに見えるやつも、映像とか何か。俺らを怖がらせたいだけ」
「じゃあ説明して」
美月。
「二十年前の春人と同じ顔なの」
「そっくりな子用意した」
「声は」
「録音」
「門は」
「装置」
「フェンス登れんのは」
亮介が黙る。
大地が言った。
「とりあえず動こう。止まってても何も分からん」
一階。
一年教室。
保健室。
職員室。
給食室。
一部の扉は外されている。
机もほとんど残っていない。
人が隠れられる場所は少ない。
それでも五人は一部屋ずつ確認した。
「春人!」
美月が何度か呼んだ。
返事はない。
午後七時十二分。
職員室を出た時。
校内放送。
『一人目、みーつけた』
全員が止まる。
「誰?」
奈々。
返事の代わりに、廊下の奥で何かが落ちた。
金属音。
かん。
かん。
転がってくる。
黄色い缶。
昔の鉛筆削りの削りかす入れだった。
真帆の足元で止まる。
側面に黒いマジック。
《みづき》
美月の顔が白くなった。
「何で私」
スピーカー。
『美月ちゃん、見つけた』
「どこにおるの!」
『二十年前、音楽室のカーテン』
美月が後ろへ下がった。
真帆は覚えていた。
最初に見つけたのは美月だった。
音楽室。
舞台側の厚いカーテンの裏。
真帆が足を見つけた。
《みーつけた》
美月は笑って出てきた。
それだけ。
だと思っていた。
春人の声が続く。
『美月ちゃん、あの時、俺のこと見たよね』
美月が息を止めた。
「何のこと」
『カーテンから出たあと』
「知らん」
『階段の下』
「知らん!」
亮介が美月を見る。
「何?」
「知らんって」
『赤い扉の前に、俺おったよ』
真帆の耳の奥で音がした。
赤い扉。
地下。
存在しないはずの階段。
美月が壁へ背中をつける。
「違う」
「何が違うん」
真帆。
美月は首を振る。
「見てない」
『見たよ』
「見てない!」
『目、合ったもん』
校内放送が切れた。
沈黙。
亮介が美月へ近づく。
「本当に?」
「子どもの声信じるん?」
「春人の声や」
「だから何!」
美月は泣いていた。
「二十年前のことなんて全部覚えてない!」
真帆は何も言えなかった。
自分も同じだった。
覚えている。
忘れている。
忘れたことにした。
どれがどれなのか、二十年経つと分からなくなる。
四
午後七時四十分。
二階へ上がった。
美月は一人で歩けなくなり、奈々が腕を組んでいる。
「赤い扉って何?」
大地が聞いた。
真帆は答えた。
「地下の」
「地下ないって」
「私も昔見た気がする」
「気がする?」
「捜してる時。階段降りて、赤い扉」
「俺は知らん」
亮介。
奈々も首を振った。
美月は何も言わない。
「図面見よう」
大地が言った。
解体前の調査資料をクラウドに入れていたが通信はない。
ただスマートフォンに一部PDFを保存していた。
廊下で開く。
一階平面図。
二階。
半地下ボイラー室。
地下階はない。
「ほら」
大地が拡大する。
「階段はここ。給食室横から下りてボイラー室。それだけ」
真帆の記憶では場所が違う。
中央階段の裏。
本来なら用具倉庫がある場所。
そこに下へ続く階段。
「昔の図面は?」
「構造変えてない。耐震工事はしたけど地下増やすわけない」
「じゃあ私ら何見たん」
大地は答えなかった。
二階の廊下を進む。
六年二組。
真帆たちの教室だった場所。
扉を開ける。
机はない。
黒板だけ残っている。
白いチョークで文字。
《もういいかい》
新しい。
粉がまだ黒板の下に落ちている。
奈々が小さく叫んだ。
黒板の右端。
子どもの字で五人の名前。
《みづき ○》
《だいち》
《なな》
《りょう》
《まほ》
美月にだけ丸。
「これ何」
「見つかった順じゃない?」
真帆。
「じゃあ私らも」
奈々が言い終わる前。
教室の後ろのロッカーが鳴った。
どん。
全員が振り向く。
もう一度。
どん。
一番右のロッカー。
高さ一メートルほど。
子どもなら入れる。
大人は難しい。
真帆がライトを向ける。
扉が少し開いている。
「開ける?」
大地。
誰も動かない。
どん。
中から。
奈々が後ずさった。
「やめよ」
亮介が前へ出た。
「仕掛けなら確認する」
「待って」
真帆。
亮介は無視した。
取っ手を掴む。
開く。
空。
暗いロッカーの奥。
一枚の紙が貼られていた。
二十年前の学級新聞。
真帆たち六人が写っている。
遠足の記事。
春人の顔に赤い丸。
裏面に鉛筆。
《二人目》
校内放送。
『大ちゃん、みーつけた』
大地が顔を上げる。
「俺?」
『大ちゃん、あの日、鍵閉めたよね』
大地の呼吸が止まる。
真帆は見る。
「何の鍵」
「知らん」
『赤い扉』
「知らん!」
今度は大地が叫んだ。
『俺、開けてって言った』
「違う!」
「何が違うん」
亮介が大地へ詰める。
「お前、さっき地下知らんって」
「知らん!」
『大ちゃん、笑ってた』
スピーカーから子どもの笑い声。
春人ではない。
複数。
十一歳の子どもたちの声。
《閉めとこ》
《春人びびるって》
《あとで開ければいい》
録音のように、遠い。
真帆の頭が痛んだ。
場面が戻る。
赤い扉。
大地が手をかける。
誰かが中にいる。
笑っている。
《春人、そこ隠れたん?》
返事。
《言うなよ!》
《分かった分かった》
扉を閉める。
鍵。
真帆は壁に手をついた。
「思い出した」
美月が泣きながら言う。
「私も」
大地は首を振り続ける。
「違う。鍵なんか」
「閉めた」
美月。
「大地が閉めた」
「お前もおったやろ!」
大地が怒鳴る。
美月が固まる。
「お前、春人見つけて、でも真帆に言わんかったやろ」
「……」
「最後まで隠れさせた方がおもろいって」
「違う」
「言った!」
「私だけじゃない!」
二十年眠っていたものが、一度に起き始めた。
真帆は耳を塞ぎたかった。
でもスピーカーは続く。
『大ちゃん、見つけたから次行こ』
黒板。
《だいち ○》
大地の名前に、誰も触れていないのに丸がついた。
五
「俺ら、春人を閉じ込めた?」
亮介が言った。
誰も答えられなかった。
「なら何で捜索で見つからんかった」
大地。
「鍵閉めたなら、あの部屋見ればおるやろ」
「赤い扉自体ない」
真帆。
「そうや」
「でも見た」
「記憶が混ざっとるだけや!」
大地は必死だった。
「二十年やぞ。警察も消防も全部捜した。地下なんてなかった。俺が鍵閉めたなら俺が殺したみたいになるやろ!」
最後の言葉で全員が黙る。
大地は口を押さえた。
真帆は言った。
「誰も殺したって言ってない」
「同じやろ」
「まだ春人目の前におる」
「十一歳のままでな!」
大地は笑った。
「だからおかしいんやって!」
正しい。
全部おかしい。
二十年前に閉じ込めた可能性。
存在しない地下室。
十一歳の春人。
それでも、記憶だけは戻ってくる。
真帆が鬼だった。
美月が春人を見つけた。
でも教えなかった。
大地が赤い扉を閉めた。
悪ふざけ。
あとで開けるつもりだった。
そのあと。
何があった。
「奈々」
真帆が見る。
奈々の顔色が悪い。
「何か覚えてる?」
「分からん」
「本当に?」
奈々は唇を噛んだ。
「……帰る前に、声聞いた」
全員が奈々を見る。
「どこで」
「階段の近く」
「春人?」
「たぶん」
「何て」
奈々は目を閉じる。
「開けてって」
大地が椅子代わりの窓枠へ手をついた。
「何で言わんかった」
奈々が泣き始める。
「怖かったから」
「何が!」
「声が下からじゃなかった!」
大地が止まる。
奈々は震えながら続けた。
「壁の中から聞こえた」
真帆の腕に鳥肌が立つ。
「階段なくなってた」
「何?」
「さっきまであったのに。春人閉じ込めた赤い扉のとこ行ったら、用具倉庫の壁になってた」
「そんなわけ」
「だから怖かった!」
奈々は叫んだ。
「私、みんなに言ったと思う。でも誰も信じんかった。春人がどっか別のとこから声出しとるって。いたずらやって」
真帆は思い出す。
《春人、壁の向こうから呼んどる》
誰かが言った。
笑った。
《またやっとる》
《帰ろ》
自分も。
校内放送。
『三人目、みーつけた』
黒板。
《なな ○》
奈々がしゃがみ込んだ。
残り二人。
亮介。
真帆。
午後九時十一分。
「これ、順番ある」
真帆が言った。
「何の」
亮介。
「二十年前、春人に近かった順」
美月は見つけた。
大地は閉めた。
奈々は声を聞いた。
次は。
亮介の顔が強張った。
「俺、何もしてない」
「本当に?」
「してない」
「じゃあ何でそんな顔してる」
「こんなん誰でもなるやろ」
真帆は亮介を見た。
二十年前。
亮介はいつも春人と一番仲がよかった。
同じサッカークラブ。
家も近い。
春人がいなくなってから、一番泣いていたのも亮介だった。
それなのに。
真帆の中に一つだけ、長く蓋をしていた記憶が浮かぶ。
帰る直前。
亮介が一度、みんなから離れた。
《トイレ》
そう言った。
戻ってきた時、手が汚れていた。
白い粉。
「亮介」
「何」
「お前、最後どこ行った?」
「二十年前?」
「うん」
「トイレやろ」
「本当に?」
亮介が真帆を睨む。
「何が言いたい」
その時。
廊下の照明が一つだけ点いた。
本来電気は止められているはずだった。
六年二組の前。
黄色い光。
次。
廊下の先。
一つずつ。
誘導するように点灯する。
階段へ。
一階へ。
五人は黙って光を追った。
中央階段の裏。
用具倉庫。
大地が図面を開く。
「ここや」
「何が」
「図面では倉庫」
目の前にも扉。
灰色。
開ける。
モップ。
バケツ。
折れたほうき。
奥は壁。
何もない。
亮介が言う。
「ほら」
校内放送。
『亮ちゃん』
亮介の肩が跳ねた。
『これ、どけたよね』
倉庫の奥。
壁際に古い鉄製ロッカーがある。
大地と真帆で動かす。
床を擦る音。
後ろの壁。
白いペンキ。
そこに子どもの手形が一つ。
黒い。
亮介が後退する。
「知らん」
『亮ちゃん、俺が出てきたら怒られると思ったんやろ』
「知らん!」
『先生に見つかるから』
「黙れ!」
『だからロッカー動かした』
真帆は亮介を見る。
思い出した。
トイレから戻った亮介の手についていた白い粉。
チョークではない。
壁の粉。
「お前」
大地が低い声を出す。
亮介は壁へ追い詰められた。
「俺は助けようとした!」
「何を」
「階段戻った!」
「じゃあ何で」
「なくなってたんや!」
亮介が叫ぶ。
「奈々の言う通りや! 階段ごとなかった! 壁になってた! でも中から春人の声聞こえた!」
「ロッカーは?」
「声する場所探して動かした!」
「戻した?」
「……」
「何で」
亮介は顔を歪めた。
「怖かったんや」
子どもだった。
暗い学校。
あるはずの階段が消えた。
壁の中から友達の声。
「俺、ロッカー戻して……誰にも言わんかった」
『四人目、みーつけた』
校内放送。
亮介は目を閉じた。
教室へ戻っていないのに、遠くで黒板を引っかく音がした。
きい。
一人残った。
真帆。
六
午後十時。
「最後、私や」
真帆は言った。
誰も否定しない。
「真帆、何した」
美月が聞く。
真帆は答えられなかった。
記憶がある。
でも最後のところだけ、霧がかかっている。
自分は鬼だった。
春人を見つける役目だった。
美月は見た。
大地は閉じた。
奈々は聞いた。
亮介は戻った。
真帆は。
何をした。
スピーカー。
『真帆ちゃん』
「うん」
声が勝手に出た。
『まだ見つけてないよ』
「どこにおる」
『鬼なら探して』
「もうみんな探した」
『二十年前もそう言った』
胸が痛む。
「ごめん」
『何が?』
「帰った」
『何で?』
「暗くなったから」
『それだけ?』
「……」
『真帆ちゃん、俺のこと嫌いやった?』
真帆は目を閉じた。
そこで戻った。
二十年前の昼。
かくれんぼを始める前。
春人と喧嘩をした。
理由はくだらない。
春人が真帆の好きな男の子の名前をみんなの前で言った。
真帆が怒った。
《もう春人なんか知らん》
春人は笑った。
《鬼になったら絶対見つけてや》
《見つけんし》
《じゃあずっと隠れとく》
その会話。
覚えていた。
忘れていたかった。
「嫌いやった」
真帆が言う。
「その時は」
スピーカーは黙っている。
「でも、それだけで」
『見たよね』
真帆の呼吸が止まる。
『最後に』
赤い扉。
大地が閉めたあと。
しばらくして。
みんなが別の場所を捜している間。
真帆は一人で戻った。
階段はまだあった。
灰色の階段。
赤い扉。
扉が少し開いていた。
大地のかけた鍵は外れていた。
隙間。
暗闇。
そこから春人の白いスニーカーが見えた。
春人の目も。
目が合った。
春人は笑った。
指を口へ当てた。
《しー》
見つけた。
真帆は見つけた。
でも言わなかった。
《みーつけた》と。
自分は鬼だったのに。
春人を勝たせたかったわけではない。
少し困らせたかった。
喧嘩の仕返し。
《もうちょっと隠れとけば》
そう思った。
真帆はその場を離れた。
それが最後だった。
次に戻った時、階段は消えていた。
「私、見つけてた」
真帆は床へ座り込んだ。
四人が何も言わない。
「春人見つけた。でも言わんかった」
スピーカーから、小さな笑い。
『そう』
「ごめん」
『まだ終わってないよ』
「何したら終わる」
『見つけて』
「どこ」
『同じとこ』
倉庫の照明が消えた。
真っ暗。
誰かが叫ぶ。
真帆のスマートフォンのライトも消えた。
大地の業務用ライトも。
数秒。
暗闇の中で、壁の向こうから声。
「もういいかい」
近い。
真帆は答えた。
「まあだだよ」
自分でもなぜそう言ったか分からない。
壁の向こうで、春人が笑った。
「もういいかい」
今度はさらに近い。
真帆は立ち上がった。
暗闇で手を伸ばす。
壁。
冷たい。
左へ進む。
「真帆、どこ行く」
亮介の声。
「探す」
「一人で?」
「鬼やから」
壁を伝う。
三歩。
四歩。
指先が何かに触れた。
壁の継ぎ目。
細い溝。
さっきはなかった。
取っ手。
真帆は掴んだ。
「ここ」
「何が」
「扉」
大地が近づく。
ライトはつかない。
「図面にない」
「知ってる」
真帆は取っ手を引いた。
開かない。
壁の向こう。
「もういいかい」
「もういいよ」
答えた瞬間。
扉が内側へ開いた。
七
冷たい空気が流れてきた。
地下へ続く階段。
灰色。
十二段。
下に赤い扉。
真帆は二十年前に戻ったのかと思った。
後ろに四人がいる。
大人の息遣い。
だから今だ。
時計は午後十時三十八分。
「俺らも行く」
大地。
真帆は首を振った。
「鬼だけでいい」
「危ない」
「二十年前も、私が鬼やった」
「今さらルール守るん?」
亮介。
「今さらやから」
真帆は階段を下りた。
一段。
二段。
足音が妙に響く。
後ろを振り返る。
四人は扉の向こうにいる。
その姿が遠く見えた。
十二段しかないのに。
赤い扉。
取っ手は子どもの手の高さ。
真帆は開ける。
中は教室だった。
六年二組。
二十年前のまま。
机。
椅子。
ランドセル。
黒板の日付。
《平成十八年十一月二日》
一日前。
窓の外は夕方。
オレンジ色の光。
時計は四時二十分で止まっている。
「春人」
返事はない。
机の間を歩く。
自分の席。
机の中に、二十年前の筆箱が入っている。
春人の席。
空。
後ろのロッカー。
どん。
真帆は振り返る。
一番右。
「春人?」
どん。
「もういいかい」
中から声。
真帆はロッカーへ近づく。
取っ手に手をかける。
二十年前と同じ。
今度は逃げない。
開けた。
春人が膝を抱えて入っていた。
黄色いパーカー。
十一歳。
「みーつけた」
真帆は言った。
春人が顔を上げる。
笑わなかった。
「遅い」
「ごめん」
「何分?」
真帆は答えられない。
春人がロッカーから出る。
「俺、ずっと待ってた」
「うん」
「何回寝ても、夕方やった」
「うん」
「お腹減らんかった」
「うん」
「でも時間だけ分からんくなった」
真帆は泣いていた。
「二十年」
春人が首を傾げる。
「何が?」
「二十年経った」
春人は真帆を見る。
「嘘」
「本当」
「真帆ちゃん、おばさんやもんね」
泣きながら笑ってしまった。
「うるさい」
春人も少し笑った。
その瞬間。
教室の窓の外が暗くなった。
一気に夜。
机が古くなる。
木が剥がれる。
カーテンが腐る。
黒板の文字が消える。
二十年が数秒で教室を通り抜けた。
春人の顔だけは変わらない。
「帰ろ」
真帆が手を出す。
春人は手を取らなかった。
「まだ」
「何」
「かくれんぼ」
「終わった」
「俺、見つかったやろ」
「うん」
「次、誰が隠れるん?」
真帆は黙った。
そんなルールではなかった。
少なくとも真帆たちのかくれんぼには。
「誰も隠れんよ」
「でも、この学校のルールは違うよ」
「何それ」
春人が教室の後ろを指した。
黒板に文字が浮かぶ。
白いチョーク。
《みつけたひとが つぎにかくれる》
真帆の背中が冷えた。
「知らん」
「俺も知らんかった」
「じゃあ守らんでいい」
「俺もそう思った」
春人の声が小さくなる。
「でも出れんかった」
教室の扉が閉まった。
がちゃん。
真帆が振り返る。
開かない。
「春人」
「ごめん」
「何が」
「俺、真帆ちゃんに見つけてほしかった」
「見つけたやろ」
「うん」
「なら一緒に出る」
春人が首を振る。
「一人しか出れん」
「そんなルール」
「ここが決める」
壁の中から、子どもたちの声が聞こえた。
知らない声。
何人も。
《もういいかい》
《まあだだよ》
《もういいかい》
《まあだだよ》
何十人。
何百人。
この場所は、春人だけを隠していたわけではない。
真帆は扉を叩いた。
「開けて!」
外から大地たちの声。
遠い。
「真帆!」
「開かん!」
春人が言う。
「鬼ごっこじゃなくてよかったね」
「今それ言う?」
「走るのしんどいし」
二十年前と同じ、くだらない言い方。
真帆は春人の腕を掴んだ。
「一緒に出る方法探す」
「ないよ」
「二十年探してないやろ」
「俺には二時間くらい」
「なら今から探す」
春人が少し驚いた顔をした。
真帆は教室を見る。
窓。
扉。
ロッカー。
床。
黒板。
ゲームならルールがある。
真帆はもう一度、黒板を読んだ。
《みつけたひとが つぎにかくれる》
意味は単純だった。
春人を見つけた自分が、次は隠れる側になる。
「なら、私が隠れる」
春人が真帆を見る。
「ここに残るん?」
「残らん」
「でも次、真帆ちゃんやろ」
「うん。だから隠れる」
真帆は閉じた教室の扉を指した。
「外で」
春人が瞬きをした。
「そんなのずるやん」
「隠れる場所、学校の中って書いてない」
黒板は何も変わらない。
春人も黙っている。
真帆は扉の取っ手を握った。
まだ開かない。
「二十年待たせた分、これくらいずるさせて」
壁の中で、何かがざわめいた。
子どもの声が一つ。
《もういいかい》
真帆は扉へ向かって答えた。
「まあだだよ」
声が増える。
《もういいかい》
「まあだだよ。まだ隠れてない」
取っ手の奥で、小さく金属が鳴った。
かち。
真帆は息を止めた。
「隠れる人が場所に着く前に見つけたら、かくれんぼにならんやろ」
春人がようやく笑った。
「真帆ちゃん、昔よりずるくなった」
「三十一やからな」
真帆は取っ手を引いた。
扉が開いた。
「行くよ」
「どこに隠れるん?」
「ここから見つからんくらい遠いとこ」
真帆は春人の手を掴んだ。
二人で飛び出す。
赤い扉。
階段。
上。
大地たちがいる。
「春人!」
美月が叫ぶ。
真帆と春人が壁の扉を越えた。
直後。
階段も赤い扉も消えた。
白い壁。
ただの用具倉庫。
真帆は床へ倒れ込んだ。
春人も隣に座る。
五人の大人が、十一歳の少年を囲んだ。
誰も何を言えばいいか分からなかった。
校内放送。
ざざ。
一度だけ。
『みーつけた』
今度は春人の声ではなかった。
八
午前零時十九分。
正門の南京錠は開いていた。
スマートフォンの電波も戻った。
まず警察へ電話した。
説明はできなかった。
旧朝倉小学校で、二十年前に行方不明になった少年と同じ名前を名乗る子どもを保護した。
それだけ伝えた。
警察が来た。
救急車も。
春人は病院へ運ばれた。
真帆たち五人も事情聴取を受けた。
最初は当然、疑われた。
二十年前の誘拐に関わっていたのではないか。
誰かの子どもを使った狂言ではないか。
DNA鑑定では、春人の母親との親子関係が確認された。
行方不明時の記録に残っていた左膝の古い傷も一致した。
古い写真や身体的特徴を照合しても、別人と考える材料は見つからなかった。
十一歳の久保春人本人。
医学的な説明はつかなかった。
報道はしばらく騒いだ。
《二十年前の行方不明児を保護》
《外見年齢に変化なし》
《捜査当局、経緯を調査》
やがて情報は制限された。
春人は遠縁の親族のもとへ移った。
父親は十年前に亡くなっていた。
母親は再婚して県外にいた。
再会の場には真帆たちは呼ばれなかった。
春人が望まなかったのか。
大人が止めたのか。
分からない。
旧朝倉小学校の解体は一か月延期された。
警察と専門家が調べた。
地下室は見つからなかった。
赤い扉も。
図面にも記録にもない。
用具倉庫の壁を壊しても、向こうは外壁まで一メートルもなかった。
人が入れる空間など存在しない。
ただ一つ。
壁の内側から、古い鉛筆書きが見つかった。
解体のため石膏ボードを外した時。
裏側。
子どもの字で。
《もういいかい》
その下に、年代の違う筆跡が何十個もあったという。
《まあだだよ》
真帆は写真を見せてもらわなかった。
見たくなかった。
十二月。
五人はもう一度集まった。
今度は昼のファミリーレストラン。
明るい。
人が多い。
誰もかくれんぼの話をしようとは言わなかった。
それでも、結局その話になった。
大地が言った。
「俺、あの鍵閉めたこと、ずっと忘れてた」
美月。
「私も見つけたこと」
奈々。
「声聞いたのは覚えてた。でも場所が違う気がして、自分で作った記憶やと思ってた」
亮介はコーヒーを見ていた。
「俺はロッカー動かしたの覚えてた」
「何で言わんかったん」
真帆。
「言ったら、春人が壁の中におるって認めることになるから」
亮介は笑った。
「十一歳でも、それがおかしいって分かるやろ。だから黙った」
真帆は何も言えなかった。
自分も同じだった。
見つけた。
でも言わなかった。
大人になってからも、一度も。
「春人、俺らのこと恨んどるかな」
大地。
美月が言う。
「恨んで当然やろ」
「でも帰ってきた」
「帰ってきたから消えんわけじゃない」
真帆は窓の外を見る。
家族連れ。
小学生くらいの子どもが駐車場を走っている。
一人が柱の陰へ隠れる。
別の子が探す。
見つける。
笑う。
普通のかくれんぼ。
スマートフォンが震えた。
知らない番号。
メッセージ。
《真帆ちゃん》
心臓が止まりそうになる。
次。
《春人です》
真帆は画面を握った。
四人が気づく。
「何?」
「春人」
全員が見る。
メッセージは続いた。
《スマホ買ってもらった》
《LINEじゃないの使いにくい》
十一歳らしい文面だった。
真帆は笑った。
《元気?》
送る。
すぐ既読。
《元気》
《学校行くことになった》
《小6もう一回やって》
《春から中学らしい》
何と返せばいいか分からない。
《よかった》
それだけ送った。
少し間。
春人から写真が来た。
新しいスニーカー。
右足のつま先に青いペンで《H》。
《これ書いてもらった》
真帆の目が熱くなる。
その次。
《そういえば》
《あの日さ》
指が止まる。
《真帆ちゃん、最後にあの場所見つけたやろ》
《うん》
《あれから変な夢見る》
真帆は画面を見る。
《どんな》
返事が来るまで一分。
《学校じゃないとこでかくれんぼしてる夢》
《知らん子いっぱいおる》
《みんな隠れたまま》
真帆は息を止めた。
最後のメッセージ。
《鬼だけおらん》
その瞬間。
ファミリーレストランの店内放送が、一瞬だけ雑音を出した。
ざざ。
真帆は顔を上げた。
店員は気にしていない。
客も。
スピーカーから、子どもの声。
小さい。
聞き間違いかもしれない。
『もういいかい』
真帆のスマートフォンが震えた。
春人から。
《真帆ちゃん》
《次、鬼やって》
かくれんぼで最後まで見つからなかった子が、二十年後に帰ってきた
終
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